お勉強編PART.4

 その後は比較的落ち着いた雰囲気で、三人は勉強を進めた。時折、隆志が不用意に伸ば
した手が静恵の手と触れ合いそうになり、理奈が鋭く攻撃したりする一面もあるにはあったが。
 そのまま一時間くらいが経過した時である。
「静恵さん、ちょっといいかしら」
「どうしたの、神野さん」
「あの……その、お手洗いを……」
 理奈は、やや恥ずかしそうに小声で言った。
「あ、それでしたら、部屋を出て右に行った突き当りにありますから、自由に使って下さい」
「ありがとう。それと、タカシ」
 理奈は、立ち上がりながら、隆志を睨み付けて言った。
「私が目を離した隙に、静恵さんに手を出したりしたらタダではおきませんからね。神野
家の力を持ってすれば、貴方一人を消す事くらい、いくらでも出来るのですから。お分か
りになりまして?」
「よく分かってるから、さっさと行って来い」
 しっしっと、追い払う仕草をすると、理奈はツン、とそっぽを向いて出て行った。
「ふう……」
 トイレの扉が閉まる音を確認すると、静恵はため息をついた。
「どうしたの?」
 と、隆志が聞くと、彼女はクタッとして、後ろに両手をつき、斜め後ろに体をそらす。
「何か……神野さんといると緊張しちゃって…… あの人、何かちょっと、怖い……」
「う〜ん。まあ、確かに独特の緊張感はあるかもな。俺は一緒にいることが多いから、
もう慣れてるけど」
「別府君……あれだけ言われて良く平気だよね。傷ついたりしない?」
「ああ。ありゃ、理奈にとってみりゃ挨拶代わりみたいなもんだ。さすがに、ベッドの下
見られたって聞いたときにゃ、ちょっとビビッたけど。それより……藤代さんに軽蔑され
たんじゃないかって……そっちの方が心配したけどな……」
 隆志は苦笑して言った。さっきの会話以来、多少の緊張感があったとはいえ、静恵は隆
志から距離を置く事もなく普通に接してくれていたので、幾分安心はしていた。だからこ
そこの話題も出せたのだが。
「え? だ、大丈夫。私は別に、そんな事で嫌いになったりしないから。それに……男の
子が全くそういうのとか持ってなかったら、逆に心配になっちゃうかも。ゲイなんじゃな
いかって」
「はは……確かにそうかも……」
 隆志の笑いにつられて静恵もクスクスと笑った。それから、静恵は両手で反動をつけて
体を起こすと、隆志の方に少し体を寄せた。
「そんなことより、勉強の続き、しないと……」
「え? あ……と、そ、そうだな」
「で、どこだったっけ。問2?」
「そ……そうそう。こんな長ったらしい文を英訳せよっていったって……」
「こういうのはね。まずは訳す前に、日本語自体を簡単に分割して……」
 静恵が教科書にじかに書き込んでいる間、隆志の胸はドクドクと激しく鼓動していた。
何ともいえないいい香りが、隆志の鼻腔をつく。シャンプーの香りだろうか。
「どうしたの?」
 隆志が無反応なのに気づいて、静恵が顔をこっちに向ける。その距離がすごく近い。
ちょっと隆志が頭を動かせば、すぐに触れてしまう程の近さだ。
「い……いや。あの……ちょっと、近寄りすぎじゃないかって、思って……」
「……イヤ?」
 小首をかしげ、ちょっと不安そうに顔を曇らせながら、静恵が聞いてくる。
「い……いや、その……嫌だとかそう言うんじゃないけど……り、理奈が、戻って来たら、
今度こそ俺、殺されかねないし……」
「……そう。別府君は、嫌じゃないんだ。良かった……」
 ホッと安堵の吐息を吐き、ニコッと静恵は隆志に笑いかけた。
「い、いや、だから、そういう問題じゃ……」
「大丈夫。神野さんが戻ってくる気配、まだしないし」
 気配って、忍者かよ、とツッコミを入れたい所だが、正直ギャグでこの場を乗り切れる
自信が無かったので、隆志はその言葉を喉の奥で引っ込めた。静恵は、隆志の右腕を取り、
ノートの上に誘導した。
「そんなことよりほら。早くここやってみて」
 と、さっきの問題の回答を迫る。が、隆志はそれどころではなかった。さらに体を寄せ
