お食事編

「あ……あの…… 別府君。お待たせ……」
 静恵が、リビングで待つ隆志を呼びに来たのは、それから10分程経ってからだった。
「待ってましたあああああっ!!!! ディナーフォーーーーーッ!!!!」
 ソファから跳ね上がるように立つと、いきなりレイザーラモン住谷のポーズを決める隆
志。静恵は一瞬、目をまんまるくして立ち尽くしたが、それからクスクスと笑い出した。
「どうしたの? 別府君。いきなり変なポーズ取ったりして」
「え……いやいや。マジで腹減ってたからさ。ちょっと喜びのポーズを……」
 ギャグが伝わらず、恥ずかしそうに弁解する隆志。だが、静恵にはその態度の方がウケ
たようである。
「何か……恥ずかしがる別府君て……面白い……」
 クスクスと笑い続ける静恵に、隆志は渋い顔を見せる。それがまた面白かったらしく、
静恵の笑いは止まなかった。
「ヤダ……その顔……変なの……」
「ちょ、藤代さん、笑いすぎだよ」
「ごめんなさい……でも……おかしくって……」
 笑いの止まない静恵に、隆志が困ったように立ち尽くしていると理奈もキッチンから顔
を出してきた。
「何をやってますの? もう全部準備の方は終わってますのよ」
「いや。だって、藤代さんが……」
 お腹を押さえて笑っている静恵を隆志は指差した。
「す、すみません。今……行きますから……」
 理奈の顔を見てようやく笑いの収まった静恵が頭を下げると、理奈はため息をついて肩
をすくめた。
「どうでもいいけど、早くして下さいね。料理が冷めてしまいますわ」
 クルリ、と優雅に振り向いて、理奈は先にダイニングへと消える。
「じゃあ藤代さん。行こうか?」
「……うん」

 ダイニングテーブルには、既に三人分の料理がキレイに並べられていた。
「ひゃーっ! スゲエ。これ、お前らが作ったのかよ」
 感嘆して、隆志は声を上げた。デミグラスソースの強い匂いが鼻腔から入り込み、直接
腹を刺激する。
「失礼な言い草ですわ。どういう意味ですの?」
「いやー。ここまで本格的だとは思わなかったからさ」
 不快感を示す理奈に、隆志は平気な顔をして答える。
「正直、匂いを嗅いだだけでクラクラきそうだ」
「あら。なら、タカシは匂いだけで満足なさいな」
「待て待て待て。今それやられたら、俺は間違いなく死ぬぞ」
「なら、なおのこと宜しいではありませんの。世の中から害虫が一匹消え去るのですから」
 例によって厳しい言葉を隆志に浴びせつつも、理奈は内心得意満面だった。それも当然。
何と言っても、隆志のために今日まで料理の特訓をしてきていたのだ。それが生かされよ
うとしているのだから。そしてとりあえず、第一関門はクリアしたのだから。
「害虫ってお前…… いや。この料理を食べさせて貰えるのなら、今日はどんな暴言にだって
耐えてやるさ」
「全く、貴方という人はプライドという物はないのかしら」
「そんな物は母親の腹ん中に置いてきた。さあ、食おうぜ。いつまでも理奈とケンカして
たらせっかくの料理が冷めちまう……って、どうしたの? 藤代さん」
 ちょっと二人から一歩下がった距離で、うつむき加減で不安そうな顔をしている静恵に
気づいて隆志が聞いた。
「え……あの……私、ちょっと……っていうか、だいぶ失敗しちゃったから……心配で……」
「失敗って……」
 隆志はテーブルの上の料理を見た。ハンバーグの方は取り立てておかしい所はない。
というか、むしろ盛り付け具合に至るまで完璧である。次にグラタンに視線を移すと、
確かに表面はキツネ色というよりは、明らかに黒い焦げ目が付いている。
「このグラタン……藤代さんが作ったの?」
 静恵はコクンと頷いた。

