その5

 風呂から上がると、タカシの姿は無かった。とはいえ、台所から物音がするので、きっ
と夕御飯の支度をしてくれているのだろう。
 私はまた、縁側に出ると、サッシの窓を開けて外から風を呼び込んだ。
 フウ……
 涼しい風が、火照った体を冷やしてくれる。濡れた髪にも心地良い。お風呂に長い事浸
かって血行が良くなったせいなのか、筋肉がほぐれたせいなのか、ドッと疲れが押し寄せ
る。軽く揉むと、痛みが走ったが同時に気持ちよくもあった。
 こういう時、マッサージなんかして貰うと、すごく気持ちいいんだろうな。
 そこで私はハッとする。今、ここはタカシの家な訳で、私とタカシしかいないんだから、
マッサージして貰うとしたら、つまりそれはタカシにして貰うというわけで、でもでも、
今はタカシは私の為に夕食の準備をしてくれている訳だからそんな邪魔しちゃ悪いし、そ
れに、全身を揉んで貰うなんて、やっぱり恥ずかしい。
 けど……やっぱり、して欲しい、かも……
 悶々と葛藤していると、ヒョイとタカシが顔を出した。
「よお。上がったんなら声掛けてくれれば良かったのに」
 ドキッ、として私は、僅かに体をビクンと震わせる。ちょっとだけタカシの方に顔だけ
向けてから、すぐにプイッと反対方向を向いた。
『な、何だか忙しそうだったから、声掛けた方が迷惑かなって思っただけよ』
 何だか凄く気恥ずかしくて、私はまともにタカシの顔を見れなかった。理由は分からな
い。マッサージして貰おうと思った事を意識しすぎているんだろうか。それとも、Tシャ
ツ短パンで素足をモロに露出したこの格好のせいだろうか? タカシの前で部屋着でいる
事なんて、昔は良くあったことだから別にいいかと思ったのだけど。それとも、両方なの
か、さらにその他諸々いろんな理由があるのかも知れない。
 しかし、タカシはそんな事を気に留めた風もなく、普通に納得したように答えた。
「そっか。いや。かなみが出たら俺も入ろうかと思ってさ。もう飯の支度も大体終わったし」
『何それ? あたしの食事より自分のお風呂の方が大切なの? 信じられない。人がお腹
空かせてるのに』
 私が文句を言うと、タカシは困ったように笑った。
「いや。今ちょうどご飯を蒸らしてる最中だからさ。俺は風呂なんて15分くらいで済むか
ら。にしてもお前は長かったなー。一時間ぐらい入ってたんじゃね?」

 そう言われて、私は時計を見ようと首を巡らした。壁に掛かっていた古い時計が目に入
る。時間は6時半を指していた。そんなに入っていたかな、と疑問に思いつつも私は答えた。
『……おっきなお風呂なんて久し振りだから、つい長湯しちゃったのよ。大体アンタなん
てサッと洗って出てくるだけじゃないの? 逆に不潔なんじゃない。それって』
「不潔とは失礼な。体はちゃんと洗ってるぞ。けど、まあ広くて気持ちが良いってのは分
かるけどな。俺もたまにぬるい湯に一時間以上浸かって音楽とか聞きながらボーッとして
過ごす事もあるし」
『随分と優雅な生活送ってんのね。ちゃんと研究とかやってるの?』
「活動時間は主に夜だからな。夜が明けるまで星を見て、明け方から昼過ぎまで寝て、あ
とはレポートをまとめて、論文作ったりとか。まあ、好きな事やってる訳だから優雅っ
ちゃあ優雅だな」
 笑顔で話すタカシが何だか羨ましく思えた。
「と、さっさと風呂入ってこないと。今日はかなみが来るって言うから、ビールもたくさ
ん冷やしてあるしな。こればっかりはやっぱ風呂上りじゃないと」
『何だかんだ理由付けてたけど、最大の理由はそれか』
 と、私がつっこむと、タカシはハハハ、と笑った。
「まあ、そんな訳でちゃっちゃと入ってくるからさ。かなみはテレビでも見て待ってろよ」
 そう言って立ち去ろうとしたタカシを、私は思わず引き止めてしまった。
『あ、ちょ、ちょっと待ってよ!!』
 風呂場のほうへと向きかけたタカシが、私の方へと向き直る。
「何だ? 何か用でもあるのか?」
 う……と、私は口ごもる。咄嗟に引き止めたのは、マッサージの事が頭を過ぎったから。
今、タカシが風呂に入ってしまえば、もう機会は失われてしまう。けれど、引き止めたら
引き止めたで、やっぱり迷いが生じてしまった。欲求と羞恥心がせめぎ合う。
「何だよ。呼ぶだけ呼んで黙っちゃって。用がないんなら、俺、もう行くぞ」
『待ちなさいって言ってるでしょ? せっかちなんだから、もう!!』
 私は苛立って声を荒げる。人がこんなに悩んでいるのに、タカシと来たら人の気も知ら
ないで自分の事ばかり考えて。そう腹立たしく思ってから、私は思い直した。タカシはま
さか私の気持ちなんて知らないんだから、そうやって急かしても仕方がない。私がタカシ
の立場なら、もっと激しく文句を言うだろう。

