その6

「よし、終わり。どうだ? 気持ち良かったか?」
『鬼……悪魔……サディスト……冷血漢……』
「ハハッ。じゃあ俺は風呂入ってくっから」
 そう言ってタカシは笑って風呂場へと姿を消した。私はぐったりとしたまま体を横たえた。
『タカシの奴……ほんっと、容赦ないんだから……あれ、絶対拷問よ……』
 足つぼマッサージで痛めつけられた私はブツブツと文句を言う。しかし、タカシの技術
は素人にしては中々のもので、終わった今は何だか非常に心地良い。
『にしても……何か……しないと……ファ……寝ちゃいそう……』
 体を半分起こし、テレビのリモコンを引き寄せて電源を入れる。真面目そうなおじさん
が淡々とニュースを読み上げる様子はどうやら某公共放送のようだ。つまらないからチャ
ンネルを幾つか変えてみる。バラエティーも旅番組も見る気しないなあ、と思っていると、
すぐにチャンネルは一周してしまった。
『何これ……局、すくなっ!!』
 ついつい関東地方の気分でチャンネルを回していたが、そういえば地方は局数が少ない
んだっけか。
 私はテレビのリモコンを放り出して、ゴロンと寝転がる。
『…………すること……ないな……』
 携帯見れば、友達からメールの一件や二件は届いているかも知れない。けど、そんな現
実に帰るような真似はしたくなかった。一瞬だけ、バッグにチラリと目をやるが、すぐに
私は視線を逸らす。
『何か……違う世界にいるみたい…… タカシとあたし……二人だけの……』
 いっそ、それだったらそれでもいいかも知れない。ここが違う世界で、私は迷い込んだ
人間で、でももう元の世界には戻れなくて…………
 ピンポーン
 ん……? 何かどこからか音が聞こえてくる。随分と遠いような……
 ピンポーン
 今度ははっきりと聞こえ、私はガバッと身を起こした。ほんの一瞬、眠たさに負けてう
たた寝したらしい。

 ピンポーン
 三度目のチャイム。こんな時間に誰だろう? もっとも、こんな時間と言ってもまだ7
時ちょっと過ぎで、都会なら夜遅くもなんともない時間だが、日が落ちてから山奥の一軒
家を訪ねる人なんて滅多にいないはずだ。
 ピンポーン
 私は出るかどうか躊躇った。恐らくはタカシの知り合いなのだろうが、やはり人の家に
玄関に出るというのは躊躇いがある。
 けれど、私は思い直した。すぐ下の集落からでも10分くらいはかかるというのに、この
まま引き返させるというのも何だか悪い気がする。話しだけでも聞いて、タカシに会う必
要があるのなら、玄関先で待ってて貰えばいい。
 私は腰を上げた。随分と待たせているので、もう帰ってしまったかも知れないな、と思
いつつ私は玄関に急ぐ。
 電気を点けるとシルエットが浮かんだ。まだ帰ってはいなかった。急いで鍵を開け、引
き戸を開けた。
『こんばんわ〜』
 扉を開けるなり、にこやかに挨拶してきたのは、今日の夕方、下の集落で出会った泉美
さんだった。
「あ、どうも。こんばんわ」
 私は、いささか戸惑い気味に挨拶する。こんな夜にどんな用事なんだろう? と、私は
訝しく思った。
『あれ? かなみちゃんやん。タカシ君は?』
『タカシでしたら、今、風呂に入ってますけど。多分もう5分くらいもしたら出てくると
思いますけどね』
 ほんの少し、泉美さんは考え込むような顔をしたが、すぐに私に向かってニッコリと微
笑んで言った。
『まあええわ。タカシ君には会わんでも、ちょっと差し入れ持ってきただけやし』
『差し入れ……ですか?』
『せや。ほれ』
 泉美さんは手に持った風呂敷包みをはい、と差し出した。

『……いいんですか? あたしが受け取っても』
 そう聞くと、彼女は頷いた。
『ええよ。お二人にと思うて持って来たもんやし。良かったら開けて見てみる?』
『え? あ…… はい』
 勧められるがままに、私は玄関に正座して座ると風呂敷包みを床に置いて広げた。中か
ら出て来たのは二段重ねの重箱だった。そのままフタを開けてみる。と、中に入っていた
のは、大根と手羽先の煮物だった。
『どや? 見た感じ上手く出来とるやろ?』
 玄関先に腰を下ろした泉美さんが、自信たっぷりに言う。私はしげしげと中の料理を見
つめた。鶏肉も柔らかそうだし、大根も人参もよく味が染みて美味しそうだ。他に彩りを
良くする為か、さやえんどうも入っている。
『ホント美味しそうですね。泉美さんが作ったんですか、これ?』
『そうよ。我ながらええ出来やとは思っとったねんけど、気に入って貰えて嬉しいわ。あ。
ほれほれ。もう一つの方も』
 自画自賛するあたりはよほど自信があるんだろう。しかし、ここまでスパッと言われる
と、もはや気持ちが良いくらいだった。
『あ、そうですね』
 言われるがままに煮物の入った入れ物を持ち上げてみると、その下の段には蓮根の素揚
げが入っていた。
『こっちはな。お酒のおつまみにええやろと思うてな。お塩でも醤油でも美味しいんやで』
 楽しそうに話す泉美さんを前に、私は戸惑い気味に聞いた。
『でも、どうしてこんな……いいんですか? 本当に』
 すると彼女は、イタズラっぽくニコッと笑って答えた。
『いやあ。せっかく東京から彼女が訪ねて来てんねんのに、タカシ君の料理だけじゃちょっ
とばかし寂しいやろ思うてな。まあ、ウチからのおせっかいみたいなもんやし、遠慮なく
食べてや』
『済みません。気を使って頂いて有難うございます。あとそれから、昼間も言ったとは思
いますけど、私は別にタカシの彼女じゃありませんから』
 お礼を言いつつも、私はキチンと突っ込むべき所には突っ込んだ。すると泉美さんはあ
っけらかんとした笑いを浮かべる。

