その4

「いったぁ〜〜〜〜〜〜…… この野郎、マジで殴りやがって……」
 冷やしたタオルを頬に当てて、タカシは不満気に文句を言う。私はタカシに背を向けて
座ったまま、それに反論した。
『自業自得よ!! あたしが怖い話苦手なの知っててああいう話するなんてこの鬼畜!!
変態サディスト!!』
 思いつくままに暴言を吐きまくる。今は怒りよりも、恐怖のあまりタカシに抱きついて
しまった事が恥ずかしくて恥ずかしくて、穴があったら入りたいどころじゃ済まない。
「そこまで言う事ねーだろ。大体、俺だってここに来た時に聞かされた話だったんだから、
俺ばっかりが悪い訳じゃねーよ」
『アンタは確信犯だから始末に悪いのよ』
 ぶつくさ言うタカシを、私は一蹴した。それからふと、タカシは誰からこの話を聞いた
のかが気になった。背中越しにタカシの方を向いて聞いてみる。
『で、聞かされたって……誰に?』
「泉美さん」
 私は納得した。あの人の性格ならさもありなんと思う。私はまた、前を向くと小さく不
満そうに呟いた。
『だからってそんな話をいちいちあたしにすることないじゃない』
「……悪かった。まあ、正直、あそこまで怖がるとは思ってなかったけど……」
『悪かったわね。怖がりで』
「スマン」
 チラリと後ろを見ると、正座をして頭を下げているタカシの姿が見えた。まあ、このく
らいで許してあげよう、と私は思った。せっかくの再会を喧嘩ばかりで終わらせてはもっ
たいないし。
『もういいわよ。怒るのも疲れたし』
 クルリと体ごとタカシの方を向いた。
『そんな事より、あたし。さっさと疲れた身体を癒したいんだけど』
「どうした? マッサージでもして欲しいのか?」
 タカシの言葉に、私は真っ赤になった。
『ちちち、違うわよっ!! 早くお風呂に入りたいって事!! まだ沸いてないの?』
 するとタカシは、ハッとした顔をすると慌てて立ち上がった。

「やべっ!! 忘れてた」
 ドタドタと風呂場へ駆けていくタカシを見送りつつ、私はそっと心臓を抑えた。顔の熱
は引いたけど、まだ少し、心臓はドクドクと音を立てていた。

「いやあ。やばかった。もうギリギリ。もう少しで溢れ出すところだったぜ」
 風呂場から戻って来たタカシが、私を見て言った。それを聞いて、私は自分のバッグを
引き寄せる。
『それじゃあ、お風呂借りるわね』
「ああ。タオルとかも用意してあるから自由に使ってくれよ」
『タカシのやつ? ちゃんと綺麗に洗ってあるんでしょうね?』
 疑いの目付きでタカシを見ると、タカシは胸を張って答えた。
「任せろ。炊事洗濯掃除。ここに来てから全部、キチンと一人でやってるんだぜ。ま、実
際、時間はたくさんあるしな」
『そんな事にかまけて、研究の方はちゃんとやってるの? アンタ、そっち方面の話はし
てくれないから全然そんな風に見えないんだけど』
「ああ。けど、観測自体は夜だし、一日自由に使えるとなると、家事全般をこなしてもそ
れでもまだ、研究に使える時間の方が多いんだぜ」
 何だか私は、タカシが羨ましくなった。朝、バタバタと出勤して一日中働いたあげくに
疲れきって帰ってきて寝るだけの生活をしている自分が妙に情けなく思えてきた。
『それじゃああたし、お風呂入ってくるけど、くれぐれも覗かないでよ。いいわね?』
 こう言ったのは、別にタカシを疑っての事じゃない。悪ふざけは多いタカシだけど、そ
ういうモラルに関しては結構真面目なのだ。
 ふと、そこで不思議に思う。何で自分はそんな事言ったんだろう? もしかして、私自
身が逆にそうされる事を期待して……
「そんな事しねーって。いい加減付き合い長いんだからさ。ちっとは俺のコトを信用しろって」
 タカシの言葉で、私は我に返った。危ない危ない。何か、もう少しでおかしな妄想に突
入するところだった。
『つ、付き合い長いからこそ信用出来ないんでしょ。こ、こんな山奥の一軒家なんだから、
人目だって無いし……』