 私は小さく吐息をつく。どのみち、引き止めてしまった以上、もう覚悟を決めるしかないのだ。
『あの……さ……』
 いざ、お願いするとなると、やっぱり恥ずかしい。けど、せっかくタカシに会えたのに、
恥ずかしさに負けて、したい事も出来ないようじゃもったいない。
 勇気を振り絞って私は言った。
『マッサージ……してくんない、かな?』
 言った。言ってしまった。恥ずかしくてまともにタカシの顔を見れない。タカシはどん
な顔をしているんだろう? 顔に血が上るのを私は感じた。こんな顔、タカシに見られた
くはない。
「マッサージって、俺がか?」
 間の抜けたような声でタカシが答える。あまりに普通すぎる対応に、私はカチンと来た。
『そうよっ!! 他に誰がいるって言うのよ』
 私はバッと顔を上げると、タカシの方を向いて怒鳴った。
 うー、イライラする。あたしがこんなに胸をドキドキさせて緊張しながらやっとの思い
でお願いしたってのに、何でタカシはああも普通なんだろう。田舎暮らしで若い女の子な
んて周りにはいないはずだし、もう少しドキドキしてくれたっていいだろうに、その気振
りすら見せないなんて。
 タカシは真顔で私の顔を真っ直ぐに見て、ほんの少しだけ間隔を空けてから言った。
「お前さ。さっきマッサージしてやろうかって聞いた時、断らなかったっけ?」
『へ……?』
 今度は私がキョトン、とする番だった。
 そんな事、あったっけか……?
 私は必死に思い返す。そう言えば、風呂を沸かす前にタカシが冗談でそんな事を言って、
私が怒鳴り返したような気がしてきた。
 思い出すと、私は即座に言い訳を考えた。これだけ恥ずかしい思いをしてお願いしたの
に、何の気も無しに言った言葉で無駄になるのだけはゴメンだ。
『あ……あの時はあの時よ。大体アンタがふざけて言うから、スケベ心でも持ってんのか
と思ったし…… い、今はその……風呂から出たら、誰かにマッサージして欲しい気分に
なっちゃって、でもその……ここにはアンタしかいないんだから仕方ないでしょ?』

 うう……何でこんな言い訳をしなきゃならないんだ。私は恥ずかしさで顔を赤くしつつ、
何の考えもなくタカシの申し出を一蹴した自分の愚かさ加減を呪った。
 タカシはちょっと黙って考え込んでから答えた。
「うーん。でもなあ。今からやってたら飯食うの遅くなっちゃうぜ」
『いいわよ、別に。ていうか、せっかくあったまってる今が一番気持ち良いんだから、後
にする訳にはいかないのよ。大体、アンタには拒否権なんてないんだし』
「何故に?」
 と、タカシが聞き返すので、私はついでに思い出した事を口にした。
『私に嘘付いて、ここまで引き摺り回した件。責任取ってくれるって言ったでしょ? 今
ここで、その約束を果たして貰うわよ。さあ』
 うん。この理由は効いたようだ。タカシはうっ、と言葉に詰まり、少し迷ったようだっ
たが、さすがに観念してため息を付いた。
「わかったよ。けど、飯の前には俺も風呂に入らせて貰うからな。これだけは譲れないぜ」
『全くもう…… まあ、しょうがないからそれくらいは我慢してあげるからその……さっ
さとしなさいよね』
 座布団を縦に並べて、私はその上にうつ伏せに寝そべった。その上に、タカシがまたがる。
『言っとくけどね。腰下ろしちゃダメだからね。ちゃんと膝付いて、あたしに体重掛から
ないようにするのよ。いいわね?』
「分かってるよ。ほれ、行くぞ」
 合図と同時に、肩の辺りがグッと指で押されるのを感じた。
『あいっ!! ……たぁ〜……』
 一番硬い所をいきなり押されたものだから、私は思わず変な声を上げてしまった。
『あつつつつ……うぅ〜……』
「随分と凝ってんな。ガチガチじゃねーか」
 肩から背骨の線に沿うようにして、タカシの指が指圧しながらゆっくりと下がり、また
上から揉み解していく。
『事務職ってね。肩とか腰とかすごく負担掛かるんだから……あ゛ーっ』
「一日中座りっ放しだもんな。目も疲れるし……お、ここ硬いな」
 グリグリと押されて私は思わず身悶えした。
『いだいいだいいだい!! ちょ……少しは手加減してよ!!』