『アハハッ。ゴメンゴメン。そう言った時のかなみちゃんの反応、あんまりにもおもろい
もんやからつい言うてもうて。気に障ったんなら堪忍な』
 からかわれたと知って、私は少し気分を害した。
 それにしても泉美さんは、フランクというかフレンドリーと言うか、ほとんど初対面の
私に対しても随分と親しげに話すものだと私は思う。もっとも、それ自体はさほど気にな
らないし、むしろ好感が持てるくらいだ。恐らくそれが彼女の持ち味なのだろう。そうい
う風に人と接する事の出来る彼女を、少し羨ましくも思ったりした。
『別に、そんな…… 大して気にしてやしませんけど。大体、同じような事は今日、散々
聞かれましたから』
『あっはははは。せやろうなあ。特に商店街とか行くと、噂好きのおばちゃんらがぎょう
さんおるで』
『ええ。お陰様で、今日は同じ説明を何度したか分かりませんから、今更気に障ることな
んてありません』
 と、私はブスッとした声で答えた。明らかに矛盾している。
 すると、泉美さんはちょっと真顔になると、私の顔をジーッと見つめた。その様子に、
私は戸惑いを覚える。
『え、っと……な、何ですか?』
『なあ。一つ聞いてええか?』
 声を潜めて聞いてくるので、私は訝しげに思いながら頷いた。
『え、ええ。どうぞ』
 すると泉美さんは、私の顔をジーッと見つめて、言った。
『かなみちゃんは……タカシ君の事、どう思うてるん?』
 単刀直入に聞かれて、私は一気に顔が赤くなった。
『えっ!? あ……あたしですか?』
『そうよ。あんたらが付き合うとらんちゅうのはよう分かったけどな。かなみちゃん自身
はどうなんかなー、思うて』
『そっ、そんな事聞かれても、タタ、タカシはその、幼馴染で家がすぐ近所で、小さい頃
はずーっと一緒にいて、だからその……まあ、友達っていうべきなのかな……』
 あたふたと答えるが、泉美さんは首を横に振った。

『あんたらの関係なんて聞いとらんて。ウチが聞いとるんはな、かなみちゃんがタカシ君
の事を好きかどうかっちゅう事や』
 必死でかわそうとした答えをあっさり切り捨てられ、質問の確信に触れられて私は何だ
か袋小路に追い詰められたような気分になった。
『なっ……ななななな、何でそんな事、今日会ったばかりの泉美さんに言わなくちゃなら
ないんですかっ!! 意味が分かりません』
 すると泉美さんは腕組みをして、難しい顔をしていたが、やがて顔を上げてジッと私を
凝視して言った。
『ウチが聞きたいから……じゃ、あかんの?』
『ダメですよ、そんなの。いちいちあたしが答える義理はありません』
 あまりにストレートな答えに、私は半ば呆れて一蹴した。すると泉美さんはカラッとし
た笑顔を見せて言った。
『まあまあ、そう冷たい事言わんと。タカシ君、お風呂入っとるんやろ? 女同士なんや
し、気ぃ使うことあらへんやん。それにな。初対面言うたけど、こういう話って逆にそこ
そこ知り合うた人にこそ、何か言いにくい事ってあらへん?』
 確かに、一理ないこともない。今は顔も知らないネット上の人に恋愛相談を持ちかける
時代だ。初対面の人にこんな話をしたとしても、向こうも自分の事を良く知らない訳だか
ら、先入観なく話を聞いてくれるだろう。けど、だからと言って面と向かってこういう話
をするのはやっぱり気が引ける。
 すると泉美さんは聞き方を変えて、より具体的な質問をして来た。
『ほなら、こういう聞き方はどうや? かなみちゃんは、タカシ君の事、好きなん? 嫌
いなん?』
『そういう聞き方、ズルイと思いませんか? 二者択一で答えられるような事じゃないと
思いますけど』
 私は何とか質問を回避しようと、そう文句を言った。何も、私の気持ちを泉美さんに話
すことは無い。聞くのは向こうの自由だけど、答えないのは私の自由だ。
 すると、泉美さんはこう言った。
『まあええわ。自分から言いたくない事もあるもんなあ』
 一瞬、諦めたのかと思い私はホッとした。しかし、それはどうやら甘かったようだ。す
ぐに泉美さんは、こう付け加えた。