「意外だな。藤代さんって、料理とか得意そうに見えるんだけどな」
 隆志のその言葉を聞いた瞬間、理奈のさっきまでの得意な気分が一気に消し飛んだ。
「ど……どういうことですの? もしかして……ハンバーグの方を、静恵さんが作ったと
思ってらした……とか……?」
「ヤベッ!! いや、まままさか、けけ、決してそんな事は……」
 慌てて首を振って否定する隆志だが、態度からそれが嘘であることは、誰が見ても明白
である。
「フン! もういいですわ! どうせわたくしの方が料理が下手に見えますわよ」
「いや、その……悪かったよ。今まで、理奈が料理した事なんて見たこと無かったから」
 珍しく隆志が素直に頭を下げた。その態度に、理奈の怒りはほぼ収まったのだが、
ちょっと癪なので、もう少し怒ったフリをすることにする。
「別に謝る必要なんてありませんわ。ただ、タカシがそういう偏見で見る人間だって事は、
よく胆に命じておく事に致しますけど」
「だから、悪かったって。お嬢様って自分であまり料理しないもんだって思ってた俺が悪
かったよ」
 と、その時隆志の腹がギュルルルル、と大きな音を立てて鳴った。それで、隆志の態度
を理奈は理解できた。つまり、理奈が怒って隆志の料理を取り上げるのではないかと恐れ
ているのだ。
 もう少し、意地悪をしようかと思ったが、その瞬間、静恵が横でプッ、っと吹き出した。
「アハッ……別府君……ほんっとに……お腹空いてるんだね……」
「仕方ないだろ。若さゆえの過ちってもんで……」
「うんうん。神野さんも、そのくらいで許してあげようよ。でないと、別府君、飢え死に
して死んじゃうかもしれないよ」
 静恵のとりなしに、理奈はわざと大きくため息をついた。
「ま、ここは静恵さんの顔を立ててあげますわ。ただ、今度わたくしを愚弄するような態
度を取ったら、その時は許しませんからね!」


「それにしても、ものの見事に焦げついとるなー」
 ちょいちょいとフォークでグラタンの表面を突付きながら、隆志が言った。
「ゴメンなさい。タイマーの時間を間違えてるなんて思わなかったから……」
「だから、わたくしが注意したでしょうに。大体、料理なんて生き物ですからね。本に書
いてある分量や時間をそのまま信頼すると、上手くいかないものですわ。ちゃんと時々様
子を見ないと」
 済ました顔で、理奈は釘を刺した。
「済みません…… 何か迷惑ばっか掛けちゃって……」
「気にすることないよ。次から頑張れば良いし。理奈も、そんなに厳しく言わなくたって
……」
「あら? 別にわたくしはアドバイスをしただけで、責めたりなんかした覚えはありませ
んわ。それに、静恵さんは筋はいいですもの。手際さえ良くなればもっと上手になります
わよ」
「あ……ありがとう。でも、神野さんって本当に料理、上手なんですね。家庭科の授業と
かだと班が違ったから、見る機会が無かったんですけど……驚いちゃいました」
「へえ? そんなに上手なんだ。俺はちっとも知らなかったけどな」
「ええ。正直、グラタンだって、神野さんがそばについててくれなかったら……食べられ
るものになったかさえも危ういくらいで……」
「へえ、そうなんだ。見直したぞ、理奈」
「べっ……べべべ、別に、大した事した訳ではありませんわ。そ、それに、貴方に褒めら
れたって、ちっとも嬉しくなんてないんですからね」
 必死になって照れ隠しをしようとした理奈だったが、口調がどもってしまい、かえって
二人から不思議そうな目で見られてしまった。
「そ、そんな事より、そろそろ食べません? 隆志があまりにも馬鹿な会話をするので、
時間が経ちすぎてしまいましたわ」
「おいおい、俺のせいかよ。まあ、意見そのものには賛成だがな。では、いっただきまー
…… ん?」
 フォークを手に取った隆志は、何か強烈な視線に晒されているような気がして、顔を
上げた。静恵と理奈が、二人ともジッ、と真剣な目つきで隆志の事を見つめていた。