 逆に誘うような事を言ってしまった。やっぱり私、期待しているんだろうか。しかし、
タカシは案の定、ムキになって否定してくる。
「お前の目があるだろ? それだけ言うってことは十分警戒してるんだろうし、それに仮
にばれなかったとしても、そんな事したら後ろめたくて今晩まともに目を合わせられないからな」
『分かったわよ。そこまで言うんなら一応、信頼しとく。っていうか、一応、その……牽
制しようと思って言っただけだから』
「言うと却って煽る場合もあるんだぞ。まあ、俺はその……しないけどな」
 タカシはまたも“しない”ということを強調して言った。私は鼻で小さく息を吐く。
『しつこい。分かったって言ったでしょ? それじゃあ、ちょっと借りるわね』
「ああ。俺はその間にメシの支度してるから、ゆっくり入って来い」

 お風呂は広かった。元は大家族用だったのだろうか、湯船は檜で、大人二人が余裕で入
れる広さがある。しかし、見た感じは田舎の古いお風呂なのに、ガス給湯システムだけが
最新式なのが、非常に似合ってない感がある。
 私は、服を脱ぐと丁寧に畳んで脱衣籠に入れた。風呂から出る時には忘れずに回収しな
きゃ。タカシに洗濯物を見られるのは何だか恥ずかしいし。特に下着とか。
 タワシにボディシャンプーを付けてガシガシと体を擦る。今日は一日、信じられないく
らいに歩き回ったから埃まみれだろう。
 ふと、私はタワシを擦る手を止めた。風呂場に掛かっていたから何となく借りてしまっ
たが、これは普段、タカシが使っている奴だろう。それに気付くと、何か急にドキドキし
てしまう。
 タカシが……毎日、これで……体を擦って……
 私は、胸元にタワシを持ってくると、軽く抱き締めるようにしながら、胸を擦った。
「おい、かなみ」
『きゃあっ!?』
 唐突に聞こえたタカシの声にビックリして私は背筋を反り返らせた。
『覗くなって言ったでしょこの痴漢バカへんた――』
 叫びつつ振り返って、私の声は途中で途切れた。タカシの姿は曇りガラスの向こうだっ
たからだ。

「い、いやその……覗きに来た訳じゃねー。つーかその……シャンプーがもうほとんどねー
はずだから、詰め替え用置いとこうと思って」
 そういう事だったのか。何だかホッとしたような残念なような。しかし、一度怒鳴った
事に対して引っ込みが付かず、私は声を荒げた。
『分かったからさっさと出てってよ。覗きじゃなくったって、女の子が入ってる浴室に男
が入るなんて失礼よ』
「分かってるよ。けど、シャンプーが空になってたの、今思い出したんだし、なきゃない
で困るだろ?」
 タカシの言っていることも分かるのだが、曇りガラス越しとはいえ、全裸のシルエット
が見られるのはやっぱり恥ずかしい。私は胸を両腕で押さえて怒鳴った。
『分かったわよ!! だから、もうとっとと置いて出てって。このバカ!!』
「それじゃあここに置いとくから。それとその……悪かった。ゴメン」
 最後にタカシは申し訳無さそうに謝ると、すぐにタカシの影は脱衣所から姿を消したのだった。
『ビックリした…… ていうか、タイミング悪すぎなのよ。よりにもよって、あんな事考
えてる時に……』
 さっきの気持ちが体に蘇ってきて、私は慌てて頭を振ると、さらに勢い良く体を洗い流
したのだった。
 せっかくなので、たっぷりシャンプーも使わせて貰って髪の毛を洗ってから、私は湯船
に浸かった。
『はぁ…………気持ちいい…………』
 急に、全身から溜まっていた疲れがドッと絞り出されたような気分になる。こういう時、
足の伸ばせるお風呂はいい。自分のワンルームだと、一応バスは独立しているものの、湯
船が小さくてどう頑張っても足など伸ばせない。
 ふと、私は自分の裸の体を見つめた。二つの乳房は、ある、と胸を張っていえるほどに
は全然大きくない。ふと、今日会った泉美さんの体つきを思い出す。あの人くらい胸があ
れば、男の人の視線も自然とそこに行くだろうけど。
 泉美さんの事を思い出すと、自然と彼女のあっけらかんとした関西弁のしゃべり口調も
思い出される。しかし、脳裏に聞こえるのはこんな声ばかりだった。

