その19(最終回)

 スズメの鳴き声で目を覚ます。
 すかさず二度寝へ移行しようとしたが、それはタイミングよく鳴った目覚ましの音で阻まれた。
 傷だらけの時計を慌てて止める……と同時に、俺の顔に影が差した。
 一瞬で覚醒すると、壁の方へ転がる!!
 
 ――ボゴッ!!!

 一瞬前まで頭を乗せてた枕に、かかと落としが炸裂した。ベッド全体が軋んで悲鳴を上げる。
「グルゥ……ハズシタカ」
 心底残念そうな顔で、ネムは唸った。
 悪夢から目覚めたような冷や汗を拭いつつ、俺は提案してみる。
「もうちょっと穏やかに起こしてくれてもいいと思うのですが」
「サッサト、カオアラエ」
 案の定、華麗にスルー。
 言われるまま、ベッドから降りて洗面所へ向かう。
 朝からスリリングだぜ……全く。
 顔を洗って着替えると、テーブルの上には朝食の用意が出来ていた。
 大根の味噌汁に、ほっこりとした湯気を立てるご飯。鰹節のかかった豆腐は準備した本人の好物だ。
 ネムが家出してから一週間。あれから話し合った結果、食事や洗濯、掃除は当番制にしている。味
噌汁の作り方もすぐに覚えたし、買ってきた料理本で日々レパートリーを広げているようだ。他の家
事も、そつなくこなす。
「いただきます」
「イタダキマス」
 両手を合わせて、味噌汁を一口啜る。うむ、申し分ない。前回に少ししょっぱかったのも、改善さ
れている。
「うん、うまいぞ」
 本日の板前に感想を告げると、自分の分の味噌汁を冷ましながら、
「トウゼン……」
とだけ言う。
 ネムが味噌汁を『サマセ』と言ってくることは、なくなっていた。少しばかり寂しくもあるが、こ
れは仕様もないことだ。そもそも、家事を買って出たことだって、『自分でできることは自分でやろ
う』という意思の表れなんだろうし、それをむげに妨げてしまうのも忍びない。
 ……乳離れした子を見る気持ちって、こんなんなのかな。
 食事を終えて玄関に立つと、ネムがテコテコとついてきた。朝食の後片付けをするため、エプロン
をつけている。
 ふむ、獣耳に尻尾にエプロンてのは、なかなかアレですな。ニッチな需要を満たしてる気がするの
だが、どうでしょう。
「どうだ、ネム。今日は一つ、『行ってらっしゃいませ、ご主人様』とかだn――」
「ハヤクイケ、ボケ」
「ですよねー」
 コイツが人の心の細やかさや、人生の機微について理解してくれるのは、もう少し先のようだ。
「行ってきます」
 言いながらドアを開けると、強い日差しが目を焼いた。今日も暑くなりそうだ。
 家並みの向こうに見える入道雲を見ていると、隣のドアも開いた。
「おはようございます、かなみさん」
「……おはよう」
 いつものごとく、鋭い目つきで俺を睨みつけてからドアの奥へ目を走らせる。
「おはよう、ネムちゃん」
「……オハヨウ」
 この二人も相変わらずだ。かなみさんは笑顔で挨拶、ネムは警戒心丸出し。
 挨拶しただけで、ネムはドアを閉めてしまう。
 かなみさんは苦笑して、
「さっさと行くわよ」
と促した。
 階段を降りると、デカいトラックが道路に止まっていた。引越し屋らしく、梱包された家具やらを
運び出している。
「誰か、越してくるんですかね」
「さぁね……って、あんたの部屋の真下じゃない?」
「あ、ほんとだ」
 荷物が運び込まれる先は、一階の角部屋……まさしく俺の部屋の真下である。そう言えば空き部屋
だったっけか。
「朝早くから大変ねぇ」
「ホントですよね……」
 そんなことを言いながら、ふと二階の窓を見上げると、窓からネムが覗いていた。笑って手を振っ
てやると、プイ! と顔を背けて奥へ引っ込んでしまう。うん、愛い愛い。
 通勤通学の人々は、みんな早足で歩いている。まるで、熱くなる前に一刻も早くクーラーのある場
所へたどり着こうとしてるみたいだ。
 その人の流れに身を任せていると、駅も近くなった辺りで、かなみさんはふと思い出したように言
った。
「そういえば、あんたさ」
「はい?」
「シチューって食べたの? ネムちゃんの」
「あぁ……」
 それは、あいにくとまだだ。あれから、ネムはシチューのことを話題にも出そうとしない。
 そう言うと、かなみさんは鼻を鳴らして、
「ふぅん……」
と息をついた。それから唇の端を歪ませて、なぜか笑う。
 その微笑みにとても不穏なものを感じた。
 かなみさんには、感謝してもしきれない。
 ネムが『女の子になった』ときもそうだったし、よくネムのことを見てくれている。

