終章〜静恵編〜

 廊下を響き渡る声に、隆志は動きを止め、それからゆっくりと振り向いた。視線の先には、不安で今にも泣き出しそうな顔をした静恵の姿があった。
「……藤代さん……」
 小さな声で隆志は呟いた。静恵は隆志が振り向いたのを見るなり、隆志の体に勢いよく抱きついた。
「ちょっと! 藤代さん!?」
 両の腕を隆志の背に回し、静恵は隆志の胸に顔を埋める。
「やだ……」
「え?」
 静恵は顔を上げた。上気したその顔に、僅かに目じりに涙が浮かんでいる。
「行っちゃヤダ! 行かないで……お願い……」
 まるで、幼い子供のように静恵は駄々をこねた。
「どうしたんだよ、藤代さん。急に……」
 そういう隆志も動揺している。押し付けられる静恵の体の柔らかみが意識され、まともに思考が働かない。
「と、とにかく離れてくれよ。そうでないと……話が出来ない……」
「あ……!?」
 隆志にそう言われて、静恵はすこし正気に戻ったらしく、おずおずと体を離した。夢中だったとはいえ、はしたない行動を取ってしまい、体中が熱い。
「ご……ごめんなさい。その……迷惑……だった……よね」
「いや、迷惑とかじゃ全然無いんだけどさ…… その……意識しちゃってさ。まともに、考えられないから……」
「あ……」
 隆志にそう言われると、ますます恥ずかしさが増す。静恵は、ふにゅ〜、とばかりに縮こまってしまう。
 そんな静恵を前に、隆志は困ったように顔をポリポリと掻いた。
「あ、あのさ…… やっぱ、俺、追いかけた方がいいんじゃないかと……」
「ダメ……」
 理奈を気にする隆志に、間髪入れずに静恵は言った。
「だって……今、行っちゃったら……別府君……もう、戻って来ないもの……」
「い、いや……そんな事は……」
 と、言いながら隆志は、理奈を追いかけたとしても、その後どうするかについては全く考えていなかった事に気が付いた。
「そんな事あるわ…… だって、神野さん……別府君の事が好きだもの。私が神野さんなら……追いかけて来てくれたら……もう、離さないわ……」
「え!? いや、まさか……」
 そんな事あるわけない、と言おうとして、隆志は口ごもった。余りにも自然で意識すらしてなかったが、思えば理奈は常に自分の傍にいなかったか。普段から自分の事を馬鹿にしたり罵ったり、他の女の子と仲良くするのを妨害したりしていたりと、何かと邪魔ばかりされていたような気もするが、その割にはずっと一緒にいたような気もする。
 隆志はブンブンと首を振った。静恵の言葉を否定したわけではなく、頭の中がグチャグチャになってきたので、一度整理するつもりで振ったのだった。
「俺には……正直、よく分からない。俺自身は、まさか理奈が、そういう風に思っているなんて思いも寄らなかったから……」
 いまいち自信の無い隆志の答えに、静恵は首を振った。
「多分……間違い、ないと思う…… 私の勘だけど…… だけどね……」
 そこで、静恵は言葉を切った。俯いていた顔を上げ、真正面から隆志を見つめる。
「わ……私だって……」
 彼女の呼吸が速くなる。その熱い吐息が、わずかに隆志の顔にかかり、彼女の緊張感が、隆志にも伝わってきた。
「私だって……ううん……私の方が、ずっと……ずっと……別府君の事が好きだもん」
 静恵はそこまで一気に言い切ると、そこで言葉を切り、しばらく沈黙した。頭がくらくらするほどに顔が熱い。本当は今にでも後ろを向いて顔を手で覆ってしまいたかったが、彼女はそれを必死に我慢した。
 負けない。
 強い心を持って。
 たとえどんな結果がそこにあろうと。
 全てを、真正面から受け止めようと。
 だから、静恵はそのまま、隆志の顔を見続けた。
 しばらく沈黙を続けたが、隆志から何の反応も見て取れないのを感じ、静恵は再び言葉を開いた。
「……それとも……やっぱり、私じゃ……ダメ……なのかな?」
 勇気が萎えかけるのを、必死で奮い起こし、彼女は弱気になる自分の心と戦った。
「私……神野さんに比べれば……性格だって暗いし、機転も利かないし、女性としての立ち振る舞いも全然優雅じゃないし……正直、勝てるところなんて余りないけど、でも……」
 静恵は、両手で自分の左胸を抑えた。
