・ ツンデレ妹と台風の夜

『遅いなぁ…… お兄ちゃん……』
 私はチラリと時計を見た。時計の針は既に8時半を指している。時折窓がガタガタと音
を立てて揺れ、雨がバラバラと音を立てた。テレビのニュースは台風情報一色。進路と地
域の情報を繰り返しているだけだった。正直退屈だが、かと言ってバラエティー番組を見
る気分にもならない。私は暇潰しに、携帯で某巨大掲示板を何となく見つめていた。
『お兄ちゃん…… まさか、電車が止まって帰れなくなったとか、言わないでよね』
 そうなったら今晩は私一人で夜を過ごさなければならない。それを思い、私の心は不安
で重くなる。
『電話……してみようかな……』
 携帯のネットを切り、電話帳から兄の名前を選択する。しばらくその名前をジッと私は
見つめていた。
――でも……もし帰ってる途中だったら、こんな雨の中だもん。迷惑よね…… それに、
勘の良いお兄ちゃんだから、私が不安がっている事がバレちゃうかも……
 短大生になってなお、台風が怖いなどと我ながら情けなくて、兄には知られたくなかった。
 その時、玄関の方でガタガタと物音がした。
『お兄ちゃん?』
 私は慌てて椅子から立ち上がると、バタバタと玄関に向けて慌しく駆けて行った。
「ふぃーっ!! 参った参った」
『お兄ちゃん!!』
「おお、舞衣。ただいま」
『ただいまじゃないでしょ? 何やってんのよ。今日は台風だから早く帰るって言ってた
じゃない』
 びしょ濡れの兄を見て、ともかくもホッとした私は、私を不安にさせた事への苛立ちも
あって、声を荒げて文句を言った。
「いやー。帰ろうとしてバッグを持った瞬間、いきなり緊急の仕事が入ってさー。30分以
上も足止め食らっちまったよ。その間に雨風も強くなってこんなびしょ濡れになるし……
全く、ついてねえ……」

『そんな事言って、どうせ仕事の手際が悪かったり、ミスしたりしてたんじゃないの? ホ
ントに、要領悪いんだから』
「いや。あれはどうしようも無いって。っても、お前に言ってもしょうがねえか。とにか
く上がらせてくれよ。傘が途中で壊れて、パンツまでびしょ濡れになっちまってさ」
『パ……!?』
 そのセリフに、私は今の兄の状態を想像してしまい、耳まで真っ赤になった。
『変な事言わないでよ!! 気持ち悪い……』
 辛うじてごまかしたが、胸はまだドキドキしている。雨に濡れたワイシャツも、ピタッ
と体に貼り付いてしまったズボンも、あらためて見ると何だがすごくエッチに思えてしまっ
て、私は目をそらした。
「気持ち悪いのは俺の方だって。さっさと着替えてーよ」
『ちょ、ちょっと待ってよ。そんなびしょ濡れのままで上がるつもり?』
 私は慌てて兄を押し止めた。
「いや。だって風呂場行かなきゃ着替えられないしさ。てか、いつまでもこのままでいる
訳にも行かないんだけど……」
『だからって、廊下を濡らす訳にもいかないでしょ? ちょっと待ってて。今、タオル持っ
て来るから』
「あ、ああ。悪い」
 私はバタバタと慌てて洗面所に駆け込んだ。
『……雨に濡れたお兄ちゃんも……なかなかカッコ良かったな……』
 あああああ。ダメだダメだ。胸がまた高鳴る。私は慌てて兄の姿を頭から締め出した。
――ま、まあその……妄想はいくらでも出来るし……忘れないように、頭に焼き付けておけば……
 それは心配しなくても大丈夫だろう。もともと私は記憶力のいい方だし、妄想の中でも
より生き生きと兄の姿を思い描く事は出来た。
『そだ。早くしないと、お兄ちゃんが風邪引いちゃう』
 一瞬、いっそこのまましばらく濡れたままでいてもらって、風邪を引いてくれれば看病
フラグが立つかも。そう思った私は、瞬時にその考えを打ち消した。
――だ、ダメよそんなの…… 私の欲望を満たすためにお兄ちゃんに辛い思いをさせるな
んて、人として間違ってるもの。
 私は畳んであったタオルを二枚引っ掴むと、兄の待つ玄関へと引き返した。

