序章

「別府隆志」
 教師から名を呼ばれ、ノロノロと隆志は教壇へと向かった。
「全く……一体、貴方は授業中何を聞いていたのかしらね。来週の中間試験もこれじゃあ
思いやられるわ。正直、2学期もこんな成績が続いたら、進級についても考えなくちゃな
らないわ」
 眼鏡を掛けたキツネそっくりの英語教師が、嫌味たっぷりに言う。人間、四十を過ぎて
独身だと、こうも性格が捻じ曲がるものだろうか。いや、本人の資質の問題だろう。
 ため息をつきながら、隆志はテスト用紙を見た。赤ペンで大きく15点という文字が書
かれ、あちこちに×印が踊っている。中間テスト直前の実力試験とはいえ、成績には反映
されてくる。
「はい。今日はここまで。皆さん、今日の結果をよく頭に入れて、来週の中間テストに臨
むこと。いいわね」

「ハァイ、タカシ。相変わらずそのマヌケな頭は直らないの?」
 未練がましく隆志がテスト用紙を覗き込んでいると、隣の席の神野理奈が声を掛けてきた。
「うるせー。英語圏で育ったお前には、日本人の苦労はわからねーよ」
「あら? そんなの関係ありませんわ。わたくしは、両方ともほぼ完璧に使いこなせます
し、古文だって得意ですもの。ちょっと見せてごらんなさいな」
「ちょ、止めろって……」
 隆志の制止の声も聞かず、理奈はヒョイ、と隆志の手からプリントを抜き取った。
「あらあら。15点って……真面目にテストを受けていて、どうやったらこんな点数が取
れますの? チンパンジーだって、教えれば20点くらいは取れるんじゃありませんの?」
「俺の頭は猿以下かよ……」
「猿とチンパンジーは別物ですわ。それくらいの区別はお付けになられた方が宜しくてよ」
 よく口が回るもんだ、と隆志は感心した。もっとも、理奈がこれだけ悪口雑言を放つの
も、隆志に対してだけなのだが。
 隆志は、理奈の手からプリントを取り返した。しかし、それはもう一度、隆志に現実を
突きつける結果となっただけだが。
「しかしやべーよ。あのキツネ女と来たら、成績不振の奴は容赦なく落第させるからな……」
「それはせいせいしますわね。少なくとも、貴方と来年は同じクラスにならなくて済むのですから」
 微かに笑みを湛えながら理奈が追い討ちをかける。
「つ……冷たいよな……お前って…… って、そうだ、理奈。お前、帰国子女なんだから
英語は得意だろ? 俺に教えてくれよ」
 隆志は両手を合わせて理奈を拝んだ。だが、理奈はツン、と横を向く。
「冗談じゃありませんわ。何で、このわたくしがわざわざ貴方の勉強を見なくちゃなりま
せんの?」
「……あの……」
「いいだろ? 家だって近いし。大体、越してきたばかりの頃は俺が散々面倒みてやって……」
「あれは、頼みもしないのに貴方が勝手にやっただけですわ。そんな事で恩を着せような
どとなさらないで貰えます?」
「……あのぅ……」
「お前には頼まれてなくても、先生には頼まれたんだよ。それにお前だって、文句言いな
がらも、いろいろと役立ててたじゃねーか。そんな恩人が留年の危機に立たされているっ
ていうのにだな……」
「ですから、わたくしの知った事ではありませんわ。大体、人に物を頼むというのであれ
ば、それなりの頼み方というものがあるでしょう? 貴方のような甘ったれた考え方では……」
「あのっ! ちょっと……いいですか?」
 急に割り込まれた声に、二人は口喧嘩を中止して、そっちの方に視線を向けた。理奈の
後ろの席に座る藤代静恵が、真っ赤な顔をしてこっちを見ている。
「あら? 静恵さん……どうかしまして?」
 ちょっと唖然とした表情で、理奈が静恵に聞いた。おっとりとして、普段表情をあまり
表に出さない静恵にしては珍しく、恥ずかしそうにうつむいている。
「あの、何か用かな?」
 隆志が、ちょっと戸惑いながら静恵に聞く。その様子を理奈はジト目で睨んでいた。
「何か……わたくしに対する態度とは随分違うように感じますわ」
「お前と違って、藤代さんは繊細だからな。俺だって気ぐらい使うわい」
「わたくしと違ってってどういうことですの? 貴方は大体……」
「あの…… いっ……いいですか?」
 勇気を振り絞るような決然とした声で、静恵が二人の間に割って入ってきた。
「ああ。はい、どうぞ」
 静恵は隆志の前に立つと、おずおずと切り出した。
「あの……その……も、もし……その……良かったら……私が、別府君に……教えてあげ
ようか?」
「「……え?」」
 静恵の意外な発言に、理奈と隆志は同時に声を上げる。
「あの……私……自分で言うのも何だけど……結構、英語は得意だから……。それに……
理奈さんの英語はネイティブだから、人に伝えるのって難しいと思うんだけど……私のは、
まあその……テスト向きだから……」
 二人とも、ポカン、として静恵を見つめた。普段物静かで滅多に口を利くこともない彼

