『ごめんなさい』―――49回。
『許してください』―――36回。
『もうしません』―――21回。
『なんでもします』―――19回。
『どうか命だけは』―――14回。

以上、俺が行った消火活動の全容である。
しかし、火の手は非常に早く、また非常に燃え易い現場のため、
到着した時には、既に手遅れに近い大火災へと発展していた。

要約―――「すっげぇ怒られた」

「いや、本当、ごめんなさい」
「……次やったら、マジ殺すわ」

記念すべき50回目の『ごめんなさい』。
そこでようやく、香波に会話をする余裕が生まれたようだ。
今まで、とても思い出したくもない罵詈雑言に徹していた香波が、
ようやく会話の成立する言葉を発してくれたことが、嬉しかった。

「いや、ホントこの通り!」
「もういいわ。知波のこともあったし。
 ただ、私の存在をすっかり忘れ腐ってたのには納得いかないけどね」

ああ―――会話が出来る……!
まるで、異星言語を解する宇宙人と初めて交信が成立した時のような、
初めて赤ん坊がパパの名を呼んだような、そんな極めて純粋な感動。

「…何泣いてんのよ」
「人類が栄えたのは、言語を解したからだと偉い人が言ってたよな」
「で、感銘を覚えた、と?」
「身をもってな」

物凄い勢いで睨まれたので、これ以上の言及は避けておく。
折角鎮火しかけた怒りにまたドボドボと油を注ぐ真似は避けたい。

「さ、じゃ迷子の香波も合流したことだし、楽しく遊園地に参りましょう」
「どっちが迷子よっ!」
「お前」
「断言するなっ、即答するなぁっ」

ドボドボと注いでしまっていた。

「……こほん。……ところで高志」
「なんだ」
「アンタの右袖にしがみ付いてるそれは、あたしの妹で間違いない?」

言われて、確認する。
がっしりとシャツの袖を握り締めている小さな影は、間違いなく橘 知波。
『離しませんが、何か』―――見上げる瞳が、そう訴えていた。

「間違いないんじゃ……ないかな」
「何か、あったの?」
「なななな何もないよ?」
「ふうん……」

俺の完璧なポーカーフェイスの甲斐もなく、思いっきり疑われていた。
密着せんばかりに寄り添う知波ちゃんが、その疑いに拍車をかける。

「ち、知波ちゃんはジェットコースターショックからまだ立ち直れてないんだ。
 そうなんだよ。あの事件が彼女の心に深い傷を、な? 知波ちゃん?」
「……その通りです」

良かった。知波ちゃんもなんとか空気を読んで―――

「その傷に付け込んだ高志さんは、私に隷属を強要し、
 離れぬことを約束させられました。汚されてしまったんです……」

読めてねえ。
しかも事実が微妙に入り混じった巧みな捏造だ。

「というわけで、私は高志さんから離れられませんので悪しからず」
「た、高志……アンタ……」
「ち、違……違うような違わないような違うような……」
「高志さんは『さっきのことは犬にでも噛まれたと思って』と」
「この小悪魔っ!?」

俺の悲痛な叫びも虚しく、油は知波ちゃんによって注がれる。それはもう並々と。
どっかーん。そんな音が聞こえた気がした。
ああ……香波の爆発音だ。

「きいいいいいっ! 畜生以下ッ! ロリコンッ! 強姦魔っ!」
「……私、ロリですか?」
「ああああ! 頼むから、知波ちゃんは黙っててくれぇ!」
「なら唇塞いでください。さっきみたいに」
「高志ぃ!? アンタ……アンタって男はっ!?」
「ちょっと待てぇ! 話せば判る! いいか、まず俺の話を―――」
「アンタって男は…………男はっ……っ」
「かっ―――香波?」

とんでもないものを、俺は目にした。
勝気にして強気にして豪気。『強情』という言葉に服を着せ、
おめかししてそのまま遊園地に連れてきたような、香波が。

「最低よっ……。さいてぇ……」

泣いていた。

「ばか高志ぃっ……。嫌いよっ……嫌ぃ……」

ぼろぼろと、涙を流して泣いていた。

「大嫌いだぁ……っ。うああああっ!」

―――泣いていた。




泣いている理由が、判らなかった。
知波ちゃんを傷つけられたから?
迷子にされたことが悔しかったから?
俺が何か拙い事を言ったから?
知波ちゃんが一度も彼女と話そうとしなかったから?

判らなかった。
―――判らない振りをしていた。

「追いかけないんですか」
「知波ちゃん……ちょっと悪ふざけが過ぎたぞ」
「……ふざけてません」
「あのなぁ」
「真剣です。高志さんのことに関しては、全てが真剣」
「でも」
「……そうですね。言い過ぎました……姉さんは悪くないのに」

俯く知波ちゃん。
そしてこの場に謝罪すべき相手、香波は居ない。
涙を見せたあと、走り去る彼女を追いかけることはできなかった。

「……最低なのは私かもしれません」
「知波ちゃん……」
「卑怯でした。堂々と宣戦布告したら、負ける気がしたんです。
 臆病です……。私は……駄目な妹でした」
「違うよ、知波ちゃん」

そう、違う。違うんだ。
本当に卑怯なのは俺の方だ。気付いてた筈だ。
ああ、そうだ――とっくに気付いてた筈なんだ。

「悪いのは、君じゃない……」

涙の訳も、アイツが怒る理由だって、アイツの気持ちだって。
気付いてながら、気付かない振りをした俺の罪だ。

「俺が、悪い……」

言ってしまうと、一気に押し潰されそうな罪悪感に苛まれる。
元々何処にも安定なんてなかった立ち位置の中で、
一人勝手に中立を決め込んだ大馬鹿野郎。
俺の迷いが、香波と、知波ちゃんを不幸にしようとしている。
最低な男―――間違っちゃいなかった。