『せやったら、ウチが質問するから、かなみちゃんはそれに対して、はいかいいえかで答
えてくれるだけでもええわ。それやったら、余計な事まで言われへんでええやろ?』
 むぅ。なかなかしつこいな。しかし、さすがに全部だんまりで泉美さんとの関係が悪く
なってタカシに迷惑が掛かると困る。それに何故か、質問には答えたくなかったが彼女の
醸し出す雰囲気そのものは不快ではなかった。
『分かりました。けど一つだけ、答えたくなければパスありでいいですか?』
 しかし泉美さんは首を振った。
『それやったら、全部パスされてしまうさかいあかんて。まあ、どうしても答えに困る質
問やったら、聞き方変えるさかい、それでええか?』
『う…… わ、分かりました。けど、あんまり変な事聞かないでくださいね。あと、あた
しが帰った後でタカシに言うのも無しですから』
『安心し。女同士の話やから、タカシ君には絶対にしゃべらへんで。それだけは約束するわ』
 私は渋々、頷くしかなかった。


その6−2

『ほな、最初に聞くけど、かなみちゃんてタカシ君のコト、嫌いやないんやろ?』
『そ、そりゃまあその……嫌いって程じゃないですけど……』
 ごまかすような肯定の仕方を私はした。すると、泉美さんはうんうんと頷く。
『せやろな。せやなかったら、いっくら幼馴染ゆうても、わざわざこんな所まで会いに来
たりはせえへんもんな』
『だから、別にあたしはタカシに会いに来た訳じゃなくて――』
『じゃあ、何しに来たん?』
 ムキになって言い返そうとした私の言葉を遮って泉美さんが聞いてきた。私ははたと返
答に困った。何しに来たと言われても……目的なんて別にあった訳じゃないし、けどタカ
シ以外に目的なんて言われても……
 悩んだ所で、ふと、私はある事を思い出した。
『泉美さん。今の質問、ズルイですよ』
『何でや?』
『だって、はいかいいえかで答えるだけでいいって言ったじゃないですか。今の質問だと、
答えられないからスルーでいいですよね』
 うっ、と今度は泉美さんが言葉に詰まる。
『そ、そうやったな。ほなら、今の質問は無しちゅうことで』
 私は内心、ホッと胸を撫で下ろした。しかし、安心するのも束の間。すぐに泉美さんは
別の質問をしてくる。
『なら、聞き方変えるわ。タカシ君に会いたい、思う気持ちはあったん? なかったん?』
 私はドキッとした。ここに来た目的は、それはもちろん……タカシだけど、だけどそれ
をやはり、それを素直にハイと認める事は出来なかった。
『ち、違います。さっきも言いましたけど、別にその……旅費が大してなかったからここ
に来ただけで、タカシに会いたいとかは別に……』
『嘘やろ?』
 私の、言い訳めいた否定の言葉を、彼女は一言の元に否定して、人差し指で私の鼻の頭
をグッと押さえた。
 びっくりして私は、パッと体を引くと、右手で鼻を押さえた。
『いっ、いきなり何するんですか!!』
 すると彼女は、ケラケラと大声で笑った。

『アッハハハハ。ゴメンゴメン。かなみちゃんの顔見てたら、ついやってみたくなっても
うて。堪忍な?』
 私は、触れられた鼻の頭を指で擦ると、唇を尖らせて彼女を睨み付けた。
『イタズラでもそういう事するの止めてください。ビックリするじゃないですか』
『分かったって。もうせえへんよ』
 そう笑顔で約束した後、泉美さんは真顔になり、私の目をジッと見つめた。
『な……何ですか?』
 思わず、無意識に私は体をちょっと引いてしまう。
『で、もう一回聞くけど、さっきの質問の答え……それって嘘やろ?』
 ズバリと確信を突かれて私は慌てた。
『ななな、何で嘘なんか付かなくちゃいけないんですか!! そんな事言うんだったら、
もう質問に答えませんよ』
 すると、泉美さんは軽く笑みを浮かべて言った。
『フフッ。かなみちゃんて、嘘の付けへん子なんやな? すぐ顔に出てまうわ』
 私はパッと顔が赤くなるのを感じた。両手で咄嗟に頬を押さえる。
『な、何言ってるんですか。私は嘘なんて……』
『あ、ほら。ついとる』
 泉美さんは微笑んで言葉を続けた。
『さっきから、タカシ君関係の事、ごまかしよる時のかなみちゃん。目ぇがうちから視線
外そうとするし、それに微妙に下唇が突き出てるんや。自分では気付かん癖やろけどな。
どっかやましいトコがあるからそうなるんとちゃう?』
 再び胸がドキッとする。今度は鼓動はおさまらず、小さくドキドキと鳴り続けた。
『そんな……やましいトコなんて…… 大体、今日会ったばかりなのに、よくそんな事わ
かりますね。泉美さんこそ、口から出まかせじゃないですか?』
 確信を射抜かれたのに、まだ認めたくなくて私は彼女にまで失礼な事を言ってしまった。
すると、泉美さんは私の顔を両手で優しく包み込むと、私の顔を、真っ直ぐに彼女の方へ
と向けさせた。
『あかんわ。そないなこと言うとったら。もっと素直にならな』
『な……何するんですか。離して下さい……』

