魔暦1年1月1日

寒さで目が覚めた。
枕もとの目覚まし時計を見る。
午前一時過ぎ。
もう年は明けてしまったみたいだ。
体を起こして外の様子を窺うためにカーテンを開ける。
少し窓が開いていた。
寒さの原因はこれか。
昨日の朝に酔い覚ましのために開けたままになっていたらしい。
外はまだ暗いが騒ぎは収まってはいなかった。
太鼓やら笛の音がかすかに聞こえる。
窓を閉めると私は再びベッドに倒れこんだ。

――アイツあの後どうしたのかな。
家に帰ったのかな。
それとも私を探し回ってたかな。
お父さんの部下だったってことはかなり年上じゃない。
悪魔の青年期は長いからよくあることだけど。
しかも結構えらかったみたい。
頭はいいもんね。
作戦立てるのとか上手かったし。


……ダメだ。
ここにいてもアイツのことばかり考えてしまう。
もう意味、ないのに。
起き上がると鏡を覗き込んで寝癖を簡単に直す。

――ひどい顔。
目は真っ赤だし、まぶたも腫れてる。
メイクも崩れてぐちゃぐちゃだ。
まあいいや。
見せる人がいるわけでもないし。
着替えもせずに寝てしまったので服は昨日のままだ。
私はコートとマフラーをしてふらふらと外へ出た。
昨日と全く同じ格好で。
昨日とは何もかもが違う世界に。


雪がちらちらと降り始めていた。
街灯に反射する雪の光が幻想的で
夢の中みたいだと思った。

――全部夢だったらよかったのに。

足はひとりでに本部の方へ向く。
いつもの道も夜に歩くと知らない場所みたいだ。
ほうっ、と吐く白く染まった息は形どることはないまま夜の闇に散っていく。
やがて本部のビルに着くころには
周りはうっすらと白く染まっていた。
本部は照明はついているもののやはり人の気配はなく
コツコツと聞こえる自分の足音が空しく反響する。
自分の部屋の前に来て立ちつくす。
部屋の電気はついていない。

――ここにアイツがいたら……
ソファーに座ってお茶の用意をしていてくれたら……
『遅かったですね。さあお話をしましょう』といって微笑んでくれたら
どんなに幸せか――。
枯れたはずの涙がこみ上げてくる。
私は拭うのも忘れて本部を駆け足で後にした。

   ◆

外はもうすっかり雪景色。
歩道に残る誰かの足跡もすぐに見えなくなってしまいそうだ。
私の心にも雪が降ればいい。
そして誰かが刻んだ足跡を、
自分が作った足跡を、
全て覆いつくしてくれればいい。

――そうだ。
雪が全てを消してしまう前に
せめて最後の足跡を辿ろう。
雪が融ける頃、
わずかに残る心の窪みに
つまずいて転んでしまわぬよう。

私は駅へ向かう。
あのテーマパーク方面への電車は24時間出ているはずだ。
ホームは人がまばらだった。
祭りを楽しんだ人々が帰途に着くのか、
楽しげに会話する家族やカップル。
誰もがみんな幸せそうだ。
でも私は幸せじゃない。
私はこれから幸せの痕を埋めに行くんだ。
ホームに到着した電車に乗り込み出口に近い席に座る。
電車の窓から見る夜の景色は漆黒の世界だった。
昼間あんなにきれいに見えていた山々も、
しんしんと降っているはずの雪さえも
宵闇の緞帳に遮られて見えない。
時折見える街灯さえ浮かばれない魂のように
頼りなく現れては消えるだけだった。

目的地に到着すると雪はその足を緩めていた。
タクシーを捕まえようと思ったが
この時間に閉園中のテーマパークに向かうのもどうかと思ったので
歩いていくことにした。
雪も大したことはないし、距離もそう遠くはない。

この辺りはビターバレーよりも多めに振ったらしい。
足をとられて少し歩きにくかった。
気温も多少低く、黙って立っていると身震いしてしまう。
それでも一時間ほど歩いてテーマパークに着くころには
体はすっかり温まっていた。
BDLは昼間の喧騒が嘘みたいにひっそりと静まっていた。
入り口の門は雪が積もって厚くなってしまっている。
門の内側の鉄格子が閉まっていたが、それを乗り越えて中へ入ることにした。


飾り気のない、照らすためだけの薄ぼんやりとした照明に、
青白く照らされた銀世界。
昼間のそれとはまた違う、幻想的な景色。
こんな時でなければしばらくは足を止めて眺めていただろう。
私はその景色に目を奪われることもなく、 処女雪に足跡をつけながら、自分たちの足跡辿り始めた。