『……あの子、アンタが思ってるほど子供じゃないわよ』
『あんたは、あの子が居なくても生きてけるけど、あの子にはあんたしかいないんでしょ!!』

 それらの言葉が、ネムの気持ちを理解する足がかりになったわけだし、本当にどうお礼を言ってい
いか解らないくらい恩に着ている。
 だが、それとこれとは別というか、何というか……。
 ああいう笑顔の人には近づくなって、ばっちゃが言ってた。うん、そういうことにしよう。
 駅が近いのも幸いと、
「じゃぁ、すみません。これで……」
と離れて歩き出す。

 ――かなみさんの返事は、なかった。



 全く、社会の荒波は地獄だぜー! フゥハハハハハー!!
 いや、別にそこまで激務ってわけじゃないけどさ。
 デスクで会議の資料作るフリしたり、書類の整理してるフリしたり、適当にサボったりしてると、隣
から咳払いが聞こえた。
「まったく、少しは働いたらどうですの?」
 出張も無事に終え、晴れて『研修期間』を終えたリナちゃんが、冷たい目でこちらを見ていた。
 『研修』を終えてしまえば、先輩後輩とは言えど役職的にはいよいよ同列。その尖った口調にも遠慮
がない。
「そんなことでは、わたくしに追い越されますわよ?」
「はは、ありそうで怖いね」
 表面は笑ってるが、リナちゃんが上司になり、俺を顎でこき使ってる様子はリアルに想像できる。む
しろ、だからこそ笑ってるのかもしれないが、それはあっさりと窘められた。
「後輩に言われて、そうしてヘラヘラしているから、出世も出来ないのではなくて?」
「いやはや、返す言葉もございません」
 頭を掻くと、眺めの休憩を終えて、仕事に戻る。
 のれんに腕押しとでも思ったか、リナちゃんは憮然とした顔で一枚の書類を持って立ち上がった。
「コピー室に行きますが、何かついでに済ませるものはありますか?」
「うん……いや、今はないよ。ありがとう」
 きつい言葉の中に、さり気ない気遣い。いや、あんた間違いなく出世するよ、うん。
 一人で納得してパソコンに目を戻すと、ふいに肩に手が置かれた。
「え……?」
「……わたくし、諦めたわけではありませんから」
 耳元で早口にそれだけ囁くと、彼女はシトラスの香りを残して、颯爽とコピー室へと歩いていっ
た。
 
『ずっと、ずっと……お慕いしていました……』

 出張一日目の夜のことが、突然生々しく目の前にフラッシュバックする。
 とても強い彼女。一切の後悔をせず、潔く覚悟を決められる人。
 そう思ってたが、実際はどうだろうか?