「別府君を好きだっていう想いだけは、負けてないと思う。ううん。負けてない。だって私は……」
 静恵は静かに目を閉じた。そして、自分の心の中を確かめるようにその想いを、胸の内から放出する。
「私は……全てを捧げたっていい……そう想うくらい……大好きなんだもの……」
 静恵は言葉を切った。伝えたい事は全て、言葉にして出し切った。あとは……ただ……彼の、答えを待つだけである。そこにある結果が、例え最悪なものであったとしても、決して取り乱さないように、しっかりと心を保つ事だけが、自分に出来る全ての事だった。
 沈黙の時は長かった。
 実際の時間がどれくらい経ったのかは分からない。
 静恵自身が、心の中に湧き上がる不安と戦うので一生懸命で、果てしの無い時間の狭間にいるかのようにしか感じられなかった。
 そして、その時は不意に終わりを告げる。
「ダメじゃない」
 隆志の言葉に、静恵はビクッ、と体を震わせ、それからゆっくりと目を開けた。目の前には、真剣な表情で彼女を見つめる隆志の顔があった。
「……ダメじゃないよ」
 もう一度、隆志は同じ事を繰り返した。
「だって……藤代さんは、こんなにも可愛いじゃないか。どうしてそれで、ダメって思えるんだ?」
「……そんな……私なんて……」
「正直言って……本当は、今日初めて知ったんだ。一緒に勉強したり……料理を作っている姿を見たり……朗らかだったり、大胆になったりする藤代さんの姿を見て、初めて、藤代さんってこんなに可愛かったんだって。今までは、内気で真面目な女の子だとしか思ってなかった。こんなに魅力的な所をいっぱい持っているなんて、思いも寄らなかった……」
 隆志は、そこで一息、大きく息を吐いた。
「……私……それはその……今日は、無我夢中だったから…… 別府君に、私の事を意識して欲しい。神野さんには負けたくない、って……」
 隆志は、その言葉に頷くと、ゆっくりと口を開く。
「俺…… 俺、もし……俺が傍にいる事で……藤代さんが、そんな風に魅力的でいられるのなら……一緒にいたい。そう思ってる」
 静恵は目を見開いた。
「う……嘘……」
 自分の聞いた言葉が、信じられなくて思わず呟いた一言。だけど、隆志はゆっくりと首を振って、それを否定する。
「嘘じゃないよ。真剣に……そう思ってる」
「だって……神野さんは……?」
 その言葉に、隆志は僅かに眉をひそめた。
「俺は、アイツの事が好きだ。いつもひどい事ばっか言われているようだけど、アイツの言葉に毒はないんだ。だから、何言われても平気だったし、むしろ俺がバカやって、アイツがそれをけなして。時々俺が逆襲したり、理奈がそれに激怒したり、そういうやり取りの一つ一つが好きだった。けど、その好きっていうのは、親友とか、そういう類のものだと、俺は思ってたし、アイツ自身も俺の事をそういう風に見ているものだと思っていたんだ。だから……」
 隆志の表情が更に陰りを帯びる。口元が辛そうに歪んだ。
「だから……もし、藤代さんの言うとおりだとしたら…… 俺は、アイツに辛い思いをさせてしまうな、って……」
「……優しいんだね」
 静恵の言葉に、隆志は首を振った。
「優しくなんかないさ。むしろ、残酷なくらいだ。中途半端に相手を思いやる事は、かえってその人を傷つけるだけだ……」
「それでも……そこまで、人の事を思いやれる別府君は、優しいよ……」
 スッ、と自然に、静恵は隆志にもたれかかった。さっきの激しい抱擁とは違い、柔らかく、自然に彼女の手が隆志の背に回る。
 そして、隆志も、ゆっくりと片手を静恵の背中に回し、もう片方の手で、彼女の髪を撫でた。
「……ありがとうな。藤代さんと一緒にいると、心が癒される気がする。今まで、そんな気分にはなった事……なかったな」
「私も……こうしていると、心が温まるな…… 別府君の体温が、感じられて……」
 それから、ほんの一時、二人は無言で抱き合っていた。しかし、隆志は静恵の体から腕を解くと、肩に手を置き、優しく彼女を体から離す。
「だけど……今は、理奈の所に行かないと。藤代さんとは違う意味でだけど……やっぱり、アイツの事も大切だ。一人にしてほったらかしにしておく訳にはいかない」
 静恵は、隆志の顔を見た。
 もう、大丈夫なのだ。だって、隆志は自分を選んでくれたのだから。