「ど……どうしたんだ? 二人とも……」
「べ、別に何でもありませんわ。さっさとお食べになったらどうなの?」
 理奈は、慌ててフォークを手に持つと、グラタンの表面をパキパキと割って、丁寧に焦
げた部分を取り除いていく。
 一方で、静恵は隆志の問いに答えられず、もじもじと指を弄っていた。
「藤代さんは? 食べないの?」
「うん…… えっと……べ、別府君の……口に合うかなって……心配で……」
「大丈夫だって。俺、大抵の物は食べれるからさ。ましてや、藤代さんの作った物なら、
どんなものだって喜んで食べるさ」
「それって、褒め言葉になってないよ?」
 静恵は、ちょっと拗ねた仕草を見せた。
「ゴ、ゴメン…… そんなつもりで言った訳じゃ……」
 慌てて、隆志は謝る。それを見て、静恵はクスクスと笑った。
「嘘。怒ってないよ。別府君が何を言いたいかは分かってるから……その……ありがとう」
「い……いや…… そ、それじゃ、早速頂こうかな」
「あ、ちょ、ちょっと待って!」
 隆志がフォークを手にとってグラタンをつつこうとしたその時、静恵が慌てて制止した。
「どうしたの、藤代さん? なんかあった?」
「や……やっぱり、怖いから……その……神野さんのハンバーグの方から食べて……」
 静恵は恥ずかしそうに下を向いた。好きな人に初めて食べて貰える手料理なのだから、
評価が怖いのは当然である。ましてや一緒に出された理奈の料理が完璧すぎるほど完璧な
料理なのだから、なおさらである。
 静恵の様子を見て、隆志はよく分からないながらもとりあえず頷いた。
「じゃあ、まずは理奈のハンバーグから食うとしますかね」
「付け足しのように言わないで貰えません? 言っておきますけどね。わたくしの手料理
など、貴方が一生望んでも、もう食べる事が叶わないくらい貴重なものですのよ」
「ちぇ。よく言うぜ。それじゃあ、ご相伴に預からせて頂きますよ。お嬢様」
「正直、貴方に食べさせるのはもったいないのですけどね。よく味わってお食べなさい」
 静恵の時に比べると、感謝の念が薄いような気がして、理奈はついムキになった。隆志
は肩をすくめたが、もはや何も言わずに、ハンバーグを切り分けると、一口、口に運んだ。

 理奈は、無言でその様子を見つめていた。静恵と違い、理奈のそれは自信作である。表
面は冷静さを装っているが、内心、早く感想を言って欲しくて仕方が無かった。
 隆志は、ゆっくりと味わうように、ハンバーグを口の中で咀嚼し、飲み込んだ。そして
そのまま、凍りついたように動かなくなる。
「どうですの? 味の方は」
 たまらずに理奈が聞く。
「う……」
 気難しそうな表情で、隆志が漏らした一声に、理奈は不安になった。
――どういうことですの? 味の方は問題ないはずですわ。焼き加減か何かを間違えたの
かしら。中まで火を通しきっていなかったとか? それとも、単にタカシの口に合わなか
ったのかしら…… それでしたら大問題ですわ。日常の何気ない会話からさりげなく抜き
出したタカシの好みを研究して、味付けを練習したというのに……
 理奈の不安が頂点に達し、溢れ出そうとしたその時。
「うめえええぇぇぇ!!」
 タカシが一声、感嘆の言葉を口にした。
「いや、正直驚いたぜ。お前、料理の才能あったんだな。下手なファミレスのハンバーグ
なんかより全然美味いぜ」
「ばっ……馬鹿にしないでくださいます? あんな冷凍だかレトルト物だかのハンバーグ
と一緒になんてされたくありませんわ。もう少し貴方は、味の勉強をした方が宜しいん
じゃないかしら」
 一見、平然とした口調で憎まれ口を叩く理奈だったが、心の中はもう、それどころでは
なかった。