 ――もしかして、単に『手に入れるまで諦めない』ってだけなんじゃ……

 背筋が寒くなったのは、冷房の効きすぎじゃないと思う。



 帰宅。
 玄関のチャイムを鳴らすと、奥のほうでバタバタと音がして、朝と同じエプロン姿のネムが顔を出した。
今日は、夕食もネムの当番なのだ。まだ野菜炒め程度しか食わせて貰ってないけどな。
「ガル……ハヤイゾ。マダ、メシガ、デキテナイ」
「別にいいって。待つからさ」
「グゥ……」
 納得のいかない顔つきで、ネムはチェーンを外してくれた。この間は『オソイ、サメタゾ』と怒られた
ばかりだ。どうも、完璧に用意が出来た状態で俺を迎えたいらしい。絶対に口には出してくれないけどな。
まぁ、ドラマのようにはいかないのが世の常ってもんだ。
 今日のメニューはシンプルな肉じゃがに、玉子焼きだった。それにご飯とすまし汁、あと我が家の定番、
冷奴がついている。
「いただきます」
「イタダキマス」
 朝と同じように手を合わせると、ネムは自分の分には手をつけず、俺の手元をじっと見ていた。
 理由は解ってる。ネムが作る夕食はこれで四度目くらいだが、肉じゃがは初めてだ。きっと、料理本を
見て挑戦してみたんだろう。瞳に期待と不安が篭っている。
 俺は、じゃがいもをまず箸で一口大に切り分けると、しげしげと観察した。うむ、染み込んだ醤油の色
合いが実に食欲をそそる。煮崩れもほとんどない。見た目、合格。。
 次に、香り。煮汁の匂いが湯気と共に鼻へ入ってくる。自然に唾が湧いてきた。合格。
 そして、肝心の味。
 審査を待つネムは、しげしげと俺の箸を見つめている。
 俺はわざともったいぶった動作で大きく口を開け、その一かけらを、口へ運んだ。 
 ゆっくりと咀嚼する。芯もなく、簡単に口の中で崩れた。少々味は濃い目だが、それがご飯のおかずと
してはピッタリだ。
 ――最終判定。

 俺は左手の親指を立てて、ネムの前へ突き出した。

「グレイトゥ!!」
「ガゥ……!」
 ネムは思わず声を上げ、目を輝かせるとバタバタと千切れそうなほど尻尾を振った。よほど嬉しかった
らしい。
 しかし、すぐにその喜びを無理して押し隠した。飛び上がりそうになったのを、押さえつけた感じだ。
自分の分へ箸をつけながら、
「ア、アタリマエダ……アジミモ、シタシ、イモダッテ、エランダシ……」
と繕う。だが、それは同時に、ネムがどれだけこの肉じゃがを苦心して作ったかを伝えていた。
 そのいじらしさに我慢できなくなって、テーブル越しに手を伸ばすと、豆腐を突っつくネムの頭を撫で
る。
「また作ってくれよな」
「ガル……キガムケバナ」
 ネムはわざと膨れっ面をつくり、頬を染めて俺を上目遣いに睨む。頭を撫でると、『子ども扱いするな』
と言わんばかりの視線をを投げつけるのが恒例だった。
 無論、その間ずっと尻尾を振りっぱなしなのも、恒例だけどな。



 夕食も食べ終わり、まったりと過ごす。
 ネムは小学生向けの漢字ドリルに取り組んでいた。あの家出の日から、ネムはよく勉強している。本棚の
一角は、同じく算数や理科、社会の問題集で埋まっていた。
「タカシ……コレ」
「ん? あぁ、そいつは『あんぎゃ(行脚)』って読むんだ」
「アンギャ……?」
「あぁ、えっと何か目的を持って、あちこち旅すること……って意味かな?」
「カナ? ジャナイ……ヤクタタズメ」
 ぶつくさ文句を言いながら、ネムは本棚から辞書を引っ張り出した。
「そんなら最初から調べれよ!!」
「『シラベレ』、チガウ。『シラベロ』ダ」
 うわ、獣人に言葉の乱れを指摘された。
 がっくりと肩を落とすと、玄関のチャイムが鳴る。
 ネムはそれに耳を少しだけ動かすことで反応した。俺も眉を上げ、訝しげな顔を作る。
 こんな時間に一体誰だろう。時計を見れば10時を回っていた。一ついえるのは、チャイムを鳴らした以
上、かなみさんではないということだ。あの人は、そんな遠慮なんかしない。
 玄関に出て、ドア越しに尋ねてみる。
「どなたですか?」
「夜分に申し訳ありません。今日、下に越して来た者ですわ。ご挨拶に参りました」
 今朝の引越しの光景が思い出される。
「は〜い、今開けますね〜」
 鍵を開けながら、今時律儀な方だなぁと思った。
 しかし、どこかで聞いた事のあるような声と口調なのh――

