・ ツンデレ妹と台風の夜(その4)

「入るぞ。いいか?」
 廊下の明かりが部屋に入ってくる。私は慌ててドアの方を向いた。
「どうしたんだよ? 電気も付けずに」
 そう言って、兄はドアの横にある蛍光灯のスイッチを入れた。パッと部屋が明るくなり、
眩しさに私は顔をしかめた。
『だっ……誰が入っていいって言ったのよ。勝手に入って来ないでよね』
 髪をかき上げて、私は兄を見つめた。兄は済まなそうな顔をして謝った。
「悪い…… 返事が無かったから。嫌なら出て行こうか?」
『もういい。今更遅いし』
 今の自分がどんな顔をしているのか分からない。涙の痕とか付いてたら嫌だったが、ど
うせもう見られてしまったのだから仕方が無い。
『で、何の用?』
 そう聞くと、兄は困ったような表情を浮かべて、躊躇いがちに答えた。
「あー、いや、その…… 何か、雨と風が気になって落ち着かなくてさ。一人でいるより
二人の方がマシかなーって思って」
 嘘だな、と、私は兄の顔を見て確信した。そもそも、小さな時から兄が台風を怖がった
記憶など無い。怖がるのはいつも私で、そんな私を最初はいっつもからかっていて、でも
一晩中ずっと一緒にいてくれて、慰めてくれたのも兄だったのだ。
『……入ったら? いつまでもボーッと突っ立っていられても、うっとうしいし』
「あ、ああ」
 つっけんどんな私の言葉に頷くと、兄は部屋の真ん中に転がっているクッションに腰を
下ろした。
 正直、ちょっと気まずい。あんな風に、兄を非難した後で、どんな顔をして話をすれば
いいのか、よく分からなかった。
――何か、やだな…… この空気……重苦しくて……
 しかし、沈黙は意外と早く、兄の方から破られた。
「さっきは悪かった。どんなにお前が不注意だったとしても、他人の携帯を勝手に見るの
は良くないよな」
『当たり前でしょ、そんな事……』

 素直に頭を下げて来た兄を、厳しい言葉で突っ撥ねる。しかし、今の私は携帯を見られ
た事への怒りよりも、あんなスレを見ていた妹を兄がどう思っているかの方が気になって
仕方が無かった。でも、それを知るのは怖い。下手な事を言ったら、その話題に触れてし
まいそうで、私はそれ以上の言葉を続ける事は出来なかった。
「ただ、まあその……俺も2ちゃんはよく見るからさ。お前も見てるんだって思ったら、ちょっと興味が湧いたんだよ。ホントそれだけで、覗き見する気とかは全く無かったんだって」
『でも、その気は無くても見たんでしょ? そんなの、全く意味ないじゃない』
 冷静で、且つ厳しい言葉に兄はウッと言葉を詰まらせた。それから、肩を落とし、頭を
下げて小さな声で謝ってきた。
「スマン……」
 その様子に、私は少なからず罪悪感を覚えた。自分のやった事を告白する気は無いが、
何だか酷く兄に申し訳ない気がする。とにかく、この話はこれで打ち切ろう、と私は決め
た。少なくとも兄は素直に謝罪してくれた訳だし、それだけでも私より立派なのだから。
『もういいわよ。反省して、今後二度としないって約束すれば』
「もうしないって。約束する」
 兄が素直に頭を下げるのを見て、もう一度、私は罪悪感で胸がズキリとした疼きを覚え
るのを感じた。本当に、何を偉そうにこんな事が言えるのだろう。
 だけど、今更になって私もお兄ちゃんのパソコンを盗み見してたなんて言える訳ない。
 私は、無言で兄から視線を逸らした。部屋を沈黙が支配する。すると、急に雨が雨戸を
激しく叩く音へと意識が行った。風も、容赦なくガタガタと雨戸を揺さぶる。私は身を硬
くした。
「随分と激しくなってきたなー」
 兄がポツリと言った。私同様に、外の音が気になるらしい。それとも、二人とも黙った
ままの空気に耐えられなかったのか。
『3時頃に上陸するんでしょ? もっと激しくなるんじゃない?』
「マジかよ。河川とか溢れたりするんじゃねーだろうな?」
『そ、そんなの知らないわよ。私に聞かないでくれる?』
 私は兄を睨みつけた。ただでさえ不安なのに、余計に怖さが増すだけだ。
「増水で床下浸水とかしたりするかもな。風で木が倒れてきたり、屋根が吹き飛んだりとか」