 しかし、彼女は手を離さず、私も敢えて抵抗しようとまではしなかった。すると彼女は、
私の目を奥底まで覗き込むかのように見つめた。
『タカシ君に会いに来たんやろ? わざわざ東京から。それやのにかなみちゃんがそんな
事やったら、せっかくの再会もええ雰囲気にならんで?』
 ザックリと心に深く突き刺さるような言葉だった。私は顔を背ける事はおろか、目線を
外す事すら出来ずに、泉美さんの視線を浴び続けた。
『い……いい雰囲気だなんて、そんな……』
『なりたいんやろ?』
 そう問われて私は言葉を失った。これ以上、いくらごまかしの言葉を続けたところで、
彼女には全て見透かされてしまうような気がしたからだ。騙せるのはあくまで自分の心だ
け。けれど、自分自身を騙した所で、残るのは苦い後味だけだ。
 すると不意に、泉美さんは両手を離して私の顔を解放した。深いため息をついて首を振る。
『あっかんわあ、もう…… そんなん態度やったら、今晩はもう諦めた方がええわ』
 呆れたような態度で首を振る泉美さんに、私は少し苛立ちを覚えた。
『何ですか。その諦めた方がいいってのは』
 そんなの、まだやってもいないのに分からないじゃない。
 と、私は心の中で付け加えた。
 すると泉美さんは真顔で私をジッと見つめて言った。
『ウチがこう言うのも何なんやけどな。あれ、相当の朴念仁やで』
 それには全く持って同意だった。私は思わず頷いて言った。
『ホントですよ。アイツったら昔っから……』
 ハッと気が付いて慌てて口を押さえる。が、もう遅かった。泉美さんが嬉しそうに相好を崩す。
『昔っから……何やねん?』
 私は小刻みに首を横に振って答えた。
『いいい、今のはその……何でもありません!! わ、忘れてください!!』
 しかし、泉美さんは私の言葉など無視して、こう続けた。
『二人っきりで一緒におっても、何っにもしてこうへんねん、とか?』
 私は、みるみるうちに顔が真っ赤になるのが分かった。
『ちちち、違いますってば!! その、タ、タカシが朴念仁なのはその通りですけど、私
は別にそんなこと――』

『求めとったんやろ?』
 私の言葉を、泉美さんは逆の事を先取りして言った。しかし、実はそれが本音だったの
で、私は否定する事も出来ず、またも黙り込んでしまった。
 恥ずかしそうな私を前に、泉美さんは腕組みをすると、うんうん、と頷いて言った。
『いやいや。ええねんええねん。女やってな。好きな男の前ではそういう気持ちになるの
が普通やさかい、なーんも恥ずかしがる事ないねん』
『べ、別に恥ずかしがってなんか……』
『顔。赤うなっとるで』
 またしても弱点を的確に指摘されてしまい、最早私は完全に敗北を認めざるを得ないよ
うな状況だった。
『まあ、でもええわ。アンタの態度見とったら、タカシ君の事が好きちゅうのはよう分かっ
たで。もうここまで来たら、反論出来へんやろ? な?』
 カアッ、と顔がさらに赤みを増した。うんともすんとも言えなくなってしまった私に、
泉美さんはそっと耳打ちするような小声で囁く。
『それやったら、意地張っとる場合やないで。今晩一日しかあらへんのやろ? 夜這い掛
ける勢いで頑張らな』
『そっ……!? そんな事出来ないですよ。あたしからアプローチ掛けるなんてそんなは
したない事……』
 動揺してあたふたしながら私はそれを否定した。すると泉美さんは、ちょっと意外そう
な顔をして私を見て言った。
『そうなん? ウチは旦那相手にようやるけどな』
『へっ……!?』
 私は、変な声を出してしまう。それから、自分が失言をしてしまった事に気付いた。
『ごごご、ゴメンなさい!! 別にそういう事するのがはしたない訳じゃなくて、でも、
それじゃあその……いいい、いかにも自分ががっついてるって言うか……』
『かなみちゃん。それ、フォローになってへんで』
 そう言われて私は身の縮こまる思いで黙った。私がタカシに、飢えているんじゃないか
と思われるのが嫌で言葉に出してしまった事で、相手に不快な思いをさせてしまった。大
人としてこういう発言はどうかと思う訳で、何とかフォローしようかとも思うが、ここま
で言ってしまった以上、もう仕方が無かった。

