その7

 私は、しばし呆然と玄関を見つめていた。ある意味、強烈な印象を残す人だった。自分
の親にすら、ここまで自分の心を抉られた事はなかった気がする。しかも、その割りに
不快感とかは全然無かった。

 『かなみちゃんが積極的にアプローチしてきっかけを作ったらんと、ほんまに、何も無
しで終わるで』

 この言葉が、とりわけ胸に引っ掛かった。待っていたらダメ。男が振り向くのを待って
いたら、機会なんて永遠にやって来ないかも。
 けれど、タカシに迫るなんて……そんな……
「さて、飯にすっか」
 タカシの一言で、ハッと私は我に返った。同時に、タカシの前で迂闊にも妄想が入って
しまったことが恥ずかしく思ってしまう。私はそれを、出来る限り気付かれないように、
クールに返事をした。
『あ、うん』
 タカシは重箱を持ち上げた。
「いやあ。泉美さんが差し入れしてくれたおかげで、豪華な飯になったぜ。正直、俺の作っ
た飯だけじゃ、かなみが満足するかどうか、ちと不安だったしな」
『……ちゃんと、人間の食べれる物を作ったんじゃないでしょうね?』
 疑わしげに聞くと、タカシは胸を張って答えた。
「任せろ。質素ではあるが、味は保証するぜ」
 正直なところ、ちょっとワクワクドキドキする。東京にいた時のタカシは、料理なんて
ほとんど出来なかったはずだ。でも、少なくとも、スーパーもコンビニも近くに無いよう
なこんな田舎では、自炊出来なければ生きていけないはず。タカシの手料理だと、そう思
うだけで私の胸は弾んだ。
「ほれ。どうぞ」
 タカシに招き入れられるままに、私は部屋に入った。
 奥の和室にテーブルが置かれ、二人分の食事が既に準備されていた。メインは鮎の塩焼
き。それに冷奴と、金平が添えられている。中央に、刺身が少しと、あと野沢菜の漬物が
ででん、と大量に入った鉢が置かれている。

「ちょっと待ってろ。あと、ご飯と味噌汁とビールを持ってくるから」
 タカシが差し入れの重箱を置いて言った。確かに、タカシの言う通り、差し入れがない
と寂しいかもしれないが、逆にちょっと豪華になり過ぎた感もあるなあ、と思った。
『これに……ご飯と味噌汁も、付くの?』
 タカシは頷いた。
「ああ。米はさ。炊飯器じゃなくて、釜で炊いたんだぜ。その方が断然美味いし」
 へえ、と内心で感心しつつ、私は逆な事を言った。
『アンタ……あたしを太らせるつもりじゃないでしょーね。ビールとご飯を一緒にだなん
て、普段からそんな食生活してたらブクブクになっちゃう』
 するとタカシは軽く笑った。
「一日くらい大丈夫だろ。今日くらいはダイエットも忘れろって。それに、油を使った料
理が無いから、少しくらい食い過ぎたって大丈夫だろうし」
 確かにそれもそうか、と私は思い直した。しかし、嘘でもいいからお前スリムだし、く
らいの気は使ってくれてもいいと思う。泉美さんじゃないけど、タカシは優しいけど女性
に対する気遣いには鈍感なんだなあ、と私は不服に思った。
 まあ、そんな事今に始まった訳じゃないし。と、私は諦めのため息をつく。
『あたしも手伝おうか? せめてご飯よそうくらい』
 女の子が何もしないじゃ何か居心地悪くて、私は声を掛けた。が、タカシは首を振る。
「気にすんな。今日はお客さんなんだし。先に座って待ってろって」
『あ……うん。そだね』
 私は言われるがままに座布団に腰を下ろした。いい匂いがして、お腹を刺激する。私は、
クンクンと匂いを嗅いだ。目の前に並んだ料理のほとんどをタカシが作ったなんて、何だ
か信じられないな。
 すぐにタカシがお盆に二人分のご飯とお味噌汁を持ってやって来る。ふと、私はタカシ
がエプロンも何も着けていないことに気づいた。
『タカシってさ。料理する時、エプロンとか着けないの?』
「ん? ああ、そう言えば特に気にしたこともなかったな。まあ俺一人だしいいかなって思って」
 そういいながら、はい、とご飯を差し出すので、ごく自然に両手で受け取った。
『ダメよ。エプロンはお台所では制服みたいなもんなんだし。ちゃんと着けなきゃ』

「そういうものなのか?」
 とタカシが聞いた。
『そういうものよ』
 と私が答える。いや、実際そうなのかは知らないけど、でもタカシにエプロンを着けさ
せたらどんな姿になるんだろう。ちょっと楽しみだ。次に来る時があったら、私が手製の
エプロンを作ってきてあげようかな、なんて思ったり。
「何ニヤニヤしてんだ? お前」
 タカシが不思議そうに私を見て言った。ハッと私は顔を上げて、ここは素直に答えた。
『別に。タカシがエプロン着けてる姿を想像したら可笑しくなっちゃって。だって激しく
似合わないんだもん』
「自分で勧めといてそれかよ」
 タカシはちょっと口を尖らせて文句を言った。そしてちょっと腰を浮かせて自分の座布
団に座り直す。
『着けるべきだとは言ったけど、似合うかどうかは別問題だもの。まあちょっと見て見た
い気はするけど』
「ほっとけ」
 そしてタカシは、缶ビールのプルタブを引き上げる。プシュッ、と空気の抜けるいい音
がした。
「ほれ」
 と、ビールを差し出す。私がグラスを出すと、コポコポと音がして、ビールが注がれて
いく。ここに来て、私は酷く喉の渇きを覚えた。そう言えばあれだけ泉美さんと話をした
のに、全然水分を摂っていなかったっけ。喉が渇くのも当然だ。
 グラスの淵ギリギリまで注いでタカシは上手に注ぎ終えた。泡の量もちょうどいい。
『ありがと』
 そう言ってから、私はすぐに腰を浮かすと、缶を手に取った。
『はい』
「注いでくれんのか。悪いな」
 タカシが笑顔でグラスを持ち上げる。
『そりゃ、こういう時は、ね。タカシだけ手酌させるのも悪いし』

 静かに缶を傾ける。
 何かこういうのっていいな。夫婦みたいで。
「とっととと……」
 変な事を考えていたら、うっかり溢れさせそうになってしまった。タカシが慌ててグラ
スを持ち上げて私の手を止めさせる。
『きゃっ!! ご、ごめん』
「いや。ギリギリセーフだったから。けど、人にビール注いでる時にボケッとしてんなよ」
『ほ、ほんの一瞬だけだもん。違う事に気を取られたのは。ま、まあその……悪かったけ
ど、さ。泡ばっかりになっちゃったし』
 タカシがあたしに注いでくれたビールは、ビールと泡の割合が3対1くらいで見た目も
ちょうどいいのに、私が注いだビールは半々くらいになってしまっている。さすがに申し
訳なく思ったが、タカシは笑って答えた。
『別に気にする事ねーよ。ほれ』
 そう言って、グラスを持ち上げる。私もそれに合わせてグラスを持ち上げた。
「『乾杯』」
 二つの声が重なり、私とタカシのグラスが、静かにカチン、と音を立てて合わさった。


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