その2

 休日です。
 サラリーマンの休日というのは非常に重要でありまして、月曜へ向けて英気を養うのに費やすべきなのです。
 つけっぱなしのテレビが怠惰な休日を演出していて、俺としてはこのまま昼寝でもしたい気分。
 ところが。
「ガウ……」
 同居人が、めちゃくちゃコッチを睨んできます。いや、正確には『人』じゃないけど。
「ヒマ、ダゾ」
 頭に生えた獣耳をピンと立て、恨めしそうに窓から見える空に目をやる。
 まぁ、確かに青空の下で元気に過ごしてきた獣人には、休みに部屋に篭りっきりというのも気が滅入るだろう。
それでなくても、普段は(守ってるかどうかは別にしても)あまり一人で外出しないように言ってあるのだ。
 たまにはサービスも必要か。
 俺はゆっくりと身体を起こすと、ベッドの上にあぐらをかいて向かい合った。ネムは横に立ってるので、目線
が丁度同じくらいになる。金色の瞳が、期待で光っていた。
「どこ行きたいよ?」
「ガウ……!」
 ネムは目を輝かせて、テレビを指差した。
 
『……荒れ果てた大地には、乾いた風が吹き荒れ、そこで生きる動物たちに容赦なく襲い掛かります。今日は、
このサバンナでたくましく生きる、ライオンの親子の姿をご覧に入れましょう……」

「うん、無理」
 日本にサバンナはないし、仮にあってもきっと日帰りで行ける所じゃない。
「ム……」
「もうちょっと現実見ようぜ? な?」
「ガルゥ……」
 ふくれっ面をされても、無理なものは無理なのだ。今度、基礎的な地理でも教えておこう。
 自然が恋しいのは解るが、サラリーマンが休日に行ける場所なんか限られている。
 とりあえず、今日のところは次善の策を取るとする。
 財布をポケットにねじ込むと、俺はいつもの帽子を手に取り、ネムの耳をすっぽり覆うように被せてやった。



 幸せそうな家族。
 手を繋いで歩くカップル。
 俺が休日外に出たくない原因の一つは、間違いなくこれだ。
「ガウゥ……タカシ、デカイゾ!」
 おめーもかよ。もう目がキラキラじゃないですか……。
「そいつはな、キリンって言うんだぞ」
「キリン……」
 柵越しに、茶色と黄色の模様がそびえ立っている。長い首の先端についた目が、つぶらな瞳で俺たちを見守
っていた。
 この動物園の目玉の一つらしく、周囲には結構な人数が群がっている。
「デカイ……イッパイ、クエルゾ!」
「狩るなよ? 頼むから」
 うむ。サバンナの代わりに動物園というのは、裏目だったかもしれない。中途半端に本能が刺激されてる気
がする。そもそも、こいつサバンナ生まれじゃないはずなんだが。
「アレ、ハ?」
「ゾウだな」
「アレ……」
「サイだ。怒ると角が伸びるぞ」
「グゥ……」
 俺のウソの説明に、首をすくませるネム。たまにゃ、こんくらいやり返したっていいだろう。
 見た目中学生くらいの女の子がいちいち動物の名前を聞く姿というのは、結構違和感がある。周りが騒がし
いので、あまり目立たないのは幸いだ。いつも人目を引いてしまう尻尾も、この場では土産物のオモチャ程度
にしか見られていないようだ。
 穏やかな風の中で檻の中の動物たちも、思い思いにくつろいでいる。それなりに人出はあるが、ギュウギュ
ウってほどでもない。そんなのどかな休日の光景を眺めていると、ネムが再び俺の腕を突付いた。
「アレ……」
 檻の中を指差して、首を傾げる。俺はすれ違った女子大生らしい一団に気を取られていたので、何の考えも
なく、目に入ったものを反射的に口にした。

