終章〜理奈編〜PART.2

 玄関を出るとすぐ、隆志は駅の方へと向かった。
――理奈は、まだそう遠くへは行ってないはず……
 確証は無かったが、確信はあった。彼女の家にはお抱えの運転手もいるから、電話をす
れば迎えにくらいは来て貰えるだろう。だが、今、理奈は動揺した自分の姿を誰にも見ら
れたくないはずだ。だから、この近くの、どこか人気の無いところにいる筈だと。
 そこで、隆志はふと、思い当たるものがあった。来る途中に、確かそこそこ大きな公園
があったはず。土地感のない理奈は、多分そこにいるはずだと。
 バッグを担ぎ直すと、隆志は全力で駆け出していった。

「……ここは……」
 ふと、気が付くと、理奈は広い児童公園のような場所に立っていた。ここまでほとんど
無我夢中で走って来たのでどうやって来たのかはよく覚えていない。ただ、この公園には
見覚えがあった。だから、来る途中で通ったのだろう。と、いう事はここは駅と静恵の家
との通り道だということだ。どうやら、知らない道を闇雲に駆け回るような愚は犯さな
かったようである。
「タカシの……バカ……」
 一言呟くと、理奈はゆっくりとブランコに腰掛けた。鎖がキィ……キィ……と軋んだ音
を立てる。
「ずっと……わたくしというものが……そばにいたというのに……何で……静恵さんなん
かと……」
 目頭に熱いものが込み上げてきたが、目を何度かしばたいて、それを抑える。
 中学の時、帰国子女として日本に帰ってきた理奈だったが、右も左も分からない理奈に
いろいろと教えてくれたのが隆志だった。単に、家がすぐ近所で、年齢も一緒。中学での
クラスも同じ、というのが理由に過ぎなかったが、何の義理もないのに、彼は親切にいろ
いろと教えてくれた。
 思えば、その時からずっと、理奈は隆志の事を意識していたのだ。だが、それを素直に
認めるには、彼女にはプライドがありすぎた。だから……事あるごとに、つい気持ちが正
反対の方向を向いてしまっていた。

「…………違いますわ。バカなのは……わたくしの方……」
 自嘲気味に理奈は呟く。
「そうですわ……タカシの優しさに甘えて……厳しい事ばかり言って……自分の想いなど、
隠し通して来たんですもの…… それで、タカシが気づかなくても、当たり前ですわ。自
分勝手なこと……散々してきたんですもの。当然ですわよ……ね……」
 後悔が脳裏を過ぎる。が、理奈は自分を知らないほど愚かな訳ではない。だから、もっ
と素直になっていればとは思わなかった。それは、自分には出来ない事だろうから。相手
の事を好きになればなるほど、その想いを隠そうと、厳しい言葉を言ってしまうだろうか
ら。
 それでも、自分は隆志なら大丈夫だと、甘えていたのである。きっと分かってくれるだ
ろうと。
 だけど、それもはかない幻想だったのだろう。
 隆志だって男だ。自分のように厳しい事ばかり言う女より、優しく、ストレートに甘え
てくる女性の方がいいに決まっている。
「……わたくしには……無理ですわ。あんな風には振舞えない。あんな風に……気持ちを
素直に表すことなんてできませんわ……」
 今頃、隆志は何をしているのだろうか? 静恵と二人、仲良く食事の続きでもしている
のだろうか。それを思うと、体がカッと熱くなる。が、その原因を作ったのも自分だ。だ
から、仕方が無い。割り切れはしないが、無理矢理理奈はそう思おうとした。一方で、理
奈の心のもう一方は、隆志が自分を追って来てくれる事を夢想する。それも、理奈は首を
振って否定した。
――そんな、都合のいい事、ありはしないのに……わたくしの頭も、意外とおめでたいの
ですわね。タカシの楽観主義が移ったのかしら?
 無理に冗談っぽく考える。すると、不思議な事に、僅かではあるが鬱々とした気分が晴
れた気がする。空元気でも元気、とはよく言ったものだ。
「ふぁ……は……くちゅんっ!!」
 体が現実感を取り戻すと同時に、くしゃみが出た。少し体が冷えたようだ。そろそろ日
が暮れると肌寒い時期である。理奈は身震いした。
「さすがに……そろそろ、帰らないと……」
 そう思って、顔を上げたその時、彼女の視線に飛び込んできたのは――

「……嘘……」
 理奈は目を擦る。有り得ないものを見たとでも言うかのように。それから、もう一度顔
を上げる。しかし、やはりそこに立っていたのは――隆志だった。
「よ……よお」
 と、隆志は普段どおりの挨拶をしようとした。が、ちょっと声が上ずってしまう。
「多分、ここじゃないかと思って」
 普段の隆志と違い、ちょっと躊躇いがちな口調で彼は言った。
「……どうして、わかりましたの? わたくしが、ここにいるって……」
「分かるさ。もう、何年もの付き合いになるからな」
 理奈はため息をついた。いや。正確にはため息ではなく気持ちを落ち着かせる為の深呼
吸だったが、自分が今、ものすごく動揺している事を隆志に悟られたくはなかった。
「正直、分かって欲しくはありませんけど……」
「迷惑だったか?」
「来てしまったものは仕方ありませんわ。…………静恵さんは……どうなされましたの? 
ほったらかしにして……宜しいんですの?」
 さすがに、この一言を吐き出すには胸の痛みを我慢出来ず、辛そうに理奈は言った。
それを聞いた隆志も、同じような顔をする。
「……大丈夫だ。それに……俺には、理奈の方が大切だから」
 予想外の、ストレートな一撃。それは、理奈の心に直撃し、彼女が自ら覆っていた殻に
大きなヒビを入れた。
「な……何をバカな……ことを…… 静恵さんみたいな……素直で、可愛らしい子なんて、
他を探そうと言っても、そうそういるものではありませんわ」
「お前の言う通りだと思う。けど、俺は、素直じゃなくて、いつも暴言ばっか吐いて、そ
れでいていつも傍にいてくれて、ちょっとしたことですぐに照れちゃうような子の方が好
きだ」
 その言葉で肝が据わったのか、隆志は真っ直ぐに理奈の顔を見つめた。
「俺は……俺には……お前じゃなきゃダメなんだよ。理奈」

