終章〜理奈編〜PART.1

 隆志は、振り返って廊下の方を向いた。そこには、いつの間にか、静恵が不安そうな表
情も露にして、立ち尽くしていた。
「藤代さん……」
 隆志は、呟いた。と同時に、彼女は隆志に駆け寄ると、その体に力いっぱい自分の体を
預けて抱きついた。
「ちょ、ちょっと! 藤代さん!?」
「……行かないで……」
「え?」
 困惑する隆志の目に、静恵の顔が映る。彼女の瞳には、微かに涙が浮かんでいた。
「別府君…… 神野さんの所に行くんでしょ?」
 隆志は目を見開いた。静恵は、隆志の表情から答えを読み取り、ふるふると首を振る。
「ヤダ……行っちゃ…… だって、今行っちゃったら……別府君……もう、帰って来ない
でしょ? ……そんなの……私……イヤ……」
「で、でも……理奈をほっとく訳には……」
「そんなに、神野さんの方が大事なの? 私だって……ううん……私の方が……ずっと……
ずっと、別府君の事が好きなのに!!」
 隆志は静恵の顔から、眼を逸らした。彼女の今日一日の態度をみれば、いくら鈍いと言
われ続けた隆志でも、ある程度の推測は付いていた。にもかかわらず、面と向かって言わ
れると恥ずかしさで、まともに彼女の顔を見ることが出来なかった。
「私……初めて同じクラスになって……最初に声を掛けてくれたのが、別府君で……その
時から、ずっと、心の中に焼きついて離れなくて…… でも、いっつも神野さんが傍にい
たから声を掛けるなんて、出来なくって…… だから、今日は本当に嬉しくて、楽しみで、
死んじゃいそうなくらいワクワクしてた……」

 静恵は一旦言葉を切った。しかし、隆志から何の反応も無いのを確かめると、
さらに言葉を続ける。
「正直言って…… 今日の私、自分でも信じられないくらい大胆だったと思う。あんな風
に、別府君の傍に寄ったりなんて、今までの私じゃ出来なかった…… だって、こんな大
人しい女の子、別府君が相手にしてくれる訳ないって思ってたから。なのに……別府君、
すごく優しく接してくれて、それで、少し勇気を出してみたの。そうしたら、どんどん大
胆になれて…… 多分、神野さんへの対抗心もあったと思う。負けたくないって思ってた
から。だから、お料理を褒めてくれたことも、信じられないくらい嬉しかった。神野さん
の、プロ顔負けの料理食べた後だもの。絶対、美味しくないって思ってたのに……
 別府君といると、私、どんどん自分に自信が付いてくる。無口で陰気な女の子から、変
われる気がする。でも……それは、全部、別府君と一緒にいたいから、っていう想いから
なれたんだと思う。
 お願い、別府君。こっちを向いて」
 静恵は、両手で隆志の顔を挟むと、無理矢理彼女の方を向かせた。
「お願いだから…… 真っ直ぐ、私を見て。私……答えが知りたい。別府君の気持ちが……
知りたいの……」
 無意識のうちに、彼女の目からは涙が零れ落ちていた。
「お願い……だから……」
 顔から離した手で、今度はシャツの胸元を掴んで、静恵は隆志にピッタリと寄り添うと、
不安そうに俯いた。
「…………………………………………ありがとう」
 長い沈黙の後に、隆志が答えた。静恵は、その声にパッ、と表情を明るくして顔を上げ
た。が、その顔がすぐに怪訝そうに歪む。何故なら、隆志の顔は今までに見たことがない
くらいに苦渋に満ちていたからである。
「俺……すごく、有難く思ってる。藤代さんみたいな可愛らしくて、性格も良くて……
そんな、俺なんかにもったいないような女の子から、告白されて……」
 絞り出すように、一言ずつ区切りながら、隆志は言った。そして、再びしばしの沈黙の 後、ギュッと顔をしかめて、隆志は告げた。
「でも…………………………………………ゴメン」
 その言葉は、残酷なまでに、静恵の耳朶から脳髄の奥にまで突き刺さった。