 しかし、泉美さんは全く気にしない様子で明るく笑って言った。
『ええってええって。そんな気にせんでも。それに、ウチの場合は旦那がヘタレやさかい、
ウチから迫っていかんかったら、夫婦の営みなんて途絶えてしまうもん』
『そう言えば、泉美さんって結婚してらしたんですよね? 旦那さんってどんな方なんですか?』
 ちょっと矛先を逸らす意味もあって、私は聞いた。それに夫婦ってどんなんだろうとい
う純粋な興味もあったし。
『ウチの旦那。あかんあかん。ヘタレもええとこやで。気ぃ弱くて、優柔不断でなあ。カッ
コいいとこなんて一つもあらへん。それにタカシ君と違って生活能力まるであらへんし。
ウチと出会わんかったら、あれ未だに童貞やで』
 ポンポンと調子良く、泉美さんは旦那さんの事をこき下ろす。しかし、その言葉に嫌悪
とか嫌味のようなものは全く感じ取れなかった。私とは大違いだ。私がタカシの悪口を言
う時はネチネチと嫌味ったらしくなってしまう。
『それでも、結婚されたんですよね? やっぱりそれってどこか惹かれるところがあった
んじゃないですか?』
 そう聞くと、泉美さんは腕組みをして難しい顔をした。
『んー…… 何でやろなぁ? やっぱ放っておけんかったんやろな。最初に出会うたの、
合コンやったんやけど、あれ、誰ともしゃべらへんで片隅の席で一人酒飲んどっただけやし』
『えー? でもさっき、気が弱いっておっしゃってましたけど、合コンに来るだけの積極
性はあったって事ですよね?』
 私が聞くと、泉美さんは首を振った。
『単に数合わせで連れて来られただけやもん。まあ、誘った方もコイツならライバルにな
らへんと思ったんちゃう?』
『何で泉美さんは声掛けたんですか?』
『やっぱ、気にはなっとったんよな? ちゅうか、合コン来ても女の子と話しもせんと一
人でみんなの方を眺めながら酒飲んどるってどないな奴やって。それに、そん時話しとっ
た男がまあ話し下手でヤな奴やったさかい、逃げたかったちゅうのもあったんやけど……
と、ウチの事はどうでもええねん。今はかなみちゃんとタカシ君の話やわ』
 泉美さんが途中で話を打ち切ってしまったので、私は不満気に文句を言った。
『ええー。別にいいですよ、あたし達の事なんて。もうちょっと話、聞きたかったんですけど』
 しかし泉美さんはニコッと笑って答えた。

『せやな。この続きは、かなみちゃんが次に来た時に話したるわ。今度は一泊言わんと、
一週間でも二週間でも、好きなだけ泊まりや。そうしたらな。たっぷり話したるわ。かな
みちゃんがもう嫌や言うても離さへんで』
『分かりました。楽しみにしてます』
 私も笑って答えた。
『まあ、それはええねんけど、とにかくな』
 そう言うと、一旦言葉を切り、泉美さんはズイッと体を私の方に寄せて、私の顔を真正
面から見据えた。私は思わず、反射的に体を後ろに引いた。
『ここっちゅう時には、押しが大事やねん。ええか。恥ずかしいとかみっともないとか変
なプライド持っとったらあかんで。タカシ君もな。ええ男やねんけど、そういうところは
イマイチ奥手ぽいところがあるねん。かなみちゃんが積極的にアプローチしてきっかけを
作ったらんと、ほんまに、何も無しで終わるで』
 その言葉はざっくりと胸に突き刺さる。けれど、今更タカシにアプローチするって言っ
たって……
 色仕掛けを想像して、私はカアッと体が火照るのを感じた。しかし、やっぱりそんな事
を自分から仕掛けるなんて恥ずかしくて、出来そうもない。
『お? 今、ちょっと妄想入ったんとちゃう?』
 泉美さんにからかわれて私は慌てた。
『ちちち、違います違います。け、けどそんな……あたしから仕掛けるなんて、やっぱ……』
『そこでかなみちゃんが臆病になってどないすんねん。ほんまに、下手に機を逃すと終わ
りやで。今日は止めにしとこ、なんて思っとったら、次の時はもう婚約者がいてはっても
おかしないねんで』
『な、何言ってるんですか。タカシに婚約者なんて出来るはずないじゃありませんか。こ
んな田舎、若い女の子だってほとんどいないでしょうし』
 私がそう言って否定すると、泉美さんは首を振って真面目な顔で言った。
『かなみちゃん。田舎を舐めたらあかんで。人がどんどん減りよる今、ここに住もうなん
て若い男は貴重やさかい、いろんな縁談話が舞い込んで来んねんで。まあ、今の所タカシ
君は適当に上手い事言うてかわしてんけどな。これはと思うような美人がおったら、タカ
シ君かて気持ちが揺らぐかも知れへんし』