たらしく、右腕の肘に、柔らかいものが当たっている。それを意識してしまい、どうにも
英語の問題などに集中できる訳が無い。仕方無しに、隆志は変態扱いされるのも覚悟で、
それを言う事にした。
「あのさ…… 藤代さん」
「何? どうかした?」
「あの……肘に、胸が……当たってるんですけど……」
 すると、静恵の顔がこれ以上はないというくらい、真っ赤に染まった。ああ、これは怒
られるのかな、と隆志は覚悟した。
 が、静恵の口から出たのは、全く正反対の言葉だった。
「あ……あの……その…… これは……当たってるんじゃなくて……その…… あ、当て
てるんだけど……」
 その瞬間、隆志の頭はオーバーヒートを起こした。
「ちょ……ま……えと……あの……」
 上手く言葉がまとまらない。静恵の胸は、あからさまに今は隆志の腕に押し付けられている。
「わ……私だって……その……死ぬほど恥ずかしいのよ…… でも……別府君だから……」
「え?」
 隆志は驚いて、静恵の顔を見た。思わず生唾をゴクンと飲み込む。
「触りたかったら…… いいんだよ。さ……触っても……」
 隆志の頭の中は、一気に混乱の極みに達した。
「ちょちょちょ……待て待て待て!! どどど……どうしたんだっだっだっ……」
 隆志は、腕を引き離そうとしたが、静恵の手が絡まって離させてくれない。
「だ……大丈夫……私は……正気だから……」
 ジッ、と真っ直ぐで真剣な瞳で静恵は隆志を見つめた。一瞬、二人の視線が交差する。
しかし、隆志の方が静恵の視線から伝わる想いに耐え切れず、視線を逸らしてしまう。
「とっ……とにかく、この体勢はマズいだろ…… 理奈が来たら……」
「そんなに、神野さんの事が気になる?」
 静恵の声には微妙に嫉妬の響きが含まれていたが、隆志はそれには気づかなかった。
「ま、まあ、見つかったらとんでもない事になるからな……」
「私は……構わない。別府君さえ……いいんだったら……」
 静恵は、本心からそう言った。
――いっそ、そうなってくれれば、神野さんに……勝てるかも、知れないのに……
 隆志は、まじまじと静恵の顔を見つめた。赤く上気した顔。微かに潤んだ瞳は、さっき
と変わらず、真っ直ぐに隆志を見つめている。
「ちょ、ちょっと待て。とにかく一回腕を離してくれ。はな……話は、それから……」
 もう、隆志の右腕は、静恵の胸に触れている、などというレベルではない。静恵は、隆
志の腕をギュッと抱え込み、ふくよかな胸の感触が伝わってくる。
――ふ……藤代さんって、結構胸あるんだな…… 服の上からじゃ膨らみの見えない理奈
とは大違い……じゃなくて!!
 隆志は激しく頭を振って、妄想を追い払おうとした。とにもかくにも、このままだと劣
情が頭を支配してまともに状況を判断出来ない。多少惜しくはあったが、隆志は静恵から、
腕を引き離そうとした。
「……イヤ。もう少し、このままで……」
 隆志の引き離そうとする力に反発して、静恵は抱え込んだ腕を勢いよく引っ張った。が、
力を強く入れすぎたのか、バランスを崩した体は、反対方向へと倒れこむ。
「きゃっ!!」
「うわっ!!」
 腕を抱えられていたため、隆志も巻き込まれて一緒に横向きに倒れる。
「イテテ……大丈夫? 藤代さ……」
 静恵の上に圧し掛かった形になってしまった隆志は、心配して静恵を見る。静恵は、
ゆっくりと首を振った。
「ううん……大丈夫」
「ちょっと待って。今どくから」
 体を起こそうとした隆志の服の裾を掴み、静恵は軽く引っ張った。
「ダメ……」
 一方、トイレに向かった理奈は、冷たい水で顔を洗って火照った顔とイライラする心を
静めるのに懸命であった。
――正直、うかつでしたわ。普段大人しい静恵さんにして、あのように大胆にタカシにア
プローチするなんて。と、いうか、わたくし以外にタカシに興味を持つ女の子がいた事自
体が意外でしたけど……
 もちろん理奈は、静恵が隆志の家庭教師役を買って出た時から、薄々とその真意には気