「あぁ、あれは、かなみさんだ」

「……」
「……あれ?」
 自分が何を言ったのかようやく理解した瞬間、檻越しに迷惑そうな視線と目が合った。



「ったく、なんであんたがここに居る……って、まぁ理由は一つか」
 向かいに座ったかなみさんが、盛大にため息をついた。
 休憩コーナーのテーブルセットの上に、コーヒーの缶を音を立てて置く。家族連れが弁当を広げるのに使った
のか、端のほうにケチャップがついたままだった。
 それが白衣につかないように気にしつつ、彼女はネムの方を見る。
「ま、あんたにしては上出来か……ネムちゃんも、部屋に篭りきりじゃ気が滅入るもんね?」
「グルゥ……」
 満面の笑みで笑いかけるかなみさんに、ネムは少し怯えた表情を浮かべる。それを見て、かなみさんの眉がハ
の字になった。
「う〜ん……人見知りが激しいのかしら? 毎朝顔を合わせてるはずだけど……」
「ハハ、すみません」
 きっと、ネムはその野生の直感で何かを感じてるのだろう。丁度、かなみさんが『ぬこレーダー』で猫の存在
を察知するように。
 このまま、この話を続けるのはマズいと判断し、速やかに話題を変えることにする。
「で、でも、かなみさんも大変ですね。土日なのに、往診なんて……」
「別に。もう慣れたわよ。ウチの病院、人手が足りないのはいつもだし」
「ははぁ……」
「大変と思うなら、アイスくらい奢れば?」
 アイスの屋台をアゴで示される。
 ここで断ると後が怖いので、素直に従うことにした。
 だが、できるだけ急ぐ。あの二人を一緒にしておくのは、マズい。
「バニラと、チョコ、あとミントチョコ」
 ミントチョコは俺の好みですが何か? これほど真っ二つに好みが別れる食べ物も珍しいと思う。
 横目でチラチラ二人の方を気にしながら、アイスを待つ。かなみさんが何か話しかけて、ネムがそれにやる気
のない返事を返すというやり取りが続いているようだ。
 やがて、スプーンの刺さったコーンアイスが三つ出てきた。
「900円です」
 千円札を出す。
「100円のお返しです。よろしければ、お席までお持ちいたしますが」
「あ、いや、大丈夫。ありがとう」
 アイスを受け取るときに、一瞬、店員の方に気を取られる。
 品物を抱えて振り向くと、かなみさんはネムがよそ見をしてる隙に、頭を撫でようとしていた。
「あーーーーっと!!」
「なっ、なによ! いきなり大声出さないでくれる!?」
 はっと顔を上げ、こちらを睨んでくるかなみさんに、俺はどうにか取り繕った。
「えっと……包帯が取れないので、あんまり頭は触らないで欲しかったりして……」
「……あっそ」
 獣医とはいえ、そこは流石に医者である。おとなしく引き下がってくれた。
 帽子越しとはいえ、触られては確実に耳の存在がバレてしまう。
 かなみさんにチョコアイスを渡すと、『ラムレーズンがよかった』と文句を言われる。頭を撫でそこなったので、
かなりご立腹のようだ。しぶしぶといった感じで、プラスチックのスプーンでアイスを突付き始める彼女を横目に、
ネムにもアイスを差し出す。
「ほれ、バニラでいいか?」
「グゥ……タカシ、アー……」
「は?」
「アー……」
 差し出したアイスに対して手を出そうとせず、代わりに口を大きく開けている。
 これは……『アレ』をやれと? そこでイチャついてるカップルのように、『アレ』をやれということか?
 かなみさんも異変に気づき、アイスを食べる手を止めて、こちらを見ている。
 ここで空気読まずに『だが断る』と言うのは簡単だ。
 だが、今日はもともとネムにサービスするために来たわけだ。このくらいは甘やかしてもいいだろう。うん、って
いうか断ったら後々、嫌な形で響いてくるような気がする。
「……ほい」
 結局、言うとおりにアイスを一口分スプーンで掬うと、優しく口の中へ落としてやった。
「アム……」
 ネムは満足そうに目を細めると、数回口の中で咀嚼してから飲み込む。そして再び、
「アー……」
と口を開けた。
「いや、すまん。あとは自分でやってくれ。俺のが溶ける」
 一口やれば十分だろう。俺のアイスは表面が溶け始め、早くもコーンから垂れ始めていた。
「ム……」
 不服そうな顔をしてアイスを受け取るネムだったが、かなみさんと目が合うとなぜか
「クシシ……」
と笑って見せた。さっきまで、あれだけ警戒してたというのに。
 かなみさんは一瞬眉を寄せると、元々不機嫌そうな顔をさらに曇らせて、再び自分のアイスを食べだした。
「どうかしました?」
「……別に」
「クシシ……」
 それを見て、またネムが笑う。
 なんだろう。二人の間に火花が散ってるような気がするは気のせいだろうか。気のせいと思いたい。
 俺がアイス買ってる間に何かあったのだろうか。



 アイスを食べ終えると、かなみさんは俺にスプーンと包み紙を押し付けて仕事に戻っていった。
 しかし、獣医も大変な仕事だ。犬や猫ならともかく、カバやワニの身体のことなんて、どこで習うんだろう?
 俺らは再び園内をフラフラと歩きながら見て回っていた。
 やはりネムが時々質問してきて、俺はそれに答えるというやり取りを交わしながら進んでいると、
「……!!」
 いきなり、ネムが止まった。俺は後ろから着いていっていたので、ぶつかりそうになる。
「っ……おい、どうした?」
「ガウ……」
 そのまま、右手のガラスで出来た展示へフラフラと寄っていく。
 ガラスの向こうには、サルのつがいと、その子供が居た。赤ん坊が生まれたばかりなので、サル山と隔離し
てあるのだろう。小ザルの背中を毛づくろいする親サルの姿を、ネムは食い入るように見ている。
「ネム……」
 俺は横に並ぶと、そっと大き目の帽子を被った頭に手をやり、そのまま引き寄せた。
「ガウ……」 
 ネムは目を細めて、肩に頭を預けてくる。
 結果的に、俺はネムに故郷を捨てさせてしまった。その重さが、今更になって頭の奥によみがえる。
 ネムは今、幸せなのだろうか? 後悔させてないだろうか? 俺は自分の保身を考える余り、何か大切なこ
とを見失ってないだろうか?
 俺は、その全てにはっきりした答えを出せないままでいる。
 一ヶ月やそこらで出るような結論じゃないのかも知れない。だが、ネムにこんな表情をさせてしまっている
自分を、酷く情けなく思う。
 俺は、ネムをどうしたのだろう?
 人間のように生活させたいのか。それとも、ペットのように飼い慣らしたいのか。
 こうして寄り添ってる俺らの姿は、他人からすればどう見えるんだろう。
 