『バ、バカなこと言わないで下さいよ。タカシってば全然もてなくて、大学でも彼女出来
なかったんですよ。そんな、いくら見合いの話だからって、相手の人が気に入るとは思え
ませんけど』
 不安になったあたしは、ごまかしの言葉を必死で並べ立てた。しかし、泉美さんは首を振った。
『村では、ええ男が来たちゅうて大騒ぎやったんやで。それにな。彼女が出来んかったん
やなくて、作らんかったんちゃう? 傍にアンタがおったから』
『え……? え?』
 私はまた、ドキドキとし始めた。タカシはそんな話、全くしなかったから分からなかっ
たけど、確かにホントなら、彼女の一人や二人、出来ててもおかしくない。世の中には泉
美さんのような積極的な子もいるし、私が好きになるくらいだから、他にもいたっておか
しくはないはずだ。
 もしかしたら、私の事を気にして……断り続けてきた……とか?
 まさか、そんな……でも、もし本当だとしたら、私は罪な事をして来たんだろうか? う
うん。私のせいじゃない。仮にタカシがそうだったとしても、そんなのはタカシの勝手だ。
でも……
『まあ、そんなこっちゃから、頑張りや』
 泉美さんの言葉で、ハッと思考が途切れ、私は前を向いた。と、泉美さんが私の体をジ
ロジロと見つめているのに気付いた。
『な……何ですか。そんな変な目付きで見ないでくれません』
 身を縮みこませてそう言ったが、泉美さんはおかまいなしに私の体を眺め回す。同じ女
の人に見られているというのに、何故か恥ずかしくて体が熱くなった。
『うん。まあ大丈夫やろ』
『は? 何がですか?』
 訳が分からず聞き返すと、泉美さんはニコッと微笑んで言った。
『いやな。ノーブラのTシャツに短パンの姿でな、そんな綺麗な太ももさらけ出して迫れ
ば、いくらタカシ君がかなみちゃんに慣れとる言うても、あれも健康的な男子やさかい、
イチコロやろ』
『ななな、何言ってんですか!! やめて下さいよもう、変なこと言うのは』
 私は慌てて膝を抱え込んだ。

『これはその……別に、タカシの前では昔っからこんな格好してたし、だからその……落
とすとか、そんな事の為じゃないですから』
 本当にそうか? 私は心の中で自問自答した。確かに昔から、タカシと二人で私の部屋
にいる時なんかは、こんな格好もしてた。けど、正直に、本当に正直に自分の心を掘り
下げていけば、そこには誘惑する気持ちがあったんじゃないだろうか。そして今も……
『いーや。その太ももは結構武器になるで。キチンとアピールせな。な?』
 泉美さんはそう熱弁を振るうが、果たしてそうだろうか? それだったら、マッサージ
した時にもうちょっと何かあったって良かったんじゃないだろうかとも思う。確かに危険ゾーンスレスレまでタカシに触ら
れてしまったが、特に手付きがイヤらしいとかなかったし。
 それとも……男だし……やっぱり、意識はしてくれてたのかな……
 胸にちょびっとトキメキを覚えたその時だった。
「こんばんわ、泉美さん」
 いきなり、背後からタカシの声がした。


その6−3

『んきゃんっ!?』
 予期せぬタカシの登場に、私は心臓が跳ね上がり、思わず変な声を上げてしまった。
「ん? どうしたかなみ。変な声出して」
 タカシが不思議そうな顔をして私を見た。動揺と恥ずかしさから、私はつい怒鳴ってしまう。
『う……後ろから急に声掛けんな!! ビックリするじゃないのよ、もうっ!!』
 うう…… 顔が赤くなってる気がする。タカシにバレなければいいけど。
「俺、そんな驚かすようなことしたか? 普通に声掛けただけだと思うけど」
『したわよっ!! こっそり近寄って来ないでよね。もう……』
 私は文句を言ってタカシを睨み付ける。まあ、本当はタカシが悪い訳じゃないんだろう
けど、あんなタイミングで声を掛けられたものだからホント心臓に悪い。私の心臓はまだ
バクバクと音を立てていた。
「何か俺、すごく理不尽な言い掛かり付けられているように思うんですけど。どう思いま
す? 泉美さん」
 タカシは不満そうに泉美さんに話を振る。と、彼女は愉快そうに笑って言った。
『アッハハハ。確かにそうやわ。けどな、タカシ君。かなみちゃんの気持ちも察してあげ
てや。タカシ君の事考えとった時に急に本人が現れよったもんやからビックリしたんやろ。な?』
『泉美さんっ!! へへへ、変な事言うの止めて下さいってば、もうっ!!』
 私は慌てて泉美さんを制止した。ほらみろ。タカシが意外そうな顔でこっちを見ている。
私は顔から火が噴き出そうな熱さを感じながら、必死でタカシに弁解した。
『ち、違うわよ!! たまたま二人でアンタの話してただけで、別にあたしが、その……
アンタの事を思ってたとか、そ、そういう訳じゃないんだから!!』
 何かもうグダグダな言い訳をしてしまった。泉美さんが実に愉快そうに私を見つめてい
るのが余計に恥ずかしい。
 しかし、タカシは怪訝そうな顔をして私達に向かって聞いてきた。
「俺の話? 一体二人で何の話してたんだよ?」
『そんな事いちいちアンタに言う訳ないでしょっ!! このバカ!!』
 反射的に怒鳴って拒否をすると、タカシは私をちょっと睨みつけて言った。
「まあお前はそう言うと思ったけどな。で、どうです? 泉美さん」