「どうも、一階に越してきた神野と申しますわ。どうぞよろしく……」

「…………」
「…………」
 沈黙。
 凝固。
「え?」
「あら、聞こえませんでしたの? タカシさん」
 そして、混乱。
「いや、あの……え?」
「はぁ、とうとう日本語をお忘れになったのかしら……」
 額に手を当て、やれやれと首を振る。その仕草といい、ゴージャスにカールした髪といい、シトラス系の
香りといい、間違いなくリナちゃんだ。手には、いくつかの紙袋を提げている。
「な、なんで……?」
「それはもう、申しましたわ。引越しのご挨拶です。はい、どうぞ」
『詰まらないものですが』という謙遜すらなく、彼女は手に持っていた包みを俺に押し付けた。袋の中から、
バターの濃厚な匂いが漂ってくる。クッキーか何かだろうが、結構な値段なのは、容易に想像できた。
 だが、受け取りはしたものの、俺の聞きたい事はそれではない。
「いや、そうじゃなくて、なんで引越しなんか……」
 黙ってても、執事つきの生活が出来るお嬢様のはずである。なんでこんな安アパートにわざわざ引っ越し
て来なければならんのか。
 しかし、彼女はあっけらかんと言い放った。
「気まぐれですわ」
「いや、気まぐれって……」
「気まぐれといったら気まぐれなのです! それ以上の質問は許しませんわ!!」
「いや、許しませんわって……」
 開いた口が塞がらない。
 と、脳裏に今日の会社でのやり取りが蘇ってきた。

『……わたくし、諦めたわけではありませんから』

 待て待て待て待て……もしかして、これってそういうことなのか?
 見たところ、いつも付き従っている執事の中村さんも居ないようだ。どうやら本気らしい。
 となると……
「もしかして、こんなに遅い時間に挨拶って……」
「それに関しても、一切質問は許しません」
 どうやら、俺の推測は間違いないようだ。
「……駅から迷ったな」
「なっ、し、質問は許さないと言ったはずですわ!」
「質問じゃないよ。断定だもん」
 わざと小学生のような口調で言い返すと、その顔が赤く染まる。
「こ、子供みたいな屁理屈をこねないで下さいな!」
「じゃぁ、違うんだ?」
「と、とと当然ですわ! だ、大体、わたくしが方向音痴なんて、そんなことあるわけがないでしょう!」
 俺は方向音痴なんて一言も言ってないんだけどな……などと考えていると、ふいに横から声が飛んできた。

「あ……な、なんで……っ!」

 かなみさんだった。風呂上りなのか、髪を縛って、比較的ラフな格好だった。
 リナちゃんと目が合うと、二人ともが硬直する。
 かなみさんは驚愕の眼差しで。
 リナちゃんを当惑を顔に浮かべて。
「な、なんでリナがここにいるわけ?」
 リナ? いつの間に、呼び捨てするほど仲良くなったんだろうか?
「べ、別に……その、ただ、引っ越してきただけですわ」
 リナちゃんはリナちゃんで、しどろもどろになっている。引越しの挨拶なら、この後どうせかなみさんの
所にも行くはずだろうに。
「ひ、引越しって……あ〜〜!! 今朝のトラック!!」
 ようやくかなみさんもそこに思い至ったようだ。さっと確認するような眼差しで俺を見る。見られても、
俺には肩をすくめる程度しか出来ないんだけど。
「と、とにかく、わたくしのことは、どうでもいいではないですか!」
 うん、よくない。ちっともよくないよ?
「か、かなみさんこそ、こんな時間にいったい、どうなさったのです? タカシさんにご用ですか!?」
「よ、用事ってほどのことはないけど……」
 無理矢理な話題の変転だったが、根が素直なかなみさんはやっぱり、あっさりひっかかる。
 俺とリナちゃんの視線を同時に浴びて、かなみさんは追い詰められた顔をした。
 よく見れば、手に何か四角いものを持っている。
「それ、なんですか?」
 何の気なしに尋ねてみると、かなみさんは下唇を噛んで、きっとこちらを睨んだ。
 焼かれるような視線に俺は首をすくめた。
 あれれ〜、地雷踏んじゃった臭いがするよ〜?
 かなみさんは頬を赤く染めて、手元の箱を見ている。どうも、タッパーらしいのだが、中身はよく解らない。
「そ、その! つ、作りすぎちゃって、余っただけなんだからね!? かっ、勘違いしないでくれる!?」
 俺はまだ何も言ってない。
 だが、どうも何かをおすそ分けしてくれるらしい。箱を突き出して来た。その顔は、リナちゃんと同じよう
にやはり赤い。
 拒否権なんて、俺にあるわけもなし。リナちゃんから貰った箱を、一旦靴箱のところに置いてから受け取る。
 手元に来てようやく解ったが、どうやら中身はシチューのようだ。傾けると、とろりとした液体が流れた。
 と、そこで朝の会話を思い出す。