「嫌―――ですっ」
「ち、知波ちゃんっ?」

医務室で散々感じた体温が、今再び俺を抱きしめていた。
橘 知波が持つ精一杯の力で。
弱々しい身体が出せる、最大限の力での拘束。
痛い位に締め付けて、がむしゃらで無茶苦茶の、
ムードなんて欠片もない、最高に不細工な抱擁だった。

「行かないで」
「―――っ」
「高志さんは今、姉さんのところに、行くつもりをしてました。
 行っちゃったら……私には戻ってきません」
「そんなことは―――」

嘘は最後まで吐けなかった。
確かに俺は香波を追いかけるつもりでいたから。
どんな結末が待ってたとしても。
どんな言葉を香波に告げるのか、まるで考えてないけれど。
放っておくことは……できない。

「私……彼女でも恋人でもないんですから、ね。
 拘束力なんてありません……。
 ですので高志さんが振り払えば終わり。
 おしまい。お別れ。さようならです」

痛い。
締め付ける腕がじゃない。
彼女自身がぷるぷると震えるくらい、精一杯の力を込めた抱擁。
胸に埋めたせいで、見えない、泣き顔が―――たまらなく痛い。

「いやです……。そんなのは嫌……っ」

俺は何が出来る?
誰のために、何のために、自分のために、何が出来る?
最善の選択は何だ? 今すべきことは?
まとまらない。霧散する。思考はぐちゃぐちゃ。
まとまれない。飛散していく。答えは出ない。
でも。
でも。
でも!

「泣かないで、知波ちゃん……」
「折角、折角伝えられたんです……。
 不器用な私でも、素直じゃなくても、ちっぽけで可愛くなくてもっ……。
 頑張って伝えられたのにぃ……。嫌です。嫌です。嫌ですよぉ……」
「泣くなよ」
「嫌ですっ! いつもみたいにそっけなく、淡白に言ったら……
 高志さんは離れていくっ……。素直になれたのに、正直にいえたのに……。
 また振り出しは……この幸せがなくなるのは……嫌ですっ」

「泣くな橘 知波っ!」
「―――っ!?」

まとまらない思考と、渦巻く混乱の中で、俺は叫んでいた。
俺が最低だって、知波ちゃんが最低だって、なんだって構うもんか。
今は一つ。一つだけ。
守らなきゃ。やらなきゃ。最低の大馬鹿野郎だって、やらなきゃ……!

「泣くなよっ。医務室で知波ちゃん言っただろ? 誓っただろ!?
 闘うって、負けないって、譲らないって! 格好良かったよ!
 それが何こんなとこで我侭娘に成り下がってるんだよ!
 そんな程度の誓いかよっ!? 見損なったっ!」

言葉を搾り出す。
受身に徹した自分の愚かさを棚に上げて、律する。
こんなとこで終わらせたくない―――その一心で。
終わらせない。
香波も、知波ちゃんも、壊してお仕舞いになんか、したくない。

「俺は、迎えに行くよ、香波を。
 んで、三人で向き合おう。話し合って答えを出そう。
 俺、馬鹿だから、ヘタレだから、きっとまたヘマするけど。
 情けない醜態を晒すだろうけどさ。
 でも話し合わないでこのまま有耶無耶に終わるより、絶対格好いい」

そう、格好悪い俺だって。
曖昧で優柔不断で鈍感だって。
できる。
やる。
やってみせるから。

「だから、今はこの腕を解いて欲しい。
 居なくなんかならない。絶対に。戻ってくるよ、香波を連れて」
「高志……さぁん……」
「信じろ。強くなれ。負けるな。
 医務室で、俺を絡め取って、全部奪い去りそうになった、強い狡猾な橘 知波で居てくれ。
 半端な俺が好きになりかけた、そんな女の子のまま、ここで待っていてほしい」

笑いたければ笑えばいい。
要領の良いヤツにとっては、腹が痛くなるくらい笑える戯言だろう。
全然、筋なんか、通ってない。
なんて薄っぺらくて、無根拠。
でも本音と本音とそして本音で硬め上げられた、俺の最後の武器だ。
笑え。
笑えよ。

「……馬鹿です。大馬鹿、高志さん……っ。
 もう……単純で……優しい……そしておかしい……っ」

そうだ。
それでいい。

「もう、馬鹿ぁ……」

くしゃくしゃの泣き顔のまま―――笑ってくれ。

「……俺は―――」
「絶対戻ってきてください……。絶対闘いますから、私、渡しませんからぁ……。
 姉さんと駆け落ちなんて……許しませんからっ……」
「俺は―――」

手を取る。

「戻ってきて下さい。ここに、私に、戻って……こぃ」
「誓うよ」

そして、また泣きじゃくりそうな知波ちゃんの手の甲に、口付けた。
彼女がその涙を拭いた後に残った、しょっぱい味。

「俺、別府 高志は、誓います。
 不器用で乱暴で無愛想で厄介な姉妹二人に、心も身体も隷属することを。
 二人を、誰にも譲らないことを。
 負けないことを。闘うことを―――」

なんて照れくさい。
だけど、ヤケで口にすればなんだか無根拠な勇気が湧いてくる。
即席の、知波ちゃん謹製の呪い。

「誓います」

言って―――駆け出した。

敗戦の完全に決定している、負け戦。

俺は、その開戦の合図を告げる。


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