――やっ…… やりましたわ! 料理を始めて4年。初めは飼い犬のジョゼにすら見放さ
れたわたくしの料理。誰にも悟られぬよう必死になって練習した甲斐がありましたわ。え
え。なんといっても、全てはこの瞬間のためでしたもの。タカシに褒めてもらえて理奈は
……幸せですわ……
 表情を変えず、ジッと隆志を睨みつけたまま内心で舞い上がっている理奈を、静恵がつ
ついた。ハッ、と我に返る理奈。
「えっ? な、何ですの、静恵さん」
「神野さんは食べないんですか? とっても美味しいですよ」
「あら。ありがとう。褒めてもらえて嬉しいですわ」
 穏やかに微笑むと、理奈もハンバーグを口にする。何度も食べた味だから新鮮味は無い
が、隆志に褒めて貰えた後だけに、ひとしおの感動はあった。隆志に目をやると、もう無
言で食事を続けている。
「……さてと」
 半分くらい食べたところで、隆志は一息つくかのように姿勢を正した。
「そろそろ、藤代さんのグラタンも食べないとな。もういいだろ?」
 念のために隆志が確認を取ると、静恵は急に体を縮み込ませながら、コクン、と頷いた。
「なんか、藤代さん……試験の結果を待つ時みたいに緊張してない?」
「そっ……それどころじゃないですよ…… さ、さっきからもう心臓がバクバクしっぱな
しで……」
 静恵は震える声で言った。正直、一番手は勇気がなくて理奈の料理から先に食べてもら
ったのだが、それは結果としてさらに厳しい状況に自分を追い込んだように静恵は思った。
――あんな美味しい料理の後じゃ……私のなんて、とっても食べられたもんじゃないよ……
「さて……と。じゃ、いただきまーす」
 緊張する静恵とは裏腹に、軽い挨拶をして、隆志がグラタンにフォークをつける。同時
に、静恵はギュッ、と目をつぶった。その瞬間を自分の目で見る勇気が持てなかった。
 一秒……二秒……三秒……
 ほんのごく僅かな時間が、静恵には何分にも何時間にも感じられる。隆志からの反応は
まだ無い。心臓の鼓動は時間に比例してますます早くなっていくが、自分から隆志に感想
を求める気にもなれず、静恵はただじっと審判の時を待っていた。

「お?」
 と、隆志の不思議そうな声がする。
「どうなさったの? タカシ」
 理奈が聞く。
「いや……思ったよりも、これ……美味くねー?」
「ほ、ほんとっ!?」
 静恵がパッ、と顔を上げて叫んだ。その声は、後の二人を唖然とさせるに十分なくらい
大きかったが、静恵はそれにも気づかず隆志に畳み掛けるように質問する。
「ホント? ホントに美味しいの? う、嘘じゃないよね? 私の気を使って言ってくれ
てるとかじゃないよね?」
「あ……ああ…… てか、見た目が見た目だけに、実は食べられればいいかなー、ぐらい
にしか思ってなかったんだけどよ。まあ、ちょっとマカロニが茹で過ぎな感はあるけど、
十分いけると思うぜ」
 その言葉に、静恵は理性が飛ぶかと思うほど嬉しかった。理奈がいなければ、駆け寄っ
てキスくらいしたいぐらいに。
「ありがとう。私、別府君に喜んでもらえてほんっとに嬉しい」
 パアアッ、と顔を綻ばせて喜ぶ静恵に、隆志は思わず照れ臭そうに笑った。
「何か、そんなに喜んでもらえると逆に照れるな」
「そんな事無いよ。私……その……別府君に喜んでもらえるように一生懸命作ったつもり
だったから……その……いっぱい失敗はしちゃったけど……でも……ホントに嬉しいの……」
 激しい喜びから一転して、恥ずかしげに顔を真っ赤にして、それでいて精一杯の喜びを
表現する静恵。その仕草に隆志の胸がドキリ、と鳴った。
――普段大人しくて……いつも控えめなんだけど、藤代さんって、こんな可愛らしい面も
あるんだ……