 ――親子?
 ――兄弟?  
 ――それとももっと他の何か?
 
 ネムを連れてくるときに、ある人に言われた言葉がある。
 『覚悟がいるよ』
 『その子を守るためなら、どんなことでもするっていう覚悟。一生を棒に振るかもしれないという覚悟がね』 
 
 ――結局、覚悟なんか出来てないじゃないか。バカが。
 
 ネムの体温を感じながら、自分に毒づいても、答えは出ない。
 どれほどの間、そうしていたのか。
 親サルが子供の毛づくろいを終えて、それから今度は両親同士が互いの身体を整え始める。
 そのときになって、ネムは頭に掛かっていた俺の手を取った。
「ガウ……」
 そのまま、チラリと横を通った親子を見る。その手は固く繋がれていた。子供が満面の笑みではしゃいで、
空いている手に持った風船を振り回している。
「風船、いるか?」
「ガウ!」
 ネムは大きく頷いて、俺の手を急かすように引っ張った。



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 ドアが規則正しく二回、ノックされる。
「どうぞ」
 リナは退屈そうな返事をした。
「失礼いたします。お茶をお持ちいたしました」
 その執事は静かにドアを開け、足音もほとんど立てずにテーブルへと歩み寄った。
 手に乗せた盆には、ウェッジウッドのティーセットが載っており、ポットの注ぎ口からは微かに湯気が出
ている。カップに紅茶を注ぎいれる姿勢には、背骨が鉄で出来ているのかと思うほど乱れがない。
「ありがとう」
 リナは椅子に座り、カップへ口をつける。微かに上下する白い喉元を見て、執事はその紅茶が主を満足さ
せるものであることを確認し、ベストの内ポケットから折りたたまれた紙を取り出した。
「あと、ご依頼の別府様の件ですが」
「あぁ、調べはつきましたの?」
 微かに口を尖らせるリナの表情は、きっと常に付き従っている執事にしか読めないものだった。その顔は、
時に不快であり、時に喜びでもあった。今の主の表情を、執事は『期待』だと読み取り、返事をする。
「はい。結論を先に申し上げますと、こういう言い方も失礼ではございますが、概ね、ごく普通の人生を歩ま
れております」
「そうでしょうね……そうでしょうとも」
 自分に言い聞かせるように、リナは言うともう一口紅茶を飲んだ。その声には、本人も気づかない程度の僅
かな失望が混じっていた。
 それを素早く察知した執事は、いたずらっぽく微笑んで見せた。既に初老と言ってもよい年齢の彼だったが、
このときだけは少年のような顔を見せる。生やした口ひげが、笑顔の形に曲がった。
「ただ、一つだけ面白いことが」
「面白い?」
 こめかみの辺りがピクリと動く。
「はい。実は、今からおよそ二ヶ月ほど前のことでありますが、別府様はマカオへ旅行へ行った際に遭難し、
救出されております」
「遭難……」
「そうなんです」

 空気が凍りつく。

 この執事は、主の心を察することに関しては一流ではあったが、それ以外の空気は割と読めないのが玉に瑕
だった。
「コホン……失礼いたしました」
 リナは短いため息をつくと、軽く頷いて先を促した。
「救出されたのは、滞在先のホテルから行方を消してからおよそ四十日後。本人の証言では、『無人島に漂着
して、果物などを食べて生き延びた。近くを通った漁船に助けてもらった』とのことです。その漁船は未だに
発見されておりませんが、一時期、メディアにもかなり取り上げられました」
「なるほど……『見たことがある』と思ったのは、そのせいというわけかしら?」
「おそらくは……」
 リナはしばらく、アゴに手を当てて紅茶の水面を見ていたが、ふと思いついたように言った。
「マカオへ旅行と言ったわね」
「はい」
「ただのサラリーマンが行けるものではないと思うけれど」
「商店街のクジ引きで当たったようで……そもそも、その時期にはお嬢様は……」
「言わなくて結構。思い出したくありませんの」
「……失礼を致しました。再調査をお望みならば、引き続きやらせますが……」
 彼女は無言で首を振る。
 執事は恭しく一礼すると、部屋を出ていった。
 リナはまだ熱い紅茶の水面を、しばらく微動だにせず眺めていた。


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