 そう思っても、静恵はやはり隆志を離したくはなかった。正直、自分にこんなに独占欲があるとは思ってもみなかった。
 それを知ってか知らずか、隆志はもう一度静恵の頭を撫でて言った。
「大丈夫。理奈と話をしたら……ちゃんと戻って来るから。うん。帰る前に、もう一度ね」
「……ホントに? 約束してくれる?」
「ああ。約束する。ちゃんと、藤代さんの所に戻って来るから」
「…………」
「それとも、やっぱり、信じられない?」
 隆志の言葉に、静恵は首を振る。もう、静恵が隆志を疑う余地などある訳がなかった。ただ、少し甘えてみたくなっただけなのだ。
「そんな訳じゃないけど……ただ、その前に、私のお願いも、聞いて欲しいなって思って……」
「何? 言ってみて」
 そう言われると、静恵は、恥ずかしそうにモジモジと俯いた。小声で、ボソボソと言う。
「…………も………って……んで……」
「え? 何? よく聞こえないよ。もう一回」
「わ……私の事も……し、静恵って……名前で、呼んで…… 藤代さんなんて、他人行儀で……イヤ……」
 全部言い終えると、静恵はプイ、とそっぽを向いた。耳まで真っ赤に染まっている。さっき、告白した時よりももっと紅い。
「わかったよ、静恵……って、これでいいのかな……?」
 照れ臭そうに隆志が言うと、静恵はフルフルと首を振った。
「え? なに、まだ何かあるの?」
 と、隆志が聞くと、静恵はコクン、と頷いた。
「え……えっとね……その…… キス……して……」
「え?」
 隆志の心臓がドクン、と一際大きく跳ね上がる。静恵は、潤んだ瞳で、隆志を見つめて言った。
「キスして……欲しいの…… 別府君の気持ちを……言葉とか、心だけじゃなくて……体でも、感じたいから……」
 隆志は、ほんの一瞬だけ戸惑った。が、すぐに心を決した。ここで迷っているようじゃ、こんなにも自分を好きでいてくれる静恵に対して、失礼では済まない。
「分かった」
 隆志は頷くと、両手で静恵の顔を包み込んだ。静恵が瞳を閉じる。お互いの心臓の鼓動が激しくなる。今この瞬間、隆志と静恵の想いは一つだった。
 隆志が屈み込み、静恵の唇にそっと自分の唇を重ね合わせる。と、静恵の方から唇を強く押し付けてきた。
 時間にしてみれば、ほんの一時。でも、その間に存分に二人は、お互いを求め合うような口付けをした。それから、静恵の方から、名残惜しげに唇を離す。
「……ありがとう。わがまま、聞いてくれて……」
「べ、別にわがままなんて…… それに、こんな事だったら、いつだって……」
 言葉が続かなくなり、照れる隆志に、静恵はにっこりと微笑んだ。
「じゃあ……行って来て。でも……ちゃんと戻って来てね。約束だから……ね」
「ああ。少なくとも、藤代さんには嘘は付かないようにするよ。約束する」
「別府君。名前」
「あ……」
 しまったという顔つきをする隆志に、静恵はクスクスと笑った。
「いいよ。まだ慣れないんだよね。でも……次からは、ちゃんと名前で呼んでね。いい?」
「わかった」
「それじゃあ、いってらっしゃい。気をつけてね」
 まるで、朝、夫を送る新妻のような挨拶を静恵はした。
「ああ。行って来るよ」
 隆志は軽く手で別れの合図をすると、そのまま静恵に背を向け、外へと出て行った。

 隆志は、玄関から外へ出た。火照った体に夜風が気持ちいい。が、今はその気持ちよさに浸っている場合ではなかった。
「とりあえず、理奈を探さないと。アイツ……まだこの近くにいるかな?」
 もし帰っていたとしたら、明日会ってキチンと話さなければならない。そうでないのなら……隆志はとりあえず、駅の方を目指して走り出した。
――アイツは、馬鹿じゃない。例え取り乱したとしても、闇雲に訳の分からない所へ駆け出したりはしないはずだ。
 そうすると、来る時に通った道のどこか――確か、児童公園があったはずだ。まだいるとすれば、多分そこにいるだろう。
 隆志は、公園に向かって走り続けた。会ってからの事は、出来る限り考えないようにして、とにかくひたすら走り続けた。
 そして、隆志はそこに、彼女の姿を見出した。
 児童公園のブランコに腰掛けて、一人寂しく俯いている理奈の姿を。

「……理奈」
