終章〜理奈編〜PART.3

 軽く、触れ合うようなキスは長くは続かなかった。時間にすれば一秒か二秒。それで隆
志はパッと理奈から離れると、彼女に背を向けてしまう。
「ごごごごご、ごめん! だっ、だっ……だけどよ……お、俺、その……バカだからさ。
た、態度でって言われたら……これしか思いつかなくて……」
 隆志は背を向けているので、理奈の表情は分からない。だが、不意打ちをしたから恐ら
く怒っているだろうな、と予想していた。
 しかし、それは当たってはいなかった。唇が触れられた瞬間から、理奈の意識はどこか
へ飛んでしまったかのように、何も考えられず、彼が離れた後もしばらくはボーッとして
いたのだから。そして、意識が戻ってくると、しばらく彼女は、右手で左胸を押さえなが
ら、無言で隆志の背中を見つめていたが、やがて深呼吸をしてから言った。
「……ダメですわね……」
 その声の不満そうな響きに、隆志の背筋がビクンと微かに伸びる。
――やっぱ……怒るよな、そりゃ…… 不意打ちでキスしちゃ……女の子なら誰だって……
 そう思っていたから、彼女の次の一言は予想外だった。
「そっ……そんなキス……ア……アメリカなら……挨拶代わりにしか……なりませんわ……」
 それは、隆志を落ち込ませるのに十分な一言ではあった。が、間髪いれずに理奈は続け
る。
「こっちを向いて。タカシ」
 ゆっくりと振り向いた隆志の顔を、理奈の両手が包み込み、自分の方へグイ、と引いた。
同時に背伸びをして、彼女は、自分の唇を隆志のそれに強く押し付けた。
 それは、恋愛映画の主人公達がするような、濃厚なキスだった。硬直して動けない隆志
の口を貪るように理奈は吸い、さらに舌でなぞる。しばらく繰り返しているとようやく隆
志が口を軽くあけて答えてくれた。後はもう夢中だった。互いに舌と舌を絡め合わせ、相
手の唇を求め合う。理奈は、己の欲求が尽きるまでその行為をひたすらに続け、隆志もま
たそれに答え続けた。
 そして、唐突に理奈が唇を離した。そのまま互いに見つめ合う。

「どう? これくらい……しないと……貴方の言葉なんて……」
 信じられませんわ。
 そう、笑顔で言おうとした。
 だけどそれは、口づけを終えた途端にあふれ出してきた感情の奔流に押し流されてしまい、最後まで言葉に出来なかった。
 理奈の目から、涙が堰を切ったように流れ出す。膝がガクン、と折れると、堪えきれず
に顔を隆志の腹に埋め、両腕でしっかりと隆志の体を抱きしめた。
「お、おい! 理奈……」
 隆志の呼びかけに答えたのは、くぐもった嗚咽だけである。激しく泣きながら、隆志を
得た喜びと、隆志を失ってしまうのではないかという恐怖と、それを招きそうになった自
身の愚かさと、そんな自分を受け止めてくれた隆志の優しさとを独白し続ける理奈を、隆
志はただ黙って聞きながら、幼子をあやすかのように、理奈の頭を撫でていた。

「もう……大丈夫か?」
 しばらく後。理奈が泣き止んだ後も彼女はずっと、隆志に顔を埋めたままでいた。隆志
もずっとそうしていたかったが、ふと時計を見るともう八時を回っている。
 理奈は、ゆっくりと隆志の体から腕を解いた。顔を上げ、ゆっくりと立ち上がる。
「そろそろ、帰ろう」
 隆志の言葉に、理奈は無言でコクリと頷く。
「随分と、遅くなっちまった。ゴメンな。家の方は……大丈夫か?」
「……一応、お夕食はお友達の家で済ませると……連絡は入れておきましたわ。ただ、
もう門限は過ぎてしまいましたから、お母様には怒られるでしょうけど……」
 その言葉に、驚いたような表情で見る隆志。理奈もそれに気づき、怪訝そうな顔つきを
する。
「……どうかなさいました? 変な顔をして」
「いや。いつもなら『貴方のせいでこんなに遅くなったんですのよ』とか何とか言いそう
なものなのに、やけにしおらしいからさ」
 その言葉に、理奈は再び顔を赤らめる。
「からかわないでくださる? きょ、今日はその……どう見たって、わたくしが悪いんで
すし……それに、その……」
 そこで言葉を切ると、理奈は隆志の腕を取って、自分の二本の腕で抱きしめた。