『水はともかく、いくらなんでも屋根が吹き飛ぶなんて事はないわよ。バカ』
「バカって事はないだろ。実際、有り得ない事じゃ無いんだし」
『ウチの側に倒れてくるような大きな木なんてないじゃない。それに、ニュースでやって
るのは、大体地方の古い民家とかでしょ? ウチは建てて10年くらいなんだし、大丈夫よ』
 すると兄は、何だかつまらなさそうに舌打ちした。
「ちぇっ。昔のお前なら、こういう話をすればキャーキャー言って怖がったのにな」
『一体、いくつの時の話しをしているのよ。そんなの、保育園とかの頃の話じゃない』
「そうかぁ? 結構小学校の高学年くらいまでは本気で怖がってたような気がしたけどな」
『どっちにしてもそんなの、子供の時の話じゃない。あの頃と一緒にしないでよね』
 つっけんどんな私の言葉に、兄は何故か微笑を浮かべた。
「そりゃ、ごもっともで」
 しかし、キャーキャー騒がなくなっただけで、台風が怖いのは実はあの頃も今も変わり
はない。強気な態度で押し隠すのが、私に出来るせいぜいだと言うのを。しかも、それは
兄の前だからこそ出来るのだと言うことを、私は十分に自覚していた。そして、それすら
も何かのきっかけで崩れてしまうかもしれないということも。
『大体、今はお兄ちゃんの方が怖がりじゃない。一人でいられないから、私の部屋に来た
んでしょ?』
「お前は怖くないのか?」
『あ……当たり前じゃない。そんなの』
 そう言うと、兄はジッと窺うように私を見つめた。私は嘘が見透かされてしまうのでは
ないかと思ってドキドキする。
『な、何よ。人のこと、ジロジロと見つめないでよね。気持ち悪い』
 だが、兄は私の暴言もまるで意に介さず、そのまま私を見つめ続けた。
「なあ」
『な、何よ』
「ちょっと、傍によっていいか?」
 思いもかけぬ一言に、私は今度は恥ずかしさが急に襲ってきた。私は真っ赤になって兄
を睨むと問い返した。
『な、何でよ。いきなり……そんな事……』

「台風が怖いから、じゃダメか?」
 私は目を丸くして兄を見つめた。そしてすぐに兄は嘘を付いているなと分かった。私を
見つめるその表情に、恐怖の色は微塵も無い。だが、そう言われて私は断れなかった。
『……か、勝手にすれば。この怖がり』
 兄は立ち上がると、今度は私が腰掛けているベッドのすぐ隣りに座った。兄の身体の重
みでベッドがギシッと微かな音を立て、布団がへこんだ。
――すぐ隣りに……お兄ちゃんがいる……
 私の意識は完全に兄に振り向けられ、台風への恐怖は完全にどこかへ消えてしまってい
た。顔を横に向ければ、兄の顔が間近にある。もっとも、横目でチラリと見ただけで、と
てもそんな勇気は出ない。腕を伸ばせば、兄の身体を抱き締められる事が出来る。だが、
それを思っても、無論そんな事は出来るはずもなく、私はただシーツをギュッと掴んだだ
けだった。
「なあ、舞衣。ちょっといいか?」
『え? な、何?』
 だが、聞き返した私に答えることなく、兄は出し抜けに私の肩に手を置くと、グイッと
自分の方に引き寄せてきた。
『きゃあっ!! ちょちょちょちょちょ、ちょっと、何するの? やめ……』
 突然の事にパニックになり、私は兄の腕の中でもがいた。
「嫌か? それなら止めるけど」
 嫌に決まってるじゃない。こんな事――
 拒否の言葉は、脳裏を擦り抜けただけで言葉にはならなかった。その代わり、私は兄に
聞いた。
『……な、何で急にこんな事するのよ。ビックリするじゃない……』
 いつの間にか、私は兄の胸に顔を埋め、優しく抱かれていた。兄の手が、優しく背中を
撫でる。
 そう。幼い頃と、同じように。
「ガキの頃はさ。お前が台風を怖がってるとよくこうして慰めてやったじゃん」
 やはり、兄もあの頃を思い出していたらしい。もっとも、じゃなきゃ、こんな事はしな
いか。子ども扱いされた事にちょっと腹が立って、私は文句を言った。