 『せやけどええの? こんな山奥で一人暮らししてる男の家に泊まったりなんかしはっ
 て。襲われても誰も助けてくれへんで?』
 『わっからへんでぇ。タカシ君もな。真面目やさかい風俗なんぞもちーとも行ってへん
 でな。結構溜まっとるさかい、アンタの寝姿なんてみたらこうムラムラっと……』
 『けどな、タカシ君。逆に言うとな。男にはこう、行かないかんときもあるんやで? も
 しかなみちゃんにそんな素振りがあったらな。そん時は全力で落とすんやで』

 ハーッ、と私は深いため息を付いた。
 タカシは……どう思ってるんだろう。もし、今晩……タカシが迫ってきたりしたら……
 心臓がドクン、と大きく鳴る。体はとりわけ念入りに洗って髪も綺麗に洗ったし、万が
一そんな事になったとしても、恥ずかしい事はないはず。体の奥にジュン、と疼きを覚えた。
 タカシが……私を求めてきたら……その時、私は……どうする? どうしよう……
 私は自問する。ううん。そんな事分かってる。拒めない。拒みたくない。むしろ、私の
方から求めてしまうかも…… ほんの一瞬、淫らな妄想が頭の中を占める。それから私は、
急に恥ずかしくなってザブン、と頭まで湯船の中に潜った。
 プハアッ!!
 顔を出して大きく息を吸うと、水気を払うように両手で顔を擦る。危ない危ない。タカ
シの家とはいえ、よその家の風呂の中でおかしな妄想に耽るなんてどうかしている。もう
一回、私は深いため息をついて天井を見上げた。

 『椎水さんてさあ…… あの年で彼氏、いないんでしょー』
 『何か高望みし過ぎなんじゃない? 年収は幾らじゃなきゃやだとか、顔立ちはこんな
 のじゃなきゃやだとかさ』
 『うわ、ありそー。細っかいトコとかうるさいもんねーあの人』
 『あんなんじゃ、結婚なんて無理無理。絶対お局決定よね。40過ぎてもまだここにいたりして』
 『あるある。ていうか、もうお局みたいなもんじゃん』

 更衣室での、高らかな後輩たちの噂話が脳裏に蘇る。くだらない。自分がよく思われて
ないことなんて知ってるし。それに、あそこで噂してる女の子達だって、その場にいなく
なれば結局自分だって悪口言われてるんだし。
 別に、高望みなんて……してないよ……

 「んだよ。寂しそうにしてっから誘ってやったってのに。別にテメーなんて無理強いし
 てまでする程の女でもねーよ。何気取ってんだ。バーカ」

 一度だけ、短大の頃の友達に合コンに誘って貰ったっけ。一人、話の合う男の子がいた
けど……ホテルに誘われて……それで……
 考えれば考えるほど、嫌な方向に向いて行く。そこから考えを逸らそうとすると、今度
はどうしても、タカシの方に頭が行ってしまう。
 タカシは……そういえば、一度もそんな事、しようとしなかったな……
 機会は幾らでもあったはずなのに。夜中遅くまで、二人きりで勉強した事もあった。休
みの日に、何をするでもなく二人でゴロゴロしたことだってあった。二人とも、彼氏彼女
なんていなかったから、高校の頃は特に一緒にいる事が多かった。けど……
 何にも……なかったなあ…… キス、すらも……
 タカシにとって、私は仲の良い幼馴染の女の子に過ぎなくて、恋愛対象としては見てい
なかったんだろうか? ここに来る時だって、あっさりと私を置いて行っちゃったし。今
晩だってきっと……何も無くて、普通に近況とか、昔話とかだけで終わって……
 自信……なくなるな。もう……
 私だって……頑張ってるのに……
 そこまで考えてから、私はパッと頭を上げた。
『ええいっ!! もうやめ!! やめやめやめ!!』
 そう叫ぶとブンブンと頭を激しく振った。
『こんな所でいつまでも鬱な考えに耽っていてもどうしようもないわよ。悩んでたって、
タカシが何かしてくれる訳でもないし』
 ザバッと湯船から立ち上がった。
『もう出よ。今晩の事は……なるように、なれだ!!』


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