その1

日曜日の朝、母親に起こされて目が覚めた。
休みの日は好きなだけ寝てて良いっと言われているだけに、ちょっと不満げな気分。
何事かと聞くと、母親は父親と二人で出かけるから、と告げて部屋を後にした。
それなら書置きでもして、どこへなりと好きなところへ行けば良いのに、と考えつつ
台所へ行き、冷めかけた朝ごはんを口に運んだ。
二人は親戚の家に行くらしい。そして、俺はお留守番。
『お隣、今日引越してくるみたいだから。挨拶にきたら、ちゃんと丁寧に挨拶するのよ?』
ここ2年くらい、空き家だった隣の家の方向をぼんやり眺めながら、適当に相槌を打っておいた。
どんな人が来るかは分からないけど、付き合いがあるとすれば母親同士だろう。
仮に、自分と同い年の子供でもくれば、俺も何かしらの付き合いが必要になってくるかもしれない。
漫画やアニメでは、自分の部屋の窓と隣に住んでる美少女の部屋の窓が向かい同士になっていて
色んなハプニングがあったりする。
ちょうど俺の部屋も隣の家の1室と窓が向かい合わせ。しかも、窓越しに会話しようと思えば
できなくもない距離だ。
そんな淡い期待をしつつ部屋に戻って窓を開けてみたが、向かいの窓はいまだに閉じられたまま。
玄関の方を見ると、引越し用のトラックが1台止まっていた。
人といえば引越しの作業をする人ばかりで、肝心な家主は見当たらない。
代わりに、二人仲良く連れ立って出かける両親の姿が見えた。
特に挨拶もしている様子もない。どうやら家主は居ないようだ。
しばらくの間、家主が見えないか興味津々で見ていたが、だんだんと飽きてきたので
窓を閉めて、読みかけの小説を手にとり物語の世界へと行く事にした。

夕方になり、隣が引越しをしているという事を忘れかけた頃、不意にインターホンの音が鳴った。
こんな時間に誰だろう?と、いそいそと玄関へ向かう途中、ふと引越しの事を思い出す。
もしかしたら、挨拶かもしれない。やや緊張しながら玄関のドアを開けると、見知らぬ家族連れが
立っていた。
父親、母親、そして・・・女の子ではあるが、おそらく幼稚園児か小学生だろう。
やっぱり現実はこんなものだろうな・・・と内心ガッカリしながら、相手が話すのを待った。
やや間があって、父親と思われる男性が口を開いた。
「こ、今度お隣に引っ越してきた椎水です。今後ともよろしくお願いします」
父親に続いて、母親も柔らかな物腰で『よろしくお願いします』と続けた。
「別府です。父と母は生憎留守にしていまして、後ほど伺うように言っておきます」
こんな挨拶なんてしたことがなかったので、とりあえずそれっぽい事を言っておいた。
もう一人の女の子といえば、俺の顔をじっと見たまま固まっていた。
きっと人見知りをするタイプなんだろうな。俺の甘い幻想を打ち砕いた張本人ではあるが、当人は
まったく悪くない。まぁ、優しいお兄さんと思っててもらっても損はないだろう。
そんな事を思いつつ、できるだけ精一杯の笑顔で微笑んでみた。
しかし、どう見えたのかは分からないが、女の子は母親の後ろへ隠れてしまった。
なんだろう・・・軽いショックだ。
そんな娘の行動に苦笑いしながら、母親は『ごめんなさいね。いつもはこんなじゃないのですけど』と
言った。
女の子は母親の陰からチラチラとこっちを見ている。
再度微笑み作戦を実行してみたが、最後まで母親より前に出てくることはなかった。

部屋に戻りベットに寝転がって、先ほどの女の子の事を思う。
もっと・・・そう、あと5〜6年早く生まれていたら。そしたら、漫画やアニメのような展開に
なったのかもしれない。
別に恋人になりたいとか、そういう事ではない。もちろん、恋人ができるなら大歓迎だけど。
そういう展開にある種の憧れみたいなものがある。
人とは違う何か特別な事があって欲しい。自分がそうじゃなくても、隣に住んでるトラブルメーカーの
巻き添えでも構わない。ただ、他の人にはない「特別」な事が自分だけには起きて欲しい。
そんな事を常々、漠然と考えていた。それで、今回も期待してガッカリした訳だ。
ただ、今回の教訓として現実はそう甘くない、というのと、期待すれば落とされるという事を学んだ。
あながち無駄ではなかったな、そんな事を考えつつ、部屋の窓を開けた。
玄関の前に止まっていたトラックはすでになく、荷物を片付けるような音も今はしない。
突然の引越しと淡い期待。非日常的な事も過ぎてみたら何て事もない。
隣の女の子にしても、1週間もすれば日常の一部になって、たまに顔をあわせたら挨拶するくらいに
なるのだろう。もっとも、今日の反応を見る限り、顔をあわせたら逃げられそうだが。
向かいの窓を見ながらぼんやりと考えていると、いきなり窓が開いた。
その先には先ほどの女の子。
少し戸惑ったが、気を取り直して三度微笑作戦。しかも、今回は手を振ってみた。
女の子はこちらからは見えない所に隠れ、先ほど同様にチラチラとこっちを伺っている。
嫌われているなら、窓を閉めるはず。であれば、あの反応は接し方が分からないのからかな?
優しいお兄さんとしては、もう少しこっちから歩み寄ってやるか。
「ねぇ!俺、タカシっていうんだ。別府タカシ。キミは?」
名前を言うと、ピタリと動きが止まった。そして、なにやら言いたそうな顔。
しばらく待ってみたが、一向に何も言い出す気配がない。俯いたまま、もじもじとしていた。
やっぱり子供の気持ちは分からないな。俺も10年くらい前はそうだったけど。
視線を部屋の中に戻し、窓を閉めようかと思った瞬間。
ぷすっ。
何かが頭に当たって床に落ちた。
当たった場所を摩りつつ、何が飛んできたかを確かめようと床を探してみると、ピンク色の折り紙で
折られた紙飛行機。
拾い上げると、折り目の間から何か文字のような見えた。
開いてみると『ちなみ』と書かれていた。
ちなみ・・・?名前か?
窓の向うには悪戯が成功して嬉しそうに笑う女の子。
「キミ、ちなみちゃん?」
すると、女の子は恥ずかしげ小さく頷いた。
「ちなみか、いい名前だね。可愛いよ」
みるみるうちに顔が赤くなっていく。
『ば、ばかぁ!』
罵声と共に勢い良く窓が閉まった。そして、ご丁寧にもカーテンが引かれた。
初めて聞いた言葉が『バカ』とは随分なご挨拶なものだ。
でも、可愛いって言われただけで顔を真っ赤にするなんて、本当に可愛いもの。
期待してたような同年代の女の子ではなかったけど、何か特別なことが起きそう・・・いや、
起きて欲しいな、と思った。