 隆志の口から、自然に彼女の名前がついて出る。そこにいる、彼女の姿は、いつもの隆志が見ている理奈の姿ではなかった。こんなにか細く、弱々しい彼女の姿を、隆志は見たことがなかった。
 そして、その姿に――
 隆志は、静恵の言葉が真実だという事を痛いほど身に感じてしまった。
 自分の名前が呼ばれ、理奈はゆっくりと顔を上げた。その視線の先に、隆志の姿を認め、一瞬驚いたように目を見開く理奈。しかし、その途端、彼女の姿はいつもの勝気で、強い理奈の姿に戻った。ブランコをカシャン、と静かに揺らして、彼女は立ち上がった。
「隆志…… 貴方、何をしにいらしたの?」
 ツンとした、いつもの口調の理奈。だけど、隆志にはその言葉のどこにもいつもの勢いを感じる事は出来なかった。
「いや、その……心配だったからさ。急に飛び出して行っちゃったし……具合が悪いって言ってたのに……」
 いやに歯切れの悪い言い方だな、と、隆志は自分で言いながらそう思った。
「べっ……別に、貴方に心配される覚えはありませんわ。わたくしは別に、一人でも帰れますもの。ただ……ちょっと休んでいただけで……」
 やはり、理奈の口調にはいつもの鋭い舌鋒はない。
「それより……静恵さんはどうなさったの? 彼女の方こそ、置いてきて良かったんですの?」
 その問いに、隆志はウッ、と言葉を詰まらせた。ちょっと気まずそうに理奈から視線を逸らす。
「その……だ、大丈夫。藤代さんなら……」
 ほんの僅かに、理奈が表情を曇らせる。視線を逸らしている隆志は気づかなかったが、明敏な理奈には、隆志の態度から何かを察したのだろう。
「どうなすったの? 貴方らしくもありませんわね。空気も読まずポンポンと言いたい事を言う貴方が、口ごもるなんて」
 強気な言葉を言いつつも、理奈の声が震える。
「……理奈……あの……その……実はな……」
 理奈の言うとおりだ。こんなのは自分らしくない。そう思っても、言葉が出なかった。理奈の顔すらまともに見ることが出来ない。
「……静恵さんと……何か、ありました……の……?」
 どうやら、隆志の様子から理奈は何事かを察したらしい。隆志はもはや、素直に告げる以外、道が無いことを悟った。
「……実は、俺……彼女と……付き合うことにした……」
 重たい空気の中、ようやく口にした言葉。しかし、全てを吐き出しても、隆志の心は一向に楽にならなかった。
「……そう……ですの……」
 理奈の声が耳に届く。この先を聞くのが、怖い。だけど、ここで耳を塞ぐ訳にはいかない。何を言われても、ただじっと聞いていようと、そう思っていた。
 だから、次に理奈の口から出た言葉を聞いた時、隆志は意外だという思いにかられた。
「……良かったですわね……」
 それは、単なる祝福の言葉だった。
 優しげなほどに穏やかで、冷たい響きなど微塵も感じられない、嫌味も妬みもない声。
「正直、貴方のような方が、静恵さんみたいな素敵な女性に好かれること自体は、さすがに驚きですけれどね。大事になさい。あんな良い女性が貴方の事を好きになるなんて、これを逃したら二度とありえないでしょうから」
 聞こえてくるのは、いつもの憎まれ口。それに、若干の祝福の気持ちがこもっている。やはり、静恵の予想は外れていたのだ。理奈は、友達として自分を祝福してくれている。
 そう思って隆志は、顔を上げて理奈を見た。
 そして、気づいた。
 自分がいかに、自分に都合の良い解釈をしていたのだという事を。
 そう。確かに目の前の理奈は、穏やかに微笑みかけてくれていた。
 だけど、その瞳からは。
 涙がとめどなく、流れ落ちていたのだから。
「……理奈……お前……」
 そう言った隆志の顔は、苦痛に歪んだ。中学の時、理奈が海外から日本に来て、近所に引っ越してきて、同じクラスになって、その縁で何かと世話をしたりされたりするようになって、ケンカばかりしながらもいつも一緒にいて、自分は理奈の事を分かったつもりになっていた。
 だけど、実際は、何にも分かっていなかった。理奈の強気なヴェールを頭から信じ込んで、何一つ、彼女の真実の心を見てはいなかったのだ。
 隆志は今、嫌と言うほどそれを思い知った。