「お。サンキュー」
 タオルを受け取りながら、兄は笑顔でお礼を言ってくれた。
『べ、別にお礼なんていらないわよ。ビショビショのまま上がって廊下を汚されたら困る
から持ってきただけだもの』
 照れ隠しにそう言うと、プイッと顔を横に逸らした。しかし、そのポーズは二秒と持た
ず、顔の向きはそのままで、視線だけがフラフラと兄の方に彷徨ってしまう。
 兄はゴシゴシと頭を拭くと、パパッと体を拭いた。その姿を見ると、自分が拭いてあげ
たい。そんな思いに駆られる。
「いや。ホントに今回の台風はマジすごいぜ。体飛ばされるかと思ったくらいだし」
『台風自慢はどうでもいいけど、その……ちゃんと体拭いてよね。すごい適当じゃない』
 兄がキチンと体を拭いたかどうかはどうでも良かった。一度湧いた思いは消す事が出来
ず、むしろ大きくなる一方だ。
「そんなことねーよ。ちゃんと拭いたって」
『ダメよ。全然拭いてないもの』
 もう堪えきれず、私は兄からタオルをひったくった。
『貸してよ。もう……』
 そして私は、兄の体をゴシゴシと拭き始める。逞しい体つきに、私は酔いそうになった。
「だ、大丈夫だろ。そんなしっかり拭かなくたって」
『ダメよ。どうせ、お兄ちゃんは汚したって掃除しないでしょ? 結局私がやる事になる
んだから』
 そう言いながら、私は丁寧に体を拭く。何だか兄の体から体臭がするような気がして、
私はクラクラしそうになった。それを懸命に押さえつける。
「いくらなんでももう大丈夫だろ。つか、夢中になり過ぎじゃね?」
 本当に夢中になっていたので、私は全身がカアッと火照った。
『だっ……誰も夢中になんてなってないわよ!! もういいから、さっさとシャワー浴び
て来てよね。大体、どうしたらこんなに濡れるのよ。傘持ってたんでしょ?』
 必死で兄の言葉を否定すると、私は話を逸らした。
「確かに持ってったけどよ。ほれ。あのようにご昇天なされた」
 兄の示す先には、何本も骨が折れ、ボロボロになった傘の残骸があった。
「右からも左からも突風が来るからよー。さすがに持たんかったわ」

『お兄ちゃんが不器用なだけじゃないの? まだそんな大した風でもないでしょ?』
「いやいや。前を歩いていた女性なんてさー。傘が全壊して、ずぶ濡れで歩いてたんだぜ。
ブラウスが身体にピッタリ貼り付いててさ。ちょっとエロかったなー、なんて」
 その言葉で、あっという間に私は不機嫌になった。
『バカ!! スケベ!! さっさとシャワー浴びてきてよね。もう!!』
 タオルを兄に投げつけると、私は憤然としてキッチンへと引っ込んでしまった。
『全くもう……お兄ちゃんたら、妹の前で何てこと言うのよ……』
 キッチンの椅子に座ると、私はイライラした気分のまま一人ごちた。いくら兄妹だから
って、女の子の前であんな事を言うなんて、無神経にも程がある。
『それとも……私って、女の子に見られてないのかな……』
 テーブルの上を指でなぞりながら、小さな声で私はブツブツと呟いた。そのままテーブ
ルに突っ伏す。
『ハァ…… 私ももうすぐ成人なのにな……もう少し、大人の女性に対する扱いをしてく
れたっていいと思うんだけど……』
 落胆しながら、私は兄への不満を口にする。何であんなに気軽にエッチな事を口に出来
るのか、不思議でしょうがなかった。私が兄を慕っていると言う事実を差っ引いても、私
はとても、異性の前であんな発言は出来ない。
「おーい。舞衣ーっ!!」
 風呂場の方から兄の呼ぶ声がする。私は慌てて立ち上がった。ガタン、と椅子が乱暴に
揺れるが構うことなく私は風呂場へと向かう。
『もう…… 何よ。忙しいのに――きゃあああああっっっっ!!!!』
 兄の姿を見た私は思わず絶叫した。
「何だ? どうした。何かあったのか?」
 何も意識していない兄に腹を立てて私は怒鳴った。
『なっ……何て格好してんのよ!! もう……この、スケベ!! 露出狂!!』
 風呂場の扉を開けたままの兄の姿は、トランクス一枚以外は何も付けていない、ほぼ全
裸に近い状態だったのだ。
「何て格好って……ああ、これか」
 兄は自分の格好を見て、ようやく私の態度を察したようだったが、事も無げにこう言った。