づいていた。しかし、あそこで無理矢理にまで隆志を制止すれば、自分が隆志に好意を持
っている事があからさまになってしまう。だから、ここまでついてきたのであるが、今の
ところ、理奈の態度は裏目裏目に出ているような気がしてならない。
――あんなふうに隆志を貶して……暴力ばかり振るっていたら……いくら隆志でも、イヤ
に決まってますわ。そんなこと、分かってますのに……
 おまけに、それを静恵がやさしく取り成したり、気遣ったりするので、余計に理奈の冷
たさが際立つ結果となってしまっている。
――はあ……どうしたら宜しいのでしょう…… せめて、もう少し素直になれればいいの
ですけど…… かと言って、急に態度を変えたらむしろ変ですし、露骨過ぎますし……
 いくら考えても、思考は同じところを行ったり来たりしていた。
――タカシは……どうなのかしら? ああいう……素直で、可愛らしい女の子の方が……
好きなのかしら……
 鏡に映る自分の顔をまじまじと見てみる。顔を洗って化粧を落としてしまったから、ま
たやり直さなければならないが、もともとそんなに化粧をする方ではない。
――自分で思うのも何ですけど……悪くは……無いはずですわ……
 小物入れようのバッグから、薄いリップとファンデーションを取り出し、パッパッと肌
の手入れをする。その作業をしているうちに、理奈の思考が憂鬱な想像から現実へと戻っ
てきた。
 そこで、理奈はハッ、と気づいた。
――わ、わたくしとしたことが…… ちょっと長く考え事をし過ぎましたわ!
 あまりにも長く二人だけにして置きすぎたような気がする。理奈は慌てて支度を済ませ
ると、トイレから外に出た。
「……ダメ……離れないで……」
 静恵は、繰り返し隆志にそう言うと、彼の顔をじっと見つめたまま押し黙った。隆志は、
彼女の上に覆いかぶさるような姿勢のままで、体を硬直させていた。
――こ、これは…… 誘ってるのか? お……俺を? まさか……いやでも……
 生まれてこの方、女の子に迫られた事など一度もない隆志には、イマイチ今の状況が信
じられなかった。しかし、静恵のように普段から大人しい子が、自分に嘘をつく理由が見
当たらなかった。
 さすがに、隆志の顔も真っ赤になり、額から汗が滲み出る。
 静恵は、そっと瞳を閉じた。呼吸が少し速い。完全に隆志を受け入れる気持ちなのが見
て取れた。
 ここは行くべきなのだろうか? 少なくとも、誰かに聞けば絶対に「行け!」と言うだ
ろう。実際、隆志の心の半ばもそう言っていた。彼女いない暦=年齢で、親しいと呼べる
女友達も別段いる訳ではない。唯一、理奈とだけはよく話すが、あれは親しいのだろうか? 
それは、隆志には疑問だった。
 だが、もう一方で、もう一人の自分がそれを押し止めていた。今、静恵に何かしたとし
ても、それは単に劣情に押し流されてのことじゃないのか? 今まではクラスの大人しい
女の子、という視点でしか見ておらず、可愛いなと思った事はあっても、本気で好きにな
っていた訳じゃない。簡単な気持ちで彼女に手を出す事は、もし静恵が本気なのだとした
ら、それは冒涜行為に等しいのではないか。
 そして。
それを隆志の心の中で詰るのは、いつしか自分自身ではなく、理奈の姿にすりかわっていた。
――ダメだ……少なくとも、今は。ちゃんと、彼女の気持ちに対する答えを出すまでは……
 踏ん切りをつけるように、隆志は顔を上げた。と、目の前に、ニーソックスをはいた、
二本の細くキレイな足が目に入った。
 隆志の背筋に戦慄が走る。
「この…… け、ケダモノがっ!!」
 理奈のサッカーボールキックはものの見事に隆志のあごを捕らえ、隆志は訳の分からな
い悲鳴を上げて、後方へ吹っ飛んだ。
 もっとも、舞い上がった理奈のスカートの中からかいま見えた、白のフリルのついたピ
ンク色のパンティは、しっかりと視線に焼き付けておいたが。


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