「どうなさいましたの? 彼女が出来たんでしょ? もっと嬉しい顔をなさったらどうですの?」
 理奈が、明るく言う。
「……だって、お前……泣いて……」
 隆志の言葉にハッとして、理奈は顔に手を当てた。
「バ……バカをおっしゃらないで…… 誰が……泣いてなんか……」
 そう言って、理奈は目を瞬いて涙を止めようとする。ハンカチを取り出し、頬をつたい落ちる涙を拭く。しかし、これらの行為は、理奈の涙腺から溢れ落ちる水を更に増やすだけに過ぎなかった。
「お……おかしいですわね…… 何かしら、この汗みたいなものは……なかなか止まりませんわ……」
 ゴシゴシと目を擦る。ハンカチで顔を拭く。いつの間にか、理奈は自然と鼻をすすり始めていた。
「理奈……無理は、するな……」
 見ているのが辛くて、隆志はそう声を掛けた。理奈は、そっとうつむくと、震える声で言った。
「タカシ」
「……何だ?」
「申し訳ないけど……少しだけ、貴方の胸を貸してくださる? ちょっと……止まりそうに無いの……」
「……いいよ」
 隆志の返事を聞いた途端、理奈はタッ、と隆志に駆け寄った。体当たりをするような激しさで、彼の胸に縋り付く。両の手は、隆志のシャツを引きちぎらんばかりに強く掴んでいた。
 やがて、声を殺した理奈の、静かな嗚咽が聞こえてきた。
「……ウ……ウウ……ヒッ……ヒッ……ヒク……ヒック……エグ……」
 果てしなく続くと思われる理奈の泣き声が止むまで、ただずっと、隆志は黙ってその場に立ち尽くしていた。

 理奈の慟哭は、いつ果てるとも無く続くかと、隆志には思われた。が、それも徐々にか細くなり、ついには嗚咽は一切聞こえなくなった。それでも、理奈は隆志の胸に顔を埋めたまま離さなかった。
「……ゴメンな」
 それからまたしばらくしてから、最初に隆志が発した言葉が、それだった。
 その声に、理奈がゆっくりと顔を上げる。
「どうして、タカシが謝りますの? 別に、タカシは悪い事なんて一つもしていないでしょうに」
 理奈の言葉を、隆志は首を振ってそれを否定した。
「俺……何にもわかってやれなかった…… お前の事…… それなのに、勝手に知った気になって……」
 しかし、理奈はゆっくりと首を振って隆志の言葉を制した。
「バカなことをおっしゃるものではありませんわ」
 そして、静かに微笑んで、彼女は言った。
「わたくしの気持ちが、貴方なんかに分かる訳、ありませんわ。だって、このわたくしですら、自分の気持ちが分からない時があると言うのに」
 それから、理奈は隆志のシャツから手を離すと、スッ、と後ろに下がった。
「……わたくしとしたことが……取り乱したりして、申し訳ありませんでしたわ」
「……いや。いいんだ。それより……」
 と、言いかけて隆志は言葉を切った。自分の言おうとしていることは、理奈にとっては残酷な事なのかもしれないと思ったからである。
 だが、言い掛けた事を途中で止めて、それを許す理奈ではなかった。
「それより……なんですの?」
 問い詰められた事は仕方が無い。隆志は、言葉を続けた。
「……俺達……今まで通りやっていく事は……出来ないのかな? その……友達として……」
 無理な注文だとは分かっていた。理奈は怒るだろうか? それとも、また取り乱すのだろうか? そう思った隆志の危惧は外れた。理奈は、冷静に首を横に振っただけだったから。
「それは、無理ですわ。静恵さんの気持ちをもう少し考えてあげたらいかが?」
「藤代さん……の……」
「そうですわ。自分の好きな人が、他の女の子と仲良くしていて平気な女の子なんているわけないでしょう? 彼女は大人しいから、表面上は穏やかに笑っているでしょうけれど、内心では面白いはずありませんわ」
「……やっぱり……そうかな……?」
「当然ですわ。全く、貴方の悪い所といえば、そういう所ですわ。ホントに鈍いというか、気配りが出来ないというか…… まあ、確かにわたくしも、もうこうやって貴方を罵ることも出来ないかと思うと、多少は寂しくはありますけど、仕方ありませんわ」
「え?」
 と、問いかける隆志に、理奈は呆れたようにため息を吐いて、首を左右に振る。