「別にいいだろ? 家なんだしさ。裸じゃないんだしそう気にする事無いって」
『お兄ちゃんが気にしなくても私が気にするのよ!!』
 右手で目を覆って、私は言い返した。モロに視界に入ってきた兄の肢体は、眼を瞑って
も私の網膜に焼き付き離れない。もう一度見たいという誘惑が、私を襲った。
「別に男の裸なんて見たって大したこと無いと思うんだがなぁ。水着姿なんて似たような
もんだろ? ちょっと奥手過ぎるんじゃないか? お前」
『わ……私が奥手なんじゃなくて、お兄ちゃんが無神経過ぎるのよ!!』
 兄の言う事は確かにその通りなのだが、私の気持ちも察して欲しい。好きな男の人のセ
ミヌードなど見たら、興奮するに決まっているではないか。
 そう考えて、私は慌てて頭を振った。やっぱり……察せられるのは恥ずかしい。それに、
気付かれたら……距離を置かれてしまうかも知れないから、やっぱり知られない方がいい。
鈍感な兄だからこそ、私の密かな想いも気付かれずに済むのだった。
「そうか? 俺の裸なんて見ても、キャーキャー言う女の子なんていなかったけどな」
 兄はまだ釈然としない様子だった。しかし、そんな兄の様子より、引っ掛かる事が私に
はあった。
『ちょっと待ってよ。お兄ちゃん、まさか、他の女の人にそんな格好曝け出したって言う
の? バカ!! 変態!! 我が家の恥だわ。もう!!』
 怒鳴りつける私に、兄は慌てて弁解した。
「ちょっと待てよ。別に見せびらかした訳じゃなくてさ。大学ん時、キャンプに行って川
遊びをした時に男はみんな河原で着替えたんだよ。別に俺だけじゃないし、女の子の友達
も特に騒いだりしなかったってだけだから」
『う…………』
 私は言葉を失った。これ以上突っ掛かると、むしろ意識している私の方が異常の様に思
われてしまう。いや、実際異常なのは自分でも良く分かっている。その証拠に、今もこう
して指の隙間から兄の体を覗き見したい誘惑に駆られている。いや。ダメだダメだ。そん
な風に気付かれる危険を冒すわけにはいかない。
『と……とにかく、私の前では、そんな格好で出て来ないで。その……そう。ふ、不愉快
だから。で、何の用なの?』
 気持ちを兄の体の方へ向けまいと、私は話へと意識を振り戻した。
「ああ。そうそう。着替え無いからさ。俺の部屋行って持って来てくれないか?」

『そっ……そんな事の為に人を使わないでよね!! 自分で取りに行けばいいじゃない』
 私は声を荒げて文句を言った。兄の言葉にいちいち逆らってしまうのはもはや仕方ない
としても、こんなにいきり立つ事でもないのに。やはり兄の裸に動揺しておかしくなっている。
 兄は機嫌悪くしただろうか? 私は恐る恐る指を開き、その隙間から兄の様子をちら見した。
 ドクン!!
 心臓が激しく鳴る。しまった、と後悔した時はもう遅い。私の視線は兄の顔から引き締
まった裸の上半身へと移り、そこで釘付けになってしまった。
「一応拭いたとはいえ、濡れた格好でウロウロすんのもマズイし、かといって全裸で言っ
たらまたお前に怒られるじゃん。だから頼もうかと思ったんだけど」
 兄が不機嫌だったかどうか、私はもう確認出来る精神状態ではなかった。興奮して心臓
は激しく脈打ち、体が熱く火照ってきている。なのに、視線は兄の体から離れてくれよう
とはしない。だけど、僅かに残った理性が、今すぐここを離れるよう警告する。その為に、
私は兄の言いつけに従う事にした。
『わ……分かったわよ。取ってくればいいんでしょ。すぐに行って来るから、ちゃんとド
ア閉めて待っててよ』
 やっとの事でそれだけ言うと、私は兄にクルリと背を向けてドタドタと走って兄の部屋
に向かった。
 バタン、と荒々しく音を立ててドアを閉めると、ハァーとため息をつく。
『ホントに……お兄ちゃんたら、人の気も知らないで……』
 そう呟き、いやいやと思い直す。兄が悪いのではない。私が悪いのだ。ああいった事に
頓着しないと分かっているはずなのに……それなのに、取り乱してしまう自分が。
『と、いけない。早く着替え持って行かないと……』
 慌てて兄のタンスから替えの下着と短パンを取り出す。兄のトランクスを取り出したと
き、私はまたしても不埒な誘惑に駆られた。
――これを……これから、お兄ちゃんが履くんだ……
 恐る恐る顔に近づけると、ちょっと鼻をクンクンさせる。キレイに洗ってあるから、匂
いなんてする訳無いのに。そして、ちょっと頬擦りをする。布の感触が頬を伝わった。
――お兄ちゃん……