「なん…………で…………」
 ギュッと胸倉を掴んだまま、静恵は隆志を問い詰めようとして、言葉を切った。
――落ち着いて――冷静に、ならないと――激情に負けちゃ――ダメ……――
 そのままの姿勢で、静恵はしばし荒い息を吐いて、心を落ち着かせようと努力した。
少なくとも、隆志の前で醜態は見せたくなかったから。
「……やっぱり……神野さん……?」
 静恵の問いに、隆志は静かに頷いた。
「でも……神野さんは……別府君の事……何とも思ってないって……」
「聞いたのか? アイツに」
 隆志の問いに、静恵は素直に、コクンと頷く。それで隆志は理解した。食事の間、あれ
だけ静恵といちゃついていたというのに、顔をしかめて隆志を睨んではいたものの、一言
も口を挟まなかった訳が。
「私……神野さんに聞いたの。別府君のこと、ホントは好きなんじゃないんですか?って。
でも、神野さんは、そんな事ありえない。私が別府君の事を好きなら、好きなようにすれ
ばいいって…… だから――」
「アイツなら、そう言うよ。俺が知っている中じゃ、世界でも随一のひねくれ者だからな。
アイツは、自分の正直な想いを絶対に人に明かそうとはしない。もともと恥ずかしがり屋
な上に、お嬢様としてのプライドも加わっているからな。自分がこうありたい、こう見せ
たいと思う姿を常にイメージして生きているような奴なんだ。だから、自分が誰かを好き
になるなんて、例え俺じゃないにしても、死んでも他人には知らせないだろう。だけど……
だけど、アイツの心根は、そんなに強くないんだ。強がって、虚勢を張ってばかりいるけ
ど……多分、僅かでも傷つけば、簡単に壊れちまう」
「だから……だから、別府君が支えるっていうの? でも、そんなの違うと思う。今まで
だって、別府君、神野さんの傍で、ずっと悪口に耐えてやってきたじゃない。そんなに面
倒見てあげることないよ……」

 静恵の必死の訴えかけに、隆志は首を振った。
「それは違うよ、藤代さん。理奈の俺に対する悪口なんてのは、悪意のない戯言みたいな
もんだ。それに俺が……俺自身、理奈とああ言ったやり取りをしたり、時々見せる本音を
突付いて仕返ししたり……強がってばかりいて……でも、本当は弱くて、優しい心の持ち
主の、アイツが、大好きだから。だから、理奈と一緒にいて苦痛だなんて思ったことは一
度だってないよ。それだけは確かな事だから」
 最初はためらいがちだった隆志の言葉は、最後にはもはや口を差し挟む隙が無いほど、
キッパリとしたものになった。
 それで、静恵ははっきりと悟らざるを得なかった。
 もはや……否、最初から、自分の立ち入る隙など、どこにも無かったんだという事を。
 例え、どんな言葉を言っても、彼を止める術は無いという事も。
 それでも、しばらくの間静恵は、隆志のシャツを強く握ったまま、うつむいて黙してい
た。これを離してしまうと、隆志との最後の1本の糸ですら切れてしまう。そう感じたか
らである。
――離したくない……このままずっと……このままでいたい……
 そう想う気持ちの一方で、もう一つの彼女の想いがそれを拒もうとする。
――離さないと……別府君に……迷惑が掛かっちゃうから……
 二つの交錯する想いが、静恵の中でせめぎ合う。その間、隆志は黙って彼女を見据えて
いた。今すぐにでも理奈の所に行きたい。だけど、静恵の想いを乱暴に振り払う事は出来
なかった。だがしかし、いつまでもこうしてはいられない。
 しばらく経って、隆志は重い口を開いた。
「俺のせいだな。ゴメン。俺がもっとはっきりした態度を取っていれば――」
 そこで隆志の言葉が途切れる。静恵が、右手の人差し指を軽く彼の口元に当てたからで
ある。面を上げた彼女の顔は、穏やかに微笑んでいた。
「いいの……もう…… 多分、最初から分かってた事だから。私が、二人の間に割り込ん
だだけ。ちょっと……チャレンジしてみたかったの。ダメ元でって思ってたから、だから
……私は大丈夫だよ」

 そこで言葉を切ると、彼女は隆志から離れた。そこに、もはや迷いは無かった。
「行ってあげて。神野さんの所に。多分、神野さんも別府君の事が好きだって思うの。勘
みたいなものだけど、でも間違いないと思う。私は……大丈夫だから。それと……これ」
 静恵は、はい、と隆志のバッグを差し出した。
「来週からも……お話くらいはしてくれるよね?」
「もちろん。友達としてなら……」
 それ以上は言葉が続かなかった。しかし、静恵はコクン、と笑顔で頷くと、手を振った。
「ありがとう。それじゃあ……また月曜日に、学校で」
「ああ。今日はいろいろとありがとう。料理……本当に美味しかった」
 それだけ言うと、隆志は静恵から背を向けた。素早く靴を履くと、もはや静恵の方を向
く事は無く、外へと駆け出していった。

 隆志が外に出るまでの間、静恵はずっと笑顔を絶やさずに手を振っていた。隆志の姿が
消え、玄関の扉が静かに閉まってようやく静恵は手を下ろす。押さえてきたものがググッ
と上に向かってこみ上げてきた。目に涙が溢れ、ポタリ、ポタリ、と足元に落ちる。
「……やっぱり……敵わなかったよ……私……」
 一言呟くと、ガクン、と膝が自然に折れ、そのまま静恵はその場に突っ伏した。
「ああっ……うっ……ううっ……ハッ……うう……」
 人気の絶えた玄関で、彼女は声を殺して泣いた。涙腺から涙という涙が溢れ、涸れ果て
るまで。そして、悲しみという悲しみが放出され、心の中が空っぽになるまで、彼女の嗚
咽は止まることなく、ガランとした家の中に響き渡り続けたのだった。


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