「まだわかりませんの? 貴方が他の女の子と仲良くしていて面白くないのと同じように、自分の好きな人を他人に罵倒されて嬉しいはずないでしょう? タカシ。貴方、もし静恵さんのことを他の男子が悪口を言っていたらどうなさるつもり?」
「当然、口が利けなくなるまでボコボコにする――」
 そこまで言って、隆志は気づいた。理奈がこれまでのように遠慮なく隆志をこき下ろせば、静恵にしてみれば面白いはずが無い。
「全く、ようやく気づきましたの? 本当に、貴方って人は鈍いんですから」
「そうか…… そうだよな……」
 静恵と付き合うということは、すなわち理奈とのこれまでの関係を、全てとは言わないまでも、少なくともこれまでのような付き合い方をする事は出来ないということなのだと、今になって隆志は思い知った。
――全てが丸く収まるようには……そうは都合良くは行かないんだな……
 隆志は、理奈の顔を見た。公園の明かりに照らされた、涙で汚れた後の残る彼女の顔。真っ直ぐに伸びた黒い髪。スラリとした体つき。いつも一緒にいて、全く気づかなかったが、今になってとても綺麗な事に気が付いた。
「どうしましたの? 沈んだ顔をして。貴方にはこれからは静恵さんがいるんですから、もっとシャキっとなさい。それとも……今になって迷いが生じたとかいうわけではありませんわよね? もしそんな事を言ったら、わたくしも貴方を許しませんわよ?」
 寂しさと、冗談めかした明るさの同居した口調で理奈は言った。
 隆志は、静恵の顔を思い浮かべる。今頃は、自分の帰りを待っていてくれているであろう静恵の顔を。
 隆志は、ゆっくりと首を振った。
「そんな事はないよ。俺は……自分が、間違った事をしたとは思っていない」
 理奈は、ニッコリと微笑んだ。そんな笑顔を隆志が見るのは、理奈と共に過ごした日々で初めてだったかもしれない。そう思えるほどにそれは、清々しい笑顔だった。
「なら、それで宜しいじゃありませんの。さて……そろそろ、わたくしは帰りますわ。タカシは、静恵さんの所に戻るのでしょう?」
「ああ」
「なら……ここで、お別れですわね」
「……せめて、駅までは送るよ……」
 タカシの申し出に、理奈は首を振った。
「結構ですわ。貴方だって、早く静恵さんの所に戻ったほうが宜しいでしょう? もう、随分と待たせてしまいましたわ」
「いや。大丈夫。静恵は……分かってくれると思う」
 初めて、理奈の前で静恵と名前で呼んだことに、理奈はほんの少しだけ目を丸くした。が、すぐに穏やかな表情に戻る。
「なら、勝手になさいませ。わたくしは知りませんからね」

 公園から駅までのほんの5分くらいまでの距離を、二人は無言のまま歩いた。時折、隆志は理奈の顔を見たが、真っ直ぐに前を見て歩いているにもかかわらず、何かの想いに沈んでいるようで、声を掛けようにも掛け辛い雰囲気だった。
 駅に着くと、理奈は構内には入らず、そのままタクシー乗り場に向かった。土曜日の夜の郊外の駅では、待つ事もなくタクシーを捕まえられた。
「それではここで失礼致しますわ」
「ああ。気をつけてな」
 ガチャッ、と音がして、タクシーのドアが自動で開く。それに乗り込もうとして、理奈は動きを止め、隆志の方を向いて言った。
「タカシ……あの……その……」
「ん、どうした?」
 理奈が躊躇うような仕草を見せるのは珍しい。そう思いながら、隆志は聞き返した。理奈は、そっと俯き加減に顔を伏せて、小さな声で言った。
「その…… ありがとう……」
「気にする事ないよ。それじゃ、また月曜日に、学校でな」
 理奈はそれには答えずに、そのままタクシーに乗り込んだ。隆志の目の前で、タクシーの扉が閉まり、理奈との空間が断絶した。
 ゆっくりとタクシーが走り出す。隆志は、タクシーが駅前のロータリーから走り出し、見えなくなるまでその場に佇んでいた。

 ピンポーン
 呼び鈴を押す。
 インターホンから『どなたですか?』と聞く静恵の声がする。
「……隆志だけど……」
 インターホンの向こうの静恵が、僅かに息を呑む音がする。
『ごめんなさい。ちょっと待ってて。今開けるから』
 インターホンが切れ、やがて玄関の明かりが点る。ガチャッ、と音がして玄関の扉が開き、エプロン姿の静恵が顔を出した。
「お帰りなさい」
 その言葉に、微妙な違和感を覚えつつも、隆志は家庭的な静恵のその姿に、何だか彼女が新妻のような、そんな錯覚も同時に感じた。