「加減したらマッサージになんないし。腕も揉むか?」
『うん……』
 タカシは、私の上から体をどけると、横に座りなおす。そして腕を取って同じように筋
肉の疲れているところを探し出しては揉み解した。
『イタタ…… てか、アンタって、マッサージは上手なのね……』
「知らなかったのか? ガキの頃はお前んちのおじさんの肩とか腰も揉んでやってたろ?」
 そう言えばそんな事もあったな、と私は心地良さに身を委ねながら昔を思い返した。
 子供の頃は良かったな……悩みとか不安とか、何にも無くって。ただ、毎日が楽しくっ
て、先の事が楽しみで……タカシが傍にいるのが当たり前で……
「よし。今度左腕やるから、仰向けになれよ」
 何だか気持ち良くって、答える気力も無く、言われるがままに私は仰向けになった。
 あ……でも、何か……今も、幸せかも……
 タカシが、私の腕を取って、熱心にマッサージしてくれている。そんな姿をこうやって
見つめていられるだけで、何だか私はとても嬉しかった。
「よし。腕終わり。今度は腰揉むから、ほれ」
 タカシがうつ伏せになるよう私を促す。何か、あまりにも気分が良かっただけに、私は
何だか不満に思ってしまった。
『えー。何かおざなりすぎない? 何かまだ物足りない気分なんだけど』
 思わず文句を言ったが、タカシに即、却下される。
「もう十分やったって。ほれ。さっさとせんとどんどん時間がズレてくからな」
『わかったわよ。ほら』
 渋々の体で私は再びうつ伏せの姿勢を取った。胸が座布団に押し付けられたが、うつ伏
せになっても潰れるほど胸がないのはちょっと悲しい。
 タカシが腰に手を当てるのを感じて、私は思わず声を上げた。
『ちょっと!! その……変なトコ触ったら承知しないからね!!』
「お前な。自分からお願いしたんだからちっとは俺のこと信用しろよ」
 呆れたように言われて、私は恥ずかしくなってムキになって言い返した。
『わ、分かってるけど念のためよ!! 念のため』
 たかが腰を触られたくらいで、何であんな事言っちゃったんだろう。タカシが何も考え
てなかったとしたら、却って意識させてしまっただろう。

 それとも……意識して欲しかったのかな……
 グッと腰の凝っている所が強く押されて私の思考は中断した。
『あいっ…………フゥ……』
「やっぱ、腰も相当硬くなってるな。お前、何か運動とかした方がいいぞ」
『余計なお世話よ。あんたと違ってこっちは朝から晩まできっちり働いてますから、なか
なか時間取れないのよ』
 言い訳にもならない言い訳をする。運動した方がいろいろといいのは分かってるし、そ
れに忙しいって言っても、決算期を除けば定時には帰れている。要は自分がだらしないだ
けなのだ。
 こんなのはタカシに対する言い訳じゃない。自分に対するごまかしだ。
 と、その時、私の体の上でタカシが体を動かすのが感じられた。もう腰も終わったのか。
もうちょっとやってくれても良かったのに……
 ポワーンとした頭でそんな事を考える。と、その時だった。
 タカシの手が、いきなり私の太ももの付け根に触れた。
『きゃあっ!!』
 私は慌てて跳ね起きると、タカシを睨み付けて怒鳴った。
『どこ触ってんのよ、このスケベッ!!!!』
 タカシは驚いたようにポカンとした顔つきで私を見つめていた。それから、たどたどし
く言葉を発する。
「いや、その……マッサージの続き、しようと思っただけだけど……」
『変なトコ触るなって言ったでしょ? あたしの話、聞いてなかったの?』
 怒りまくる私を前に、タカシは困ったように弁解した。
「いや。変なトコって、尻の事かと思って。普通だったら、腰の後に尻のラインを指圧し
て、それから太ももをやるんだけど。まあ、さすがに尻はマズイから飛ばしたんだけどさ」
 膨れっ面のまま私は黙り込んだ。いきなり触られたからビックリしてあんな事を言って
しまったけど、確かに女性のマッサージ師とかにやって貰えばそうかもしれない。そもそ
も、マッサージなのに太ももに触られただけでスケベとかって、私の方が自意識過剰なん
じゃないだろうかとすら思えてきた。
「まあ、確かに断りもせずにやったのは悪かったかもな。ゴメン。もし不快だったら――」
『いい』