女が、意識してか知らずか、理奈に対して挑発的とも取れる発言をしたのだから。静恵の
方はというと、両手を前でギュッ、と握り合わせ、うつむきながらも上目遣いに隆志の方
を見つめている。
 先に我に返ったのは理奈の方だった。
「い、い、いけませんわ、静恵さん。もっと自分を大切になさらないと。こんな男と二人
きりで勉強を教えることなど、野獣の前に自分を投げ出すようなものです。それにそもそ
も、どうせタカシなど、目の前の女性にデレデレしちゃって、勉強など身が入らないに決
まってますわ。そうですね。日本の……えと……コトワザで言えば、百害あって一利なし、
です。ええ、悪いことは言いませんわ。絶対お止めになった方が宜しくてよ」
「……あの……どうかな? 別府君」
 理奈の畳み掛けるような口調を無視して、静恵は隆志にもう一度聞いた。
「ちょっと! 聞いてますの、静恵さん」
 しかし、それにも静恵は答えない。ただ、じっと隆志の返事を待っていた。
「い……いや、その……」
 隆志はチラッ、と理奈の方を見た。普段から吊り上り気味の目がさらに吊り上って見え
る。気のせいか、全身から電気がバチバチと飛び、怒りのオーラがにじみ出ているように
も見えた。
――だがここは……敢えて勝負に出よう。この状況、逃す訳にはいかん。
「……そうだな。理奈が教えてくれないなら……もし、良かったら」
 静恵の顔がパアッと明るくなる。同じクラスになって半年経つが、こんな嬉しそうな静
恵の表情は見たことが無い。逆に理奈は…… 隆志はその顔を見る勇気がなかった。
「ホントに? じゃあ、いつにしようか? えーと、私は……いつでもいいんだけど……
別府君の学力からすると、たくさん時間取れる方がいいよね? 土曜日とか……どうか
な?」
「俺は別に構わないよ。ってか、俺が頼む立場にあるんだから、藤代さんのスケジュール
に合わせるし」
「じゃあ、土曜日に……私の家でやろうか。……ウチの親、ちょうど土日は旅行でいない
から。だから……静かだし、落ち着いて出来ると思うよ」
 ゴホッ!! ゴホッ!! ゲヘガハッ!!
 隆志は動揺して思わず咳き込んだ。
「ど、どうしたの、別府君?」
「い、いや……何でも……」
――マジかマジか? これはどう考えても……誘ってるとしか…… いや、落ち着け俺。
藤代さん、結構天然系だから、気づいてないのかも……
「い……いいの? お邪魔しても……?」
「うん…… 全然構わないけど……」
「いっ、いけませんっ!!!!」
 それまで黙っていた理奈が爆発した。
「たっ……たっ……ただでさえ、タカシと二人きりなんで危険なことですのに、誰もいな
い家で二人っきりなんて、そんっ……貞操を捨てるようなものですわ!!!!」
 ガタンッ、と椅子から立ち上がり、理奈は静恵の両肩を掴むと物凄い形相で迫った。思
わず静恵は二、三歩後ろに下がる。
「悪いことはいいませんわ。ご自分の事を大切にしたいと思ったら、絶対にそんな事はお
止めなさい。ただでさえ殿方というものは頭の中がイヤらしい事で渦巻いておりますのよ。
ましてやタカシと来たら、脳みその中はそう言った妄想で一杯ですのよ。きっと今も、頭
の中では静恵さんとの二人っきりの時を思い描いているに決まってますわ」
 しかし、気圧されながらも静恵ははっきりと言った。
「だ……大丈夫ですよ。私は……別府君を信頼してるし……それに、神野さん、よく別府君と一緒にいるけど、何かされた訳じゃないんでしょ?」
「わたくしがタカシと一緒にいるのは、このバカが何か社会的犯罪行為を犯さないかどう
か監視するためですわ。それに、別に何もされなかった訳じゃありませんわ」
「……え?」
 一瞬、ドキリとした顔で静恵は理奈を見つめた。
 しかし、理奈は胸を張ってこう続ける。
「ただ、手を出される前にのしただけの事。わたくしは常に気をつけているから大丈夫な
だけですわ」
 その言葉に、静恵は聞こえないような小さな吐息をついた。
「それは、多分神野さんをからかっての事で、本気じゃあなかったんだと思いますよ。そ
れに……」
 と、言いかけて、静恵は口をつぐんだ。
――別府君になら何されてもいい、何ていったら、神野さん、倒れちゃうかな?
 そこで、その思いは口に出さず、静恵は別のことを言った。
「そんなに心配なら……神野さんも一緒にどうですか? お勉強会という事で。それだっ
たら、安心でしょうし、私も人が多い方が、楽しいから」
 静恵の無邪気そうな笑顔を見て、隆志はホッとしたような残念なような複雑な気持ちに
なった。
 理奈は、ちょっと悩むような素振りを見せたが、やがてため息を一つ吐いて言った。
「仕方ないですわ。言っておきますけどね、タカシ。わたくしはあくまで、貴方が変な事
をしないように監視をしに行くだけですからね。別に、貴方と勉強がしたい、とかそう
思っている訳ではありませんのよ。いいですわね?」
「はいはい。分かりましたよ」
 呆れたような隆志の口調に、静恵はクスクスと笑った。

 次の授業の間、静恵は土曜日の事を思って授業がまともに耳に入らなかった。
――別府君と一緒に勉強……嬉しいな…… 二人っきりじゃなくなったのはちょっと残念
だけど……でも、それはそれで、多分楽しいしね。きっと……


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