「遅かったね。どうしたの? ちょっと、心配しちゃった」
「ゴメン」
 隆志がおとなしく頭を下げると、静恵はゆっくりと首を横に振る。
「いいよ。ちゃんと……帰って来てくれたし…… それで、神野さんは?」
「帰ったよ。駅まで送って行った」
「そうなんだ」
 それ以上、静恵は何も聞かなかった。無論、気にならない訳じゃないだろうが、自分の踏み込んでいい領域をちゃんとわきまえている。そんな静恵の心遣いが、隆志には有難かった。
「ところで、藤……じゃなかった。静恵。そんな格好で何してたの?」
「後片付け。何か、ちょっと落ち着かなかったから……」
「俺も手伝おうか?」
 隆志の申し出に、静恵は首を振った。
「もう、終わったから。それより……」
「それより、何?」
 と、隆志が聞くと、静恵はスッと密着せんばかりに隆志に近寄った。顔を上げて隆志の顔を見る。何となく儚げなその表情が、とてもいとおしく見える。
「今夜は……もう、どこにも行かないで…… 私……本当は、別府君がいない間、心細くて……しょうがなかった……だから…… あっ!」
 静恵が小さく声を上げる。隆志が、静恵を力強く抱きしめたからである。
「わかった…… 静恵がそう言うなら…… ていうか……俺も、今日は……一人になりたくなかったし……」
 その言葉に、静恵は嬉しそうに頷く。そして、ゆっくりと、甘えるような仕草で、隆志の胸に顔を埋めていった。

 月曜日
 隆志が教室に入ると、そっと静恵が傍に寄ってきた。
「おはよう。別府君」
「ああ。おはよ、藤代さん」
 ムッ、と静恵が不機嫌そうな顔をする。
「別府君。な・ま・え」
「ちょっと……学校では勘弁してくれよ。いきなり呼び捨てで呼んだりしたら、俺は他の連中に殺されて、朝日が拝めなくなる……」
 ムーッ、と不満そうな顔をしながらも、静恵は頷いた。
「で、ところで何?」
 何か自分に用があったのでは、と思って隆志が聞くと、静恵もハッとした顔をする。
「あの……神野さんが、まだ来てないの。いつも一番に来る人が……珍しいなって思って……」
「そういや、そうだな。アイツが寝坊するなんて、考えられんし……」
「別れ際とか、何か変わった事は無かった?」
「いや。別に…… まあ、アイツにしては素直だったというか…… だけど、そんくらいだぜ。他には、特に無かったと……思うが……」
「そうなんだ…… そういえば、別府君も今朝は遅いよね」
「ああ。強制的に起こす奴が消えたからな。おかげで危うく寝坊しそうになった」
「じゃあ、明日から、私がモーニングコールしてあげる。そうすれば、寝坊しなくて済むものね」
「ああ。頼むよ。まあ、親がいるっちゃあいるんだが、何か味気ないからな」
「うん。無理矢理にでも起こしてあげるからね」
 そんな事を話しているうちに、担任の男性教師がやって来た。あわてて生徒達がガタガタと席に戻る。しかし、未だに理奈の席は空のままだ。隆志は不審に思ったが、そのまま席について前を見る。普段は穏やかな顔の、初老の男性教師は、今日は何だかちょっと難しい顔をしていた。
 教室が静かになると、教壇についた男性教師は、真っ直ぐに前を向いて話し始めた。
「今日はな。HRを始める前にみんなに一つ話さなければならない事になる」
 ざわつく教室。しかし、教師は出席簿をタン、と机で叩いて生徒達を静かにさせた。
「今まで、みんなと一緒に勉強してきた神野理奈さんだが……家の都合で、急にアメリカに行く事になったそうだ。お世話になった皆に直接挨拶出来ないのは本当に申し訳ないのだが、私のほうから宜しく言って欲しい、と言付けがあった」
 先程よりも、さらに騒がしくなる教室。その中で、隆志は無言のまま、両手で顔を覆った。
 別れ際に、理奈が言った言葉。
「……ありがとう」
 その言葉の意味が、はっきり分かった。てっきり、送ってくれた事に対して向けられた言葉だと思っていたのだが、そうではなかったのだ。
 あれは、今まで、一緒にいてくれた事、全てに対してのお礼だったのだ。
――最後まで、俺は……アイツを理解して、やれなかったな……
 隆志に理由を聞くクラスメートの言葉も無視して、隆志は無言のまま、ジッと動かなかった。