 今日、彼女の家にお邪魔してからと言うもの、隆志は静恵のいろいろな面を見せられて
ただただ驚くばかりだった。普段の控えめかつ清楚な一面。勉強の時に見せたような、
ちょっと大胆な一面。そして、今のように明るく弾んだ声ではしゃぐ一面。
「どうしたの? もっと食べて。遠慮しないでいいから」
「ご、ごめん。ちょっと驚いちゃって。何か、今日の藤代さん、いつもと随分違って見え
るから」
「え……そ、そうかな…… 自分の家だから……少しは……その……リラックスしてみえ
るかも知れないけど……」
「ていうかさ。今の藤代さん……生き生きとしてて、いつもより……何かその……可愛ら
しいな……って……」
 隆志の言葉に、静恵は驚きで目を真ん丸くして呆然と彼を見つめた。それから、みるみ
るうちに顔を真っ赤に染め、うつむいて黙り込んでしまう。
――別府君が……別府君に……可愛いって……わ……私……もう……死んじゃうかも……
 一方、理奈は二人のやり取りを厳しい目で見つつも、歯がゆさで奥歯をギュッと噛み締
めていた。
――わたくしとした事が……自分で自分の首を絞める発言をしてしまうとは…… 今ここ
で邪魔をしようものなら、どう見ても嫉妬していると思われて仕方ありませんわ…… そ
れにしても、タカシときたら…… わたくしにはあのように優しい言葉など掛けてくれた
事、一度も無いというのに……
 理奈は、そっと怪我をした左手の人差し指を見た。さっき、隆志が舐めてくれた事を思
い出す。あの行為には、何の下心も無かったのだろうか。
――タカシは……わたくしを、女性として接してくださっているのかしら…… それとも、
ただの友人としてしか見ていないのかしら……
 いくら思い悩んでも、答えが出るはずの無い悩みに、理奈は悶々と呻いていた。

「いやー、美味かった。てか、まだ足りないくらいだ、うん」
 全ての料理を平らげた隆志が、いささか不満そうにフォークを置いた。
「別府君……良かったら、私の、食べる?」
 静恵が、自分のグラタン皿を隆志に差し出した。皿には、まだグラタンが半分ほど残っ
ている。
「いや。それ、藤代さんのだろ? せっかく自分で作った料理なんだから……」
「いいの。だって……別府君に食べて貰った方が、その……嬉しいから……」
 今日、何度目かになるだろうか。静恵が例によってモジモジと小さな声で、顔を赤くし
ながら言った。この仕草で言われて、断れる男がいたら、正直見てみたいものだと思うく
らい可愛らしい彼女の言葉に、隆志はドキリとした。
「……じゃ、遠慮なく……頂こうかな?」
「うん…… どうぞ」
 差し出されたグラタンを受け取り、隆志はグラタンを口に運ぶ。その様子を、静恵はド
キドキしながら見つめる。一口、隆志はグラタンを口に含んだ。
「……あっ!」
 ムグムグと何の気なしにグラタンを食べる隆志の正面で、静恵は小さな声を上げた。
「ほうふぁふぃふぁ? ふふぃふぃろふぁん」
 口に物を含んだまま、隆志が聞く。普段ならここで、理奈が何か物をぶん投げてくる
シーンなのだが、今の理奈にはその余裕は無かった。
「えっと……その…… 私が口を付けた物を別府君が口にしたんだから…… これって
……間接キス……に、なるんだよね……」