 そこで私はハッと我に返った。
 いけない。何してるんだろう、私は。これじゃあまるっきり変態だ。とにかくさっさと
着替えを持って風呂場に行こう。反省するのはそれからでも出来る。
 私は急いで立ち上がると、再び風呂場へと引き返した。
 風呂場のドアの前で、小さく深呼吸をする。兄はきっともう、シャワーを浴びているに
違いないが、それでも一応ノックをしよう。
 拳を上げて、ドアを軽く叩こうとした時、出し抜けにドアが開いた。
『きゃっ!?』
 小さく私は驚いた声を上げる。バランスを崩し、私は体を前に倒した。何があったか考
える間もなく、ドスンと何かにぶつかって止まる。
「何やってんだ? お前」
 え、と顔を上げた私は、自分が何に支えられたか理解して絶叫した。
『きゃああああああっっっっっ!!!!!!』
「おわっ!?」
 ドンッ、と兄の体を向こうに押しやると、私は着替えを兄に投げつけ、さっきと同じよ
うに右手で目を覆う。
『何するのよ。バカッ!!』
「何するのって……お前が急に倒れこんできたんだが? 支えちゃマズかったか?」
 困惑したような兄に、私はさらに文句をぶつけた。
『違うわよっ!! 何でいきなりドアを開けるのかってこと!! お兄ちゃんがそんな事
しなければそもそも倒れなくて済んだのに』
「いや。お前がいるなんて分からなかったし。たかが着替え取って下りて来るだけで随分
時間掛かってんなーって思ってさ」
『そんなもの、いちいち待ってなくたって、先にシャワー浴びてればいいじゃない。何で
そういう所だけ無駄に律儀なのよ』
 すると兄は、はたと気付いたように言った。
「そういやそうだな。何も待ってる必要なんかなかったわ。いや。何か待ってないといけ
ないように勝手に勘違いしてた」
 そんな兄を見て、私はわざとらしくため息をついた。
『もう……ほんと、要領悪いと言うか、無駄に人生過ごしてるわよね。お兄ちゃんは』

「そうキツいこと言うなよ。無駄って言っても大した時間じゃねーだろ?」
 そんな兄の言葉に、私は不満そうに口を尖らせた。
『一つ一つは大した時間じゃなくても、積み重なると物凄く無駄になるの。大体、その……
そんな格好でいつまでも風呂場にいて、風邪でも引いたら余計人生を無駄にするじゃない。
ホント、頭悪いんだから』
「分かった分かった。すぐに入るから」
 そう言ってトランクスに手を掛けた兄を、私は慌てて制止した。
『ちょっと待ってよね。私が出て行ってからにしてよ。この変態!!』
 慌てて私は風呂場から出ようと踵を返した。その背中に兄の声が掛かる。
「なあ、舞衣」
『何よ』
「いくら手で目を隠してもさ。指の隙間から見てたら、意味無いんじゃね?」
 その言葉に、私はサアッと血の気が引く思いがした。
――バレてた……?
 そして、次の瞬間には、足の指先から頭頂部まで、一気に熱くなる。
『お……お兄ちゃんの……バカッ!!』
 私はそう叫ぶと、風呂場から逃げるように飛び出した。そのままリビングのソファにダ
イブし、拳でソファを叩く。
『バカバカバカバカバカ!! 私のバカ!! あああああ……お兄ちゃんの体をこっそり
見つめてたことがバレてたなんて……もう死にたいよぉ……』
 だがいくら嘆いても暴れても、恥ずかしさは一向に消え失せてはくれないのだった。


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