 放課後
 屋上で、隆志は空を見ていた。雲一つない、秋晴れの空が、目に痛い。
――理奈……
 隆志は、もう会えない彼女の事を想う。
 分かってはいる。自分の選択が間違っていたとは思わない。そして、理奈の行動も、よく考えてみれば、至極当然の事だった。
 あの、誇り高い彼女が、失恋してなお、その相手の傍にいられる訳がない。
 ちょっと考えれば分かる事なのに、都合のいい解釈ばかりしようとしていた自分に腹が立って仕方ない。
「ばあ」
 突然、目の前の視界が遮られる。と、一瞬後に、それが風に髪をなびかせつつ自分を覗き込む静恵の顔である事を確認した。
「こんな所にいたんだ。探したんだよ」
「ご、ゴメン…… 何か用だった?」
 ゆっくりと体を起こして、隆志が聞いた。静恵は、少し躊躇いがちに視線を逸らす。
「別に……ただ、一緒に帰りたかったから……」
 ちょっと拗ねたようにも見えるその仕草は、とても可愛い。隆志は、急に心がほぐれた気がした。自然、笑顔が顔に出る。
「そうだな。ゴメン。何か用か、なんて聞くほうが野暮だったよな」
 そう。これからは、彼女と共にいるのが自然になるのだ。まだ少し慣れないけど、多分、一ヶ月もすれば、それが普通の生活になっているはずだ。
 隆志の言葉に、静恵は嬉しそうに笑った。彼女は、隆志と一緒にいるだけで本当に幸せそうに見える。
「でさ。別府君こそ……こんな所で何してたの?」
「ああ。空を……見てたんだ」
「空を?」
「うん。この空のどこかに……アイツがいるんだな、って思ってさ」
 静恵は、隆志の隣に腰を下ろした。
「行っちゃったね……神野さん……」
 静恵も空を見上げる。太陽の光のまぶしさに、少し顔をしかめた。
「ああ。アイツらしいといえば……アイツらしいな……」
「やっぱり……まだ、気になるの?」
 隆志の思いを窺うかのように、静恵が隆志の顔を覗き込む。隆志は、正直に頷いた。
「ああ。アイツには……本当に、申し訳ないことばかりしたな……」
 空を見つめながら、隆志の口から自然と言葉が出る。その言葉に嫉妬するかのように、静恵が、口を尖らせて言う。
「別府君は、優しいよね。時には……残酷なくらい……」
 その声に、隆志は静恵の方を向いた。
「ご、ゴメン。そういうわけじゃ……」
 静恵の機嫌を損ねたのではと慌てる隆志を見て、静恵はクスクスと笑った。もとより、本気で機嫌を悪くした訳じゃない。ちょっとしたイタズラ心から、わざと不機嫌そうな口調で言ってみただけである。
「でもね。そういう別府君だから……だから、私は好きになったんだよ」
 そう言って、そっと肩に頭を持たれかけて来る。
「……ありがとう」
 隆志は言った。本当に、自分にはもったいないくらいに素敵な彼女だと思う。過去の事にいつまでもこだわっていては、今の幸せすら逃してしまうだろう。理奈は、行ってしまったのだ。もう、忘れなくてはならない。否。忘れることは出来ないだろうが、思い出の一つとして、心の奥にそっと仕舞い込んで置かなければならない。
 そう思ったとき、静恵がボソッと言った。
「大丈夫だよ……」
「何が?」
 問い掛ける隆志に、そのままの姿勢で、目だけを上目遣いに隆志の顔を見て、静恵は言った。
「神野さんなら……大丈夫…… 今は、辛いかも知れないけど……彼女の事だもの。きっと……何年か経って、素敵な女性になって、私達の前に戻ってくるような、そんな気がするよ。別府君が、神野さんを選ばなかった事を後悔するような……そんな素敵な女性になってね……」
 静恵の顔を見ながら、隆志は小さく頷く。
「そうだな。アイツなら……きっと、そうだ。けど……俺は、静恵を選んだ事だけは、後悔しないけどな」
 その言葉に、静恵は答えなかった。ただ、腕を隆志の腰に回し、さらに体を寄せたことが、彼女の意思表示だった。
 彼女のぬくもりを感じながら、隆志はもう一度空を見上げた。

 本当に、痛いほど鮮やかに、理奈と隆志を繋ぐ空は、そこに何の障害も存在しないかのように、青く青く、澄み渡っていた。

終章:静恵編〜end〜


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