「今晩くらいは……その、静恵さんを見習っても……いいかと……」
「ちょっと待て! う、腕に、胸の感触が……」
 着やせするタイプなのか、隆志は理奈の胸はほとんど無いと思っていたが、こうやって
押し付けられると、二つの丘の柔らかな感触が伝わってくる。
「こ……今晩だけは、特別ですわ」
 照れて言う理奈に、隆志は微笑みかけた。
「ああ。どうせ、月曜日からは元通りになるんだろ?」
 そう言うと、理奈はツン、とそっぽを向く。
「ええ。ほんっと、むかつくくらいにわたくしの事を理解していらっしゃるのね。貴方は」
「まあな。それじゃ、帰るとするか。しかし、歩きにくいな。この体勢」
 理奈に腕を取られている為、上手く真っ直ぐに歩く事が出来ない。そんな隆志に、悪戯っ
ぽく笑いかけて理奈は言った。
「いいではありませんの。その方が……ゆっくり帰れますから」
「ああ。そうだな……」
 今の幸せを、精一杯にかみ締めるような笑顔で、隆志はそれに同意するのだった。


 月曜日
「全く、だらしのない。毎朝毎朝、何度言ったら分かりますの?」
 いつもと同じ、理奈の文句で迎える朝。
「仕方ないだろ。昨夜は勉強してたんだから、文句は言わせねーぞ」
 そして、いつものように切り返す隆志。
「ふん。そのような理由、寝坊の言い訳にはなりませんわ。だいたい、勉強と言ったって、
どうせ精一杯遊び尽くしてから、慌てて詰め込んだだけでしょう?」
「ぐ……」
 あまりの図星に、一瞬声を失う隆志。しかし、気を取り直して反論を開始する。
「だ、大体登校時間がはえーんだよ。まだ全然急ぐような時間じゃねーだろが」
「あら? 余裕を持って登校するのは当然ですわ。遅刻寸前で駆け込むような真似は、
わたくしはしたくありませんし。それに」
 ジロッ、と鋭い視線で睨みつけて理奈は言った。
「そのような事、わたくしを15分も待たせた言い訳にはなりませんわね」
「うっ……」
 さすがにそれは言い訳出来ない。どのような理由があろうとも、約束した以上は、自分
に非がある。
 敗北を認める隆志に、理奈はさらに追い討ちを掛けた。
「全く。おまけに髪もろくすっぽセットしていないようではね。一緒に歩くのが恥ずかし
いですわ。明日、また同じ過ちを犯したら、わたくし、一人で先に行かせて貰います……わ……」
 理奈の言葉の語尾が、消え入るように小さくなる。そして、隆志もその理由に気づいていた。
 二人の視線の先には、藤代静恵が、カバンを両手で前に持ったまま、二人の方を向いて
立っていたからである。

 立ち尽くす二人に、静恵はトコトコとゆっくり、近寄ってくると、ペコリ、と軽く会釈する。
「おはようございます。別府君。それに、神野さん」
「え、ええ…… おはよう。静恵さん」
「お、おはよう」
「あ、そうだ。別府君。これ……作ってきたよ」
 カバンをゴソゴソと漁ると、静恵は一冊のメモノートを取り出し、隆志にはい、と渡す。
「単語帳。作っておくって……約束したでしょ?」
「あ、ああ…… ありがとう」
 何となく、気まずそうな二人を、不思議そうな目で見つめる静恵。隆志は、バリボリと
頭をかくと、ためらいがちに静恵に言った。
「あの……土曜日は、その……ごめん」
「え? 何がですか?」
 静恵は一瞬、不思議そうな顔をする。が、すぐにちょっとはにかんだような笑顔で答えた。
「ああ。あの後、一人で洗い物をするのはちょっと大変でしたけどね。二人とも、ほった
らかしで帰っちゃうんだもの」
「い、いや……それもそうだけど、その……」
 静恵は首を振って隆志を制した。
「私は……大丈夫です。別府君には、いっぱい勇気を貰ったから……それだけでも感謝し
ています。それに……」
 静恵はチラッ、と理奈のほうを向いた。
「私、まだ諦めた訳じゃないんですよ。神野さん」
「え?」
 疑問の言葉と共に、鋭い視線を投げかける理奈に、静恵はニッコリと微笑んだ。

「もう少し、別府君に素直に接しないと、いつか愛想つかされちゃいますよ。そうしたら、
私、いつでも別府君の事を奪いに行きますから」
 唖然として返す言葉もなく立ち尽くす二人に、一礼して静恵は少し先に歩いてから振り
向いた。
「とりあえず、今は邪魔はしませんから。それじゃ、私、先に行きますね」
 最後に会釈をしてから背中を向けて小走りに、静恵は走り出した。
 その後姿を見つつ、隆志がボソッ、と呟いた。
「強いよな。藤代さんって……」
 理奈もそれに頷く。
「ええ…… わたくしなんかよりも、ずっと……」
「でも、まあ安心しろ、理奈」
「何がですの?」
「お前の弱い部分は、俺が補ってやるからさ」
 フン、と鼻を鳴らして理奈はプイ、と視線を逸らした。
「ええ。期待しないで待ってますわ」
 それに、隆志は最上級の笑顔で微笑み返すのだった。

終章 理奈編〜fin〜


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