『シチューって食べたの? ネムちゃんの』

 そして、その後に見せた不穏な笑顔。
 ……まさか、こっちもそういうことか!?
 リナちゃんも中身を悟ったらしい。その眉が、なぜか見る見るうちに吊り上がる。
「な、これは……て、手料理ですか!?」
「そ、そんな大したもんじゃないわよ! 残飯よ、残飯!!」
「ざ、残飯って……」
 あ、やな雰囲気。
 リナちゃんが金魚のように口をパクパクさせて、タッパーを指差していた。
「こ、こんな気合の入ったものを、プレゼントなんて……!」
 プレゼント?
「だ、だから、そんなに大層なものじゃないってば! そもそも、そっちだって黙って引っ越してくるなんて、
ズルいじゃない!!」
 ズルいって何だ?
「かなみさんこそ、セコいではありませんか! 殿方は手料理が弱点と聞いておりますわよ! それをわたく
しの与り知らぬところで……!」
「なによ、か、監視するために引っ越してきたわけ!?」
「か、関係ないでしょう!」
 俺を置き去りにして、色々な疑問と突っ込みが浮かんできた。だがそれは浮かぶままにしておく。口に出せば、
とんでもないことになりそうな予感があった。

『……好きだし』

『抱いて、下さい……」

 何も考えてない!
 俺は何も覚えてないぞ!!
 喧々諤々の議論を始めた二人を置いて、このままドアを閉めたくなる。でもそうしたらそうしたで後が怖い
んだろうなぁ。
 などとぼんやり現実逃避し損なっていると、ふいに後ろから、ニョキッと見慣れた獣耳が出てきた。
「え……」
「あ……」
「ぅ……」
 ネムは、いつもの帽子を被り、サンダルを突っかけると俺の前に立ちはだかった。。
 そのまま、ズイ、と二人を下から突き上げるように見上げる。
 その視線に言葉を失ったかなみさんとリナちゃんに、人差し指を立てて、ネムは一喝した。

「シズカニ、シロ! ヨルダゾ!!」

 あら、正論。
 正直、そろそろアパートのほかの住人が出てこないかと期待してたのだが、まさかコイツがやるとは思わな
かった。
 二人は、目を白黒させる。さっきまで放っていたオーラが、しおしおと萎んでいくのが見えそうなくらい、
勢いが削がれていた。
「あ……そ、その……ご、ごめんね。ネムちゃん」
「わ、わたくしも、つい熱くなってしまいまして……」
 急に神妙になった二人に、ネムは鷹揚に頷いた。
「ウム、ワカレバ、イイ」
 腕組みをした姿は、すでに貫禄すら感じられる。その姿に、噴出しそうになったが、どうにか堪えた。なん
かちっちゃくて、愛嬌たっぷりだ。そのくせ頼もしい。
 リナちゃんから貰った包みの上に、かなみさんのタッパーを置くと、俺は適当に話を切り上げて、この場は
お開きにしてもらおうと、口を開いた。
 だが、それより先に。
 ネムが、そこで大きく息を吸うと、ゆっくりと宣言した。