 そう言われると、何か最初から無視されてるような気がして非常に腹立たしい。しかし、
それは一瞬のことで、私はすぐに泉美さんを見た。ここで泉美さんに変な事を言われたら
おしまいだ。
 しかし彼女は、意味深な笑いを浮かべて、声を潜めて言った。
『タカシ君。それはな』
「ふんふん」
『女同士の、秘密や』
 ガクッと、タカシは体を傾けた。
「何だ。期待させといてそれはないんじゃないすか?」
『あかんあかん。男にはな。聞いちゃあかん話てなもんがあるんやで。な?』
 泉美さんの言葉に私も頷いた。
『そうよ。ほら見なさい。アンタなんかに教えられる訳ないんだから』
 するとタカシはつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「分かったよ。まあ、どうせかなみの事だからロクな事言ってねーんだろうけど」
『何よ。日頃のアンタの行いが悪いからでしょ。自業自得よ』
「てことは、やっぱ悪口じゃねーか」
 ポンポンと言葉がやり取りされる。何か、昔のままだな、と私はちょっと懐かしく思った。
 と、その時、 私達のやり取りを見つめていた泉美さんが、ポツリと一言呟いた。
『ええなあ。そんな風に言いたいこと言い合えて』
『よくありません!! 今の会話のどこが良く見えるんですか!!』
 即座に私が言い返す。すると泉美さんは、意外にも真面目な顔をして私を見つめた。
『かなみちゃん。そうやって気兼ねなくタカシ君にそういう事言えるっちゅうのもな。お
互いが信頼し合うとるから出来るんとちゃう?』
「いやあ。俺はともかく、かなみが俺を信頼してるとは、到底思えないんですけど」
 タカシが首を捻ってそういう事を言うのが面白くないので、私はわざと同意した言い方
をした。
『当たり前でしょ。アンタのどこを信頼しろって言うのよ。信頼性の欠片もないくせに』
「ほら。聞きました今の言葉。ホント、コイツって酷いことばっか言いやがりますよね」
 タカシの不満そうな言葉に、泉美さんは小さくクスッと笑う。

『けどな。かなみちゃんの言葉には毒は篭っとらんもん。聞いてても微笑ましいちゅうか
スカッとするような悪口やで。普通はもっと陰湿になるもんやけど、それがないっちゅう
事は、心の底ではタカシ君のこと、よう分かっとるんや。な?』
 同意を求められたので私は頷いた。
『ええ。分かってますよ。コイツがいかにバカでアホで鈍感で間抜けで、人の気持ちなん
てこれっぽっちも考えないような冷血漢だって事をね』
 確かに、私は分かっていた。タカシはこれくらいの悪口を気にするような奴じゃないし、
タカシも多分、私が本気でこんな事を言ってるんじゃないと分かってるだろう、とも思っ
ていた。そうでなければ、とっくにこんな関係、終わりを迎えていたに違いない。
「どう思います? これでも俺のことを良く分かってるって言えますか?」
 タカシが冗談交じりの口調で泉美さんに聞いた。泉美さんは大きく頷く。
『そう思うわ。何か羨ましいな思う。普通、ここまで言い合える人なんてなかなか出来へ
んし。大切にせなあかんよ、かなみちゃん』
 そう言われると、困った事にまた反抗心が湧いてしまう。
『冗談じゃありませんよ、こんな奴。それに、泉美さんだって旦那さんがいらっしゃるん
でしょう? お互いに信頼できる相手が。私なんかより全然いいと思いますけど?』
 そう聞くと、泉美さんは小さく首を振った。
『あかんて。さっきも言うたろ? ウチの旦那は気が小さいさかいな。何でも、僕が悪かっ
たって謝ってしまうねん。そう出られると、こっちもそれ以上は強く出れへんし』
「優さんは大人しくて優しいですからね。泉美さんの事を悪く言うなんて考えられないん
じゃないですか?」
 タカシがフォローを入れる。優さんと言うのは旦那さんの名前だろう。何だかんだ言わ
れてはいるが、泉美さんの心を射止めた人なのだからきっと素敵な人なのだろう。
『ちゃうちゃう。あんなん、ウチに不満があっても言われへんだけや。喧嘩になってもす
ぐに謝ってくるだけで。そんなん、言ってるこっちが張り合いないねん』
 そう言って泉さんはため息をつく。
『けどいいじゃないですか。包容力があって優しそうな旦那さんって素敵だと思いますよ』
 私もそう言うと、泉美さんは手を振ってそれを否定した。しかし、照れ臭そうな表情で
ほのかに顔を赤くしてる辺りはまんざらでもないのだろう。
「まあ、何を言っても文句ばかりしか返って来ない奴よりはよっぽどマシだと思うけどな」