最初に入ったレストラン、
乗ってはしゃいだアトラクションの数々。
その一つ一つを心に焼き付けながら
道のりを辿った。
そして、道の途切れた、あのベンチに座る。
軒下のベンチに雪は積もっていなかったが、
ひんやりと冷たかった。

――あの時、理由を聞いた自分が愚かだったのか。
――誘われるがままここに来たこと自体が間違いだったのか。
問いに答えが出るはずもなく、
時間だけが過ぎていく。
腕時計はまもなく午前四時を示そうとしていた。
雪はまだ降り続く。
さっきまでつけてきた足跡も消え去ろうとしている。

――あの後、観覧車に乗ろう、って言ってたんだっけ。
この足跡が消えてしまう前に、
辿れなかった道をつなげてしまおう。
それで、もう、終りにするんだ。

ベンチをたって私は照明にかすかに照らされる
観覧車へと歩き出した。

青白く染まった観覧車は近くで見るものを
圧倒する存在感で屹立していた。
月に照らされた古城のように。

だが、私はそんなものを見てはいなかった。
私は立ち尽くしていた。

観覧車ではなく、その前にある影を見つけて。

   ◆

「なんで――?」
無意識のうちに声が漏れる。
観覧車の手前の段差に座り込んでいた彼は立ち上がる。
頭や肩に積もっていた雪がその拍子に舞い落ちた。
「遅かったですね」
見慣れた笑顔で歩いてくる彼を
幻でも見ているような気持ちで見ていた。
「もう観覧車終わっちゃいましたよ」
――目の前にいる。
もう終わったはずなのに。
もう会わないと思っていたのに。
私の大好きな顔で、いつもの優しい笑顔で、
私を迎えてくれている。
「待ってましたよ、カナミさん」


何も見えない。
声も出ない。
この押し寄せる感情に私は何が出来ただろうか。
崩れそうになる私をタカシはそっと抱きしめてくれる。
「来てくれて、ありがとうございます」

私は謝りたかった。
傷つけたことを。
踏みにじったことを。
待たせてしまったことを。

「ふっ……ひぐっ……うっ……」
でも出てくるのは嗚咽ばかり。
それを見透かすようにタカシは言う。
「いいんです。何も言わなくても。あなたが来てくれたことが私にとってなにより、嬉しいんです」
私は泣きじゃくった。
小さい子供みたいに。

――雪は降り止んだ。

   ◆

私たちは今観覧車に乗っている。
「機械制御ですから結構簡単に動かせるんですよ」
そういってはいたが勝手にやっていいものなんだろうか。
――まあ、いいか。
そんなことは。
向かい合わせの座席に座った私は恥ずかしくて、
タカシの顔を見ることができないでいた。

「ねえ、一つ聞いてもいいかな」
「なんです?」
私たちの乗るボックスはゆっくりと高度を上げいく。
「なんで、ここで待っていたんだ?
 ……その、私の家に迎えに来るとか、そういう選択肢もあったんじゃないのか?」
わざと視線を窓の外に向けながら聞いてみる。
「一度外に出てしまったら、そこで終わってしまうような気がして……
 カナミさんとのはじめてのデートですから、最後までちゃんとやりたかったんです」
ちらっと顔を見るとやっぱり優しい笑顔を向けてくれていた。
「ば、ばかじゃないの……? 雪も降ってるっていうのに……」
私はまたそっぽを向いてしまう。

――違うのに。
こんなこといいたいわけじゃないのに。
ごめんなさい、って言いたいのに。
ありがとう、って言いたいのに。
私ってかわいくないな……。

観覧車はさらに高度を上げる。
遠くに見える街の光が、黒のビロードにちりばめられたスパンコールみたいだ。
空と街の境界は濃紺に染まり、夜明けが近いことを教えてくれる。

しばらくの沈黙。
席が頂上付近に差し掛かった頃、
タカシが口を開いた。
「一つお願いがあるんですが……」
私は顔を向けタカシの目を見る。
「あの、この観覧車の中だけでいいんです。
 ――『カナミ』って呼ばせてくれませんか」
少し照れの色が見えるけど、真剣な瞳。
私はタカシの方に向き直る。
「……うん。そのかわり私もタカシって呼ぶから――いい?」
タカシはハイ、といってはにかんだ。
心の中ではずいぶん前からそう呼んでいた気がする。

そうだ。
私はこの男の前ではかぶる必要なんてなかった。
『鋼鉄の女』の仮面なんて。
頂上を過ぎた観覧車は徐々に高度を下げていく。

「……ねえ、そっち、いってもいい?」
恥ずかしさがなかったわけではない。
でも口をついて出た言葉。
タカシは微笑んで頷いた。
席をたってタカシの横に座る。
「あっ……」
タカシが私の肩に腕を回して抱き寄せる。
その体温が心地よくて、私は彼の肩に頭を乗せる。
景色がゆっくりと地上へ近づいて来る。
街の光ももう輝く一筋の線にしか見えない。