「ソレニ、タカシハ、ネムノダ」

「「「え?」」」
 あぁ、どうして……
 どうしてこの子は、せっかく消えかけてた火にガソリンを注ぐような真似をするのか……
「え? ちょ……た、タカシさん?」
「どういうこと……かしら?」
 ひくひくと全く同じように顔を引き攣らせて、二人は俺に迫る。
 迫られても、俺もきっと似たような感じで顔が引き攣ってると思うんだ。
「いや、ええと、これは誤解ですよ、えぇ……」
「タカシ、ネムニ、『アイシテル』ッテ、イッタゾ!」
 『えっへん!』と胸を張るネム。
 さらにダイナマイトですか。そうですか。
 そして、凍りつく三人。
「タカシ……?」
「誤解です」
「タカシさん?」
「誤解です」
「愛してるって、どういうこと……?」
「誤解です」
 俺は壊れた機械のように、ただそれだけを繰り返した。
 もはや、こうなっては押し切るしかない。どうにか、この場を収めるいい案が出るまで、時間を引き延ばさ
なければ――
「ゴカイジャナイ!!」
 あぁ、コイツはまた……。
 と思った瞬間。
 ネムは身体を反転させて俺の方を向き、おもむろに飛び掛ってきた。
 ゼロ距離からのダイビングに、避ける時間的余裕はない。ついでに言えば狭い玄関だから空間的余裕もな
い。ひとたまりもなく、俺は受け止めるしかなかった。
 細く伸びた両腕が首に、両脚は胴体に絡みつく。身体を密着させて抱きついた姿勢で、ネムは首だけを捻
り、呆然としている二人に向けて
「イ〜〜〜〜!」
と思いっきり舌を出してみせる。
 お気に入りの縫いぐるみを、取られまいとする子供のようだった。

 それは、まさに宣戦布告だった。

 そのまま、ネムは俺の身体を乱暴に揺する。
「うわ、馬鹿! コケる! コケるってば!」
 ネムが片手を伸ばしてドアノブを掴んだ。俺がよろめいて後ろへ下がる勢いを利用して、一気に閉めた。
ほぼ同時に、鍵までかける。その器用さに感心する間もなく、 
「あ、うおっ!」
結局、玄関の上がり口に足を引っ掛け、廊下に盛大にすっ転んだ。尻の痛みに顔をしかめる。二人からの
もらい物を靴箱の上に置いてたのが救いだった。
「あ……いってー……」
 ボヤくと、ネムは俺の腹に馬乗りになったままで、
「クシシシシ……」
と笑い、俺の乳首をシャツ越しに、両手の人差し指で押さえた。
 
 ――初めてネムとあった日、俺がそうしたように。

 それは、メッセージなのだろうか。
 『あの日から、お前は自分のものなんだ』と、言われている気がした。
 不思議と、悪い気はしなかった。
 二人が俺の部屋のドアをノックしまくっているのが聞こえる。
 あぁ、なんて言い訳したらいいんだろう……。
 騒ぎの張本人は、満足そうな笑顔を見せている。
 特大のため息をついて、俺は褐色の髪を撫でた。
「クゥ……」
 金色の目を細めて、ネムは喉を鳴らす。
 荒々しいノックの音を聞いても、その顔を見てるだけで、なぜか慌てる気すらなくなっていく。
 本気で笑って、本気で泣いて、本気で怒って。

 ネムが俺に本気の感情を見せてくれている間は、何もかも上手くいくという気がしていた。

「何とかなるかな? ネム」
「ナントカ、シロ」
「言ってくれるぜ……お前のせいだろ」 
「シルカ。ウワキモノ」
 笑顔のまま、ネムは言い放った。まったく、どこで『浮気者』なんて覚えて来るんだか。
 もしかして、あれですか。独占欲強めですか、ネムさん。
 
 その上誤解はされるし、隠さなきゃなんないし、本人はおとなしいようで実は奔放だし、人並みに悩
むし、文句も垂れるし、女の子に告白されても素直には受けられないし……。

 誰でもいい。
 もしも機会が訪れても、獣人と暮らすのはやめたほうがいいと、俺は忠告しておく。



 ――ま、俺は好きだけどね。獣人のいる日常。


                                              おしまい


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