『そんな、子供の頃の話をされたって困るわよ。もう私は立派な大人だし、あの頃みたい
に臆病でも泣き虫でもないんだから』
 しかし、そんな私の言葉は無視して、兄は言葉を続けた。
「けど……結構あれで、俺も慰められてたんだぜ」
『え……?』
 私は驚いて兄の顔を見つめた。兄が照れ臭そうに笑顔を見せる。
「強がって、お前のことバカにしたり慰めたりしたけどさ。何だかんだで俺も結構怖がっ
てはいたんだ。けど、まあその……そうやって気を紛らわしてたんだよな」
『何よ、それ。散々私の事、弱虫だのなんだのバカにしてたくせに……信じられない』
 そう言って兄を非難すると、兄は悪びれる様子も無く軽く笑った。
「もうガキの頃の話だからな。時効だろ」
 しかし私は腹いせに、兄のお腹の肉を摘むと、ギュッとつねった。
「いてえっ!! 何すんだよ」
『時効なんてある訳ないでしょ。子供の頃の心の傷は一生残るものなんだから』
 だけどそれは嘘だった。からかわれたりバカにされたりしたのは事実だが、それ以上に
兄がこうやって慰めていてくれたのは、私にとってはむしろかけがえのない大切な思い出
の一つだからだ。私が怒ったのは……いや、怒ったフリをしたのは単に兄に甘えたかった
からに過ぎない。
「悪かったよ。ゴメンな」
 そういって兄は優しく背中を撫でてくれる。そんな事をされると、もっともっと、ずっ
といっぱい甘えたくなってしまう。その欲望に、私はついに負けた。
『悪いと思ってるなら、罪滅ぼしくらいしてよ』
 そう、兄におねだりした。
「じゃあ、何をすればいい?」
 兄が聞いてきたので、私は勢いのままに言った。
『……何もしなくていい。けど……ただ、今晩ずっと、このままでいてくれれば……それ
でいいから……』
 言葉を発してから、急に恥ずかしさが襲ってくる。身体の芯が火で炙られたかのような
熱を持ち、全身に放出する。心臓は激しく脈動して全身に熱い血を送り込む。私は最後の
力を振り絞って、両腕を兄の背中に回し、ギュッと抱き締めると強く顔を押し付けた。

 兄がどんな顔をしていたのかはさっぱり分からない。しばらくの間、兄はただ、私の背
中に手を置いたまま、無言でジッとしていた。私がこの恥ずかしい状況にもようやく慣れ、
兄を隅々まで感じられるようになった頃、兄はクスリと笑って答えた。
「何だ。結局お前も怖かったんじゃないか。散々平気だとか言っておいて」
『う……うるさい!! バカ!!』
 こんな状況でもからかうだけの余裕がある兄が憎らしくなって、今度は私は、背中の肉
をつねった。
「いっ……いてえ!! だからつねんなって」
『お……お兄ちゃんが悪いのよ。私の事、馬鹿にしたような事言うから……』
「本当は怖がりのクセに、隠してカッコ付けようとしている方が悪いだろ」
 兄の言葉に、また、ムラムラと反発が湧き起こる。
『カッコ付けたりなんてしてないわよ!! ……わ、私は別に平気だもん。台風なんて……』
「じゃあ、何で一晩中ずっと抱き締めていて欲しいなんて言ったんだ?」
 兄の問いに私は返答に困った。まさか、台風への恐怖よりも、ただ兄に甘えたかったか
ら、なんて言えるわけない。そんなの、兄への想いを告白するも同然じゃないか。
『そ……そんなの、いちいち聞かないでよ。お兄ちゃんは、ただ、言われたとおりの事を
してればいいの!! 分かった?』
 結局私は、質問に答えることが出来ず、逃げてしまった。だけど、兄もそれ以上追及し
ようとはせず、クスリと笑ってあやす様な口調で言った。
「分かった分かった。全く……舞衣はいつまで経っても甘えんぼのままなんだな」
『!!!!!(///////)』
 兄にそう言われて、私はより一層の恥ずかしさを覚えた。否定の言葉が喉から出掛かる
が、私はどういう訳かそれを押さえ込んだ。そして、その代わりにひたすらに兄を抱き締
めた。
――今晩だけ……せめて、今晩だけは、甘えんぼでも……いいよね?
 何かがふっきれた私は、兄が困惑するのも構わずに一晩中、兄に甘えたい放題に甘えた のだった。


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