 静恵の言葉に、隆志と理奈は同時に顔を上げた。一人は驚きの表情で。もう一人は、
一瞬唖然とした表情を見せ、すぐに鋭い恨みの目付きで。
「ゴホッ!! ゲヘガハゴホゴホ…… ゲヘッ!ゲヘッ!!」
「だっ、大丈夫? 別府君!!」
 即座に静恵は隆志の方に回りこみ、背中をさすった。気管に何か入ったらしく、しばら
く苦しげに咳き込んでいたが、ようやく収まりかけると、手探りで何かを探した。
「何? 別府君。何が欲しいの?」
「水……水……」
「お水? はい、これ」
 静恵から水を受け取ると、隆志はゴクゴクと一気に飲み干した。
「プハーッ!! あ゛ーっ!! 苦しかった……」
「大丈夫、別府君……」
 心配そうに覗き込む静恵に、隆志は微笑を浮かべて答えた。
「ったく…… 藤代さんのせいだぜ…… その……変な事言うから……」
「だ……だってその…… ホントの事だもん……」
「だからって、その……急にそんな事言われたら、意識しちま……う……」
 隆志の言葉がそこで途切れた。静恵の顔が意外なほど近くにあるのに気づいたからだ。
「別府君は……その……どう思ったのかな…… 私と……間接キスして……その……」
「どどど…… どうって……?」
「えっ……と…… それくらい、何とも思わない……とか…… 嫌だ……とか……」
 少し言葉を切ると、静恵は何か期待を込めたような目で隆志の目を真っ直ぐに見つめた。
「う……嬉しい……とか……」
 隆志は返答に窮した。というか、混乱してまともに頭が働かない。というか、恋人もい
ない健全な男子が、このように迫られたら普通は落ちる。
 心臓をバクバク言わせながらも、隆志が思いを迷わせるのは、理奈がここにいるからで
ある。静恵は気づいていないみたいだが、さっきから理奈は、無言のままこちらを睨みつ
けている。しかし、あの理奈が無言のままこの様子をただ眺めていることは、隆志には意
外だった。

「あ……あのさ……藤代さん……」
「どうしたの?」
「さっきから……ずっと……理奈が……睨んでるんだけど……」
 先程までの静恵なら、その言葉だけで、あわてて隆志から離れて席に戻って縮こまって
いただろう。が、静恵は隆志から離れようとはせずに、理奈の方をチラリと見てから言った。
「……大丈夫です……神野さんには……ちゃんと話しましたから……」
「えっ!?」
 隆志は驚いて理奈の方を見た。理奈もその言葉にハッとしたように、目を大きくしてこ
っちを向いた。それから一瞬、苦渋の表情を浮かべると、ガタッと椅子を鳴らして立ち上
がった。
「お、おい、理奈……」
「悪いけど、気分が優れませんから、先に失礼致しますわっ!!」
 大股でずんずんと歩くその姿には、普段の優雅さは無い。リビングに置いてあったバッ
グをひったくるように持つとそのまま玄関へと向かう。隆志は、慌ててその後を追った。
「おい、待てよ。どうしたんだよ、急に……」
「具合が悪いからと言ったでしょう。貴方も飲み込みの悪い方ですわね」
「体調崩したんなら、休んでいった方がいいだろ? 何もそんなに慌てて帰ろうとしなくても……」
「そんなのわたくしの勝手ですわ!! とにかく、家に帰って休みたいんですの」
「だったら俺も帰る。具合が悪いのに一人じゃ危ないだろ?」
「結構ですわっ!! あ……貴方は……静恵さんと仲良く食事の続きをなさっていればい
いんですわっ!!」
 理奈の激しい口調に、隆志は思わずたじろいだ。理奈は、キッと隆志を睨みつける。怒
りと悲しみと、後悔がない交ぜになった瞳で。
「わたくしには……わたくしには、一度だって、あんな優しそうな笑顔は、見せてくださ
らなかったのに!」
 吐き捨てるように言うと、呆然とする隆志を残し、理奈はパッと身を翻して逃げるよう
に玄関から外へと、駆け出して行った。

 一人、玄関に取り残された隆志は、しばらくの間、呆然と立ち尽くしていた。あそこま
で取り乱した理奈を見たのは、多分会ってから一度も無かった。これまでの彼女は、怒る
時も笑う時も、その感情に身を任せるような事はなく、常に自分をコントロール出来る人
間だった。というか、そう思っていた。
「と、とにかく、後を追わないと」
 隆志もそのまま玄関に向かう。あんな風に取り乱した状態では、何があるか分からない。
 靴を履き、玄関のノブに手を掛けた。
 その時。
「待って!!」
 と、廊下に静恵の声が響き渡った。


終章・理奈編へ
終章・静恵編へ


前へ  / トップへ
inserted by FC2 system