「もうすぐ地上ですね」
「うん……」
ずっと――
「着いちゃいますね」
「うん……」
ずっとこのままで、いたい。
ボックスが地面に一番近いところへ来る。
「……」
無言だった。
でも、想いはつながっていた。

そして、景色は再び巡る。

   ◆

「カナミ」
呼びかけられて視線だけを向ける。
見たことがないくらいの真剣な顔がそこにあった。
「あそこで言えなかったことがあるんです」
私は胸がドクンと鳴るのを聞いた。
「私は確かにお父上の部下でした」
――二軍戦統部、シンイチロー椎水大将直属の部下にして、
悪魔教会きっての秀才。
それが彼の本来の姿。
「尊敬していましたし、心から忠誠を誓っていました」
言いながら遠くに視線を送る。
私はその顔から目が放せないでいる。
「だからシンイチロー様が亡くなって、仕事のやりがいを失ったとき、
 何をするべきかを考えたんです」
視線を下に落とす。
「そして、カナミ、あなたが入隊した時、決めたんです」

一瞬の沈黙の後、私に視線を移す。
「この娘を支えよう。それがシンイチロー様の遺志だ、とね」

景色が再び夜と朝の狭間の世界を鮮やかに映す。
私は黙って聞いていた。
「はじめは後見人か何かのつもりでした。父親気取りと蔑まれても仕方ありません。
 だから謝ります。あなたの命のことばかりを考えて想いを考えることができなかった。
 そして、その結果却ってあなたを苦しませた。本当に申し訳ありません」
胸がズキッと痛んだ。
私は何かを言いかけるが、タカシの言葉に阻まれる。
「でも、あなたを見ていくうち、変わった」
唇が少し持ち上げ、再び視線を外し、遠くにやる。
「他人のため、自分のため、どんな逆風の中でも逃げずに突き進むあなたを、
 ――傲慢と言われるかもしれませんが、守りたい、と思うようになりました」
タカシの視線が私を包む。
「それは、命だけじゃない、想いも全部ひっくるめて
 支え、守っていきたいと思ったんです。
 父親の代わりとしてではなく、一人の男として」
私の目に映るのは優しい、愛しい、笑顔。
もういいの。私には新しい意味が出来たんだから。
声には出来なかった。でもきっと伝わってる。
微笑んでいるはずの顔が滲んで見えなって――

「迷惑でなければ言わせてくれませんか」
ヒュッと喉が鳴るのを聞いた。
体が震える。

「私は、あなたが、――カナミが、好きです」

   ◆

街が朝日に沈んでいく。
明かりが一つまた一つと消える。
濃紫からオレンジに染まりつつある空が、
これからを象徴するように世界を包んでいく。

私は泣いていた。
タカシの腕に包まれて。
埋めるはずの幸せの痕。
そこに残った
奇跡を胸に抱いて。


観覧車を降りた私たちは
降り積もった雪に足跡をつけながら
出口に向かって歩いた。
「危ないですから」
といって差し出してくれた手を握って。

あの喫茶店のベンチの前に来た時
タカシが突然立ち止まる。
「そういえば、カナミの返事を聞いてませんでした」
「は?」
いたずらっぽい笑みで私のほうを向く。
「カナミは私のことどう思ってるんですか?」
「う……そ、それは……」
た、たしかにいってない気がするけど――
「そ、そんなの、聞かなくたって、その、わ、わかるでしょ!!」
「いえ、わかりませんね。私の独りよがりかもしれません」
と、あくまでとぼけるつもりらしい。
「……いじわる」
「え? 何です? 聞こえませんでした」
完全にペースを握られている。
今の私の顔はきっと郵便ポストよりも赤い。
タカシは相変わらず意地悪い笑いでこちらを見ている。

「さあ、聞かせてください」
そういって私の両肩に手をのせる。
――うう……顔が近いよ。
わかったよ、言えばいいんでしょ!?
「い、一回しか言わないからね」
笑顔で頷くタカシ。
深呼吸して息を整える。
「ふう……え、えーと……
 わ、私も、タカシのことが……す……んんっ!?……ぁ――」


言い終わる前に突然口を塞がれる。
甘い吐息が漏れ、体の力が抜ける。
自然と目を瞑り、抱き寄せるタカシに身を任せた。
――永遠にも似た数秒間。
私は宙に浮かぶような感覚に襲われた。

それが終わるとタカシは体を離し、
「やっぱり、聞かなくていいです。私は臆病者ですから」
と言って、まだぽーっとしている私の手を引いて歩き出した。
「……ばか」
そういうのが精一杯。

私はタカシの腕をとって歩き出した。
真っ白な道を。


――二人で、
足跡をつけながら。


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