 理奈は頭がクラクラとした。信じられない。隆志が自分に告白してる。これは、何かの
夢に違いない。でなければ、自分の頭がどうかしたのか。
「嘘ですわ……だって、貴方、ずっと、静恵さんばかり褒めて、静恵さんばかりに甘い顔
をしていたじゃありませんの……」
「……ゴメン。その事は……悪かった……」
 いつにない素直さで謝られて、逆に理奈の方が戸惑いを覚えた。
「べ……別に、貴方を責めた訳ではありませんわ。ただ、わたくしに遠慮などすることは
ないと言っているだけで……」
「いや。正直、俺は理奈に甘えていたんだと思う。いつも、傍にいるのが当たり前だと
思っていたから。それに、正直どうしていいか分からなかったし。あんな風に、女の子に
迫られた事なんてなかったから。けど……そういう俺の優柔不断さが、お前にも、彼女に
も辛い思いをさせたと思う。
 けど……お前が、怒って出て行った時、ふと、もう二度と会えないんじゃないかってそ
んな不安に襲われた。それで、ようやくはっきりと気づいたよ。俺には、理奈じゃなきゃ
ダメなんだって。藤代さんは確かに可愛いし、性格も良い。けど俺が、本当に傍にいて
欲しいのは……お前だけなんだ……」
 早口に一気にまくし立ててから、隆志は黙り込んだ。理奈は、しばらく呆けた様な顔つ
きで立ち尽くしていた。そして、隆志の言葉の全てを反芻すると、顔を真っ赤にしてうつ
むいてしまった。
 重く、長い沈黙の時間が続く。いや、実際にはほんの僅かな一時だったかもしれないが、
二人には随分と長く時が経ったかのように感じられた。
 その沈黙を破って、隆志が口を開く。
「……悪い。一方的なことばかり言って。でも……例え、理奈が俺の事をどう思っていよ
うと、誤解だけはされたくなかったから……」
 その言葉に、理奈が顔を上げた。頬が真っ赤に上気し、目は涙で潤んでいる。
「本当に……貴方は、大馬鹿者ですわ……」
「ごめん。悪かった」
 隆志の謝罪に、理奈は首を振る。
「だから大馬鹿者だと言っているんですの…… わたくしの事を……よく分かっている割
には……肝心の所だけは気づかないで……」

 理奈は隆志の顔を見た。隆志は、理奈の言葉の意図が理解できず、キョトンとした顔つ
きで、理奈を見つめ返している。
 興奮する心臓を抑え、カラカラに乾いた口を何とか湿らすと、理奈は言った。
「わたくしは……もうずっと前から……貴方に……貴方だけに、傍にいて欲しいと言うこ
とに気づいておりましたもの……」
 隆志は驚きのこもった目で、理奈を見た。
「……何ですの? その……意外そうな顔つきは。わ……わたくしが、こんなこと言うな
んて、おかしいみたいな……」
 顔を真っ赤にしながら睨みつける理奈。同じく顔を赤くしながら、理奈の視線に耐え切
れないというように、隆志はそっぽを向いた。
「いや、その……そういう訳ではないんだが……その、いいのかな、って……」
「そっ……それは……わたくしの方こそ…… こんな、普段から罵ったり文句ばっかり言
うくせに、貴方がちょっと他の女の子にちやほやされただけで、嫉妬で目がくらむような、
そんな女なのに……貴方は、それで宜しいんですの?」
「ああ。と、いうかそういう理奈だからこそ好きになったんだ」
「こ……後悔なさったり……しません?」
「後悔なんて、するはずがない」
 キッパリという隆志を、理奈は精一杯、疑わしげな視線で見つめた。とはいえ、顔は相
変わらず真っ赤なままであるが。
「……あ、貴方のおっしゃる事など……信用できませんわ」
「じゃあ……どうすれば、信じるんだよ」
 困ったように聞き返す隆志。その顔を見つめていられず、理奈は思わず下を向いてから
言った。
「……こっ……こっ……言葉でなく……その……た、態度で……きちんと、示して……
いっ、頂きたい……ですわ……」
 再び、二人の間に沈黙の時が流れる。だが、今度はそう長くは続かなかった。
 ゴクリ、と隆志が唾を飲み込む音が聞こえる。
 と、次に、隆志は右手を掬い上げるように、理奈のあごに当てる。下を向いていた理奈
の顔が自然と持ち上がる。その顔に、隆志はすこし屈んで自分の顔を近づけると、唇を、
理奈のそれに重ね合わせた。


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