『何だと!?』
 あからさまなタカシの挑発に、私は即座に噛みついた。すると泉美さんが面白そうに笑っ
て言った。
『アッハハハ。ほんま、仲ええわ。ま、ウチのことはええねん。それよりほら、タカシ君』
 泉美さんはそう言って、さっきの重箱をタカシに差し出す。
「どうしたんですか? これ」
『ウチが作った鳥手羽の煮物と蓮根の素揚げや。せっかく遠くから彼女が訪ねて来はった
んやし、タカシ君の料理だけやとちょいと寂しいんやないかと思うてな。遠慮なく食べてや』
「済みません。いつもいつも、気を使って貰っちゃって」
 タカシが頭を下げる。いつもと言う事は、時々こうやっておすそ分けを貰ったりしてい
るのだろう。
『そんなかしこまる事あらへんて。お互い様やし。ほな、そろそろウチは帰るわ。ちょっ
と長居し過ぎてしもたし、ウチの旦那が飢え死にしてしまうさかい』
 泉美さんが腰を浮かせかけたその時、タカシが言った。
「泉美さん。もし良かったらうちで飯、食いません? 優さんも呼んできて。かなみとも
大分話が合うようだし、人数多い方が楽しいと思うんで」
 私は咄嗟にタカシの顔を見た。顔つきからすると、どうやら本気のようだ。
 何よ、それ。あたしと二人っきりだとつまらないって言うの?
 そんな考えが即座に浮かぶ。が、言葉には出来なかった。目の前に泉美さんもいるし、
考えようによっては、確かに泉美さん夫婦が一緒に食事する方が楽しいだろう。
 だけど、やっぱり不満だった。タカシは、私と二人っきりでいたくないのだろうか?
 しかし、想いはほんの一瞬で打ち破られた。
『あかんわ、タカシ君。そんな事言うたら』
 泉美さんが意外にも真面目な顔でタカシに言った。
『せっかく、二年ぶりに会うたんやろ? せやったら、もっと二人の時間を大切にせな』
「けど、かなみだってせっかく知り合えたんだし、俺と二人だけで顔付き合わせて飯食う
より楽しいんじゃないかって思うんですけど。なあ」
 タカシが私の方を向いて聞いてくる。
 けど、そんな事聞かれたって困る。だって、泉美さんの前で答えようがないじゃない。
本当は、タカシと二人だけの方がいいなんて。

 だけど、彼女は私の気持ちをよく察してくれていた。
『そないなことないねんなあ? せやったら、何でわざわざ何時間も列車に乗ってこんな
所までアンタに会いに来んねん。久しぶりにアンタと会いたかったからとちゃうん? そ
んなもん、ウチとこうして出会えるなんて思ってもなかったはずや。なら、初めっから、
タカシ君と二人きりで過ごすつもりで来たんやないか。そうやろ?』
 今度は泉美さんが私に振る。まさしく彼女の言う通りなのだが、それでもいつもの私な
ら、そんな事はない、と否定するところだ。タカシと二人きりでいたいなど、タカシの前
で言うのは恥ずかしすぎる。しかし、私の顔を見た泉美さんは笑っていなかった。視線が
妙に鋭くて、それが私に嘘を付かせることをさせなかった。
 私が黙っていると、泉美さんはパッと立ち上がって言った。
『とにかく、せっかくの二人の再会に水を差すようなこと、ウチはしとうないねん。タカ
シ君の申し出はありがたいけど、気持ちだけ受け取っとくわ』
「す、済みません。何か、却って気分を悪くさせてしまったみたいで」
 タカシも慌てて立ち上がって謝罪する。すると泉美さんはジッとタカシを睨むように見つめた。
『ウチのことはええねん。それよりもっと、かなみちゃんの事を気遣ってあげんと』
「かなみの……ことを?」
 二人して私の方を見るので、私は何だか酷く居心地の悪さを感じた。
『せや。タカシ君からしてみると、精一杯気ぃ使うてるつもりやろうけどな。かなみちゃ
んの言葉の裏に隠された気持ちまでちゃんと見抜いたらんと、却って傷つけることになる
かも知れんで』
「はあ……」
 タカシは釈然としない面持ちで、私と泉美さんを交互に見る。泉美さんはちょっと呆れ
たようにため息をついた。
『あかんわ。タカシ君もええ男やねんけどなあ。そっち関係ともなると、ホント鈍感やで。
かなみちゃんも苦労するわ。なあ?』
『別にそんな……苦労するも何も、別にタカシとあたしは幼馴染だってこと以外、何もあ
りませんから……』
 何だかタカシに悟られたくなくて、また同じような否定の仕方をしてしまう。泉美さん
にあれだけ心の内を曝け出されて、ようやく少し、素直な気持ちが表に出てきたのが、ま
た引っ込んでしまったようだ。

 しかし、泉美さんはそんな私の心まで察してくれたのか、ニッコリと微笑んで言った。
『かなみちゃんもな。まあ、頑張りいや。ほな、また次に会うのを楽しみにしとるで』
 そうか。ここで別れたら、今回はもう、泉美さんと会話する機会はないのか。そう思う
と何か寂しい気がする。
 私は立ち上がって挨拶した。
『はい。今度は泉美さんに会いに来ますから。その時は、泉美さんのお話も聞かせて下さ
い』
「ひでーな。俺は無視かよ」
『当たり前でしょ。宿借りる以外に、アンタに会う理由なんてないんだから』
 私達のやり取りに、泉美さんはまたクスリ、と笑みを漏らす。
『かなみちゃんもそう冷たい事言わんと、仲良うせなあかんよ』
 それから、そっと私の耳に口を近づけて、タカシに聞こえないように囁きかける。
『今晩の成果、期待しとるで』
 その意味を悟り、ボッと体が熱くなる。
『ななななな、何変なこと言ってるんですかっ!! もう……』
 私が睨み付けると、彼女はイタズラっぽく舌を出してニコッと笑った。
『ほな、お休み。ええ夜を』
「お休みなさい、泉美さん。重箱は洗って明日返しに行きますから」
『普段使わんもんやさかい、いつでもええで。ほな』
『お休みなさい』
 そうして、泉美さんは差し入れの料理と、それ以上に様々な想いを私に残して、家へと
帰って行ったのだった。


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