夜になって両親が帰ってきたので、お隣から挨拶があった事を伝えると、二人は早速とばかりに
お隣に向かって行った。
せめてご飯作ってからにしろよな・・・と思いつつ、部屋に戻って小説の続きを10ページくらい
読んだ所でドアがノックされた。
返事をすると母親、そしてちなみの母親が現れた。
『椎水さんの奥さんがアンタに話があるみたいよ』
『すいません、夜分遅くに』
話?まだあって間もないというのに何だろう?
とりあえず、3人で客間に降りて行き、椅子に座るなり話が切り出された。
『明日、娘を学校に連れて行ってもらえませんか?』
神妙な顔つきでそう告げられた。
学校への付き添いは普通母親がするものだろう。それを俺にお願いするとは・・・?
『あ、すいません、急にこんな話を。順を追って説明しますね』
そう言って、少し間を空けたあと、話を始めた。
ちなみには兄が居た。しかし、交通事故で亡くなってしまった。
そのショックでちなみは学校にも行かず、家で亡き兄の帰りをひたすら待っていたらしい。
このままではダメになってしまうと判断して、今まで住んでいたところからお隣へ引越してきたという。
『挨拶に来て驚きました。だって、別府さんの息子さんがあまりにも似てるもので・・・』
そう言うと、目の端に浮かんだ涙をハンカチで拭った。
あの時の妙な間はそのためだったのかと納得。
『あ、ゴメンなさいね。息子はまだ小学生でしたので・・・似てるなんて言われても困りますよね』
「いえ、お気になさらず。それで、学校へ連れて行くというのは?」
『どうしても行きたくないって言うものですから。じゃ、お隣のお兄ちゃんに連れていってもらったら
 行く?って聞いたら・・・うんって・・・本当に勝手なこと言ってしまってごめんなさい』
申し訳なさそうに頭を深々と下げた。
『タカシ、アンタの学校って小学校のとなりでしょ?』
俺の通っている学校は公立だが小、中、高と学校が併設されている。確か土地を買収するときに
そこしか広い場所がなかったという話だ。
3校が併設されているが故に、始業時間をずらしている。つまり、連れて行くという事は
一番早く始まる小学校の時間に合わせて家を出ないと行けないという事になる。
正直、朝が苦手な俺にとっては受け入れがたいお願いだ。
しかし、ちなみともう少し話す機会が出来ると思ったのと、母親からの無言の圧力によって
承諾する事にした。
「分かりました。では、明日の朝にお向かいに行きますね」
そう言うと、ちなみの母親は安堵の表情を浮かべた。そして、また滲む涙を拭っていた。
人助けをすると思えばちょっとは気持ち良い。普通の生活では人助けをするなんて、まずないだろう。
これもまた、ちなみが来たことによる「特別な」事なのかもしれない。
『あと・・・できれば、たまに良いんですが、娘と遊んでやってくれませんか?』
ちなみの母親が去り際に言われた。
窓越しに、自己紹介は済ませているとは思わないだろうな、と内心ニヤニヤしながら
このお願いについても快く承諾した。

翌朝、母親にたたき起こされ、無理やりご飯を詰め込まれて家を出た。
眠い目をこすりつつ、お隣のインターホンのボタンを押す。
ほどなくして、ドアが開き、白のワンピースを着たちなみが出てきた。
俺を見るなり、また母親の陰に隠れようとしている。
母親から、挨拶するように言われても首を横に振るだけ。
「ちなみちゃん、おはよう」
俺から挨拶すると、ほんの少しだけ首を立てに振った。
『ほら、ちなみ。お兄ちゃんが連れて行ってくれるんだから、しっかりしなさい?』
そういう母親に促されて、ようやく俺の足元へ歩いてきた。
しかし、俺の顔を間近でみるなり、俯いて両方の人差し指をあわせつつ、もじもじとしていた。
俺って好かれてないんじゃないだろうか?
ちょっとため息をついて、学校へ向けて歩き始める。
ちらりと後ろを確認すると、ちょこちょことちなみが付いてきた。
この先は車通りも激しい道があるので、ちょっと優しさを見せてやろうかと思い
「手、繋ごうか?」
と聞いたら、両手を後ろに隠されてしまった。
あぁ、やっぱり俺は好かれてないんだな・・・と思った。


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