 私はタカシの言葉を遮って言った。
『その……あたしも、急に触られて驚いただけだから。だから、その……続けてくれる?』
「いいのか? 別に膝横とかふくらはぎだけでも――」
『いいって言ってるでしょ!!』
 また私は怒鳴ってしまった。止めろといったりしろと言ったり、我ながら我儘な女だな、と思う。
『その……で、できれば中途半端では終わらせたくないから。けどその……お、お尻は遠
慮しとくからね』
 やっぱりそこまでの勇気は出ない。
「分かった。じゃあ始めるけど……付け根はどうする?」
『いいよ。別に、お尻にさえ触らなければ』
 タカシは無言で、マッサージを再開する。タカシに素足の太ももを触られている。何か
そっちの方に意識が集中してしまって、私の胸はドクンドクンと高鳴っていた。自分でい
いよ、とは言ったものの何だか、とても恥ずかしい。
「今度はさ。仰向けになって」
『え? あ…… うん』
 言われるがままに仰向けになると、タカシは膝を持って私の左足を広げさせる。
『ちょ、ちょっと。何すんの?』
「腿の内側をマッサージすんだよ。ここが実は、結構効くんだって」
 タカシの両手が、包み込むように膝を押さえ、それからスッと、付け根の部分まで撫で
るように移動した。
『――――!!』
 声を上げるのを辛うじて押さえ込んだ。ゾクリ、とする感覚が背筋を走る。
 落ち着け、私。これはあくまで、普通のマッサージだから……
 自分に言い聞かせた途端、タカシの親指がグッと腿の付け根を押さえ込んだ。
『あいっ!! っう〜〜〜〜〜〜〜』
 思わず体を起こしかけるほどの痛みと気持ちよさが同時に走る。付け根から膝まで、ゆっ
くりと腿の内側をタカシは揉み解した。
『あいたっ。イタタタタタ……』

 何だかもう、イタ気持ち良いのと恥ずかしさが同居して、私は良く分からなくなってい
た。一つだけ分かったのは、何だか私の気分がとてもエッチな風になっていたという事だ。
 だって、タカシに体を委ねて為すがままにされるという点では……同じ事、なのだから……

 私は、座布団の上に仰向けになったまま、心地良い気分に浸りながら天井を見上げてい
た。
 タカシは私の足元で、指圧して疲れた指をほぐしている。
『……終わったの?』
 私は聞いた。といっても、もう全身を揉んで貰ったのだから、やる場所なんて残ってな
いだろうけど敢えてそう聞いたのは、ひどく残念な気持ちだったからだ。
 しかし、タカシは首を振った。
「いんや。まだ一箇所、重要な所が残ってる」
 そう言うと、タカシは私の足を掴んだ。
「足つぼまできっちりやっておかないとな」
 そう言うと同時に、両手の親指で、力一杯私の足の裏を押した。
『あいっっっっっ……たたたたたた!!!!! ちょちょちょ、ちょっと、痛い痛い、痛
いってば!!』
 イタ気持ちいいなんていうレベルじゃない。本当に痛い。私は身をよじって叫んだ。
「これで痛がるって事は、お前、相当体良くないんじゃないか? ここらへん、肝臓とか
だし。ほれ」
『いいーーーーーっっっっ!!!! たたたたたた……お願いだからもっと優しくしなさ
いよ!! ねえ、ねえってば!!』
 哀願する私の声も、タカシは無視した。いや。何か今までで一番楽しがっているように
見えるぞ。
「ダメダメ。中途半端じゃイヤだって言ったのはかなみだしな。ほれ」
『あいだだだだだだ!!!! ちょ、そこダメ!! 痛いってばあ!! やあっ!!』
 痛みに悶えながら私は、これがワガママ言った私に対するタカシの仕返しなのではない
かとすら思えるのだった。

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