・ お嬢様な妹がメイドに挑戦してみたら その18
・ 買い物編 その5

「おい、理奈」
 背後から呼びかけられ、私はハッと我に返った。緩んだ顔を引き締め、キッと兄の方を
向く。今のだらしない顔を見られはしなかっただろうか? 不安が一瞬頭を過ぎったが、
それを表に出すのはかえって良くない。
『何ですのご主人様』
「これも頼む」
 そう言って、私が選んだ服を多少乱雑に寄越す。これは、気に入って貰えたということ
だ。私に渡したという事はつまり買うという事なのだから。
『ご主人様。いくら買おうとそれはご自由ですけどね。一体どれだけわたくしに持たせれ
ば気が済みますの。いくらわたくしが今日は使用人だからといって、女性に対してこのよ
うな重労働をさせるなんて持っての他ですわ』
 内心では、自分の選んだ服が兄に気に入ってもらえたことが嬉しいのだが、それを表に
出したくはなくて、私はまた文句を口にした。
「別に大した量じゃないだろ。瑛子ならその倍は持つぞ」
 さも当然のように反論されたので、私は嬉しさも半分消し飛んだ気分になった。
『わたくしを瑛子のような下働きと一緒にしないで下さいませ。普段から重労働に慣れて
る瑛子とわたくしは違うのですから、そういったことを考えていただかないと困りますわ』
 何か言い返されるかと思い、私は身構えたが兄からは反論も謝罪もなかった。ただ、ちょっ
と呆れたように鼻で息をすると、レジの方を見て顎を軽く上げて合図をする。
「何にしろ、今は持てているんだからいいだろ。どのみちここはもう終わりだ。精算して来い」
 その人を顎であしらう態度に私はムッとしたが、さすがにそれに対して文句を言うのは
控えた。今の自分は兄に仕える身なのだから、多少の不平不満は押し殺さねば、と今更な
がら自分に言い聞かす。
 自分で買う物をレジまで持って行くのは初めての経験だった。多少緊張するが、瑛子か
ら教えてもらった通りに言えば大丈夫だ。
『こ……これ、お願い出来るかしら?』
『はい。少々お待ちくださいませぇ』
 童顔の可愛らしい店員が、ピッピッピッと機械を操作していく様子を私は興味深げに眺
めていた。
『こちら合計5万6千8百円になります』

『は?』
 金額を言われて私は一瞬、キョトンとした。
『ええとぉ。ですからお支払いの方をお願いしたいんですけどぉ……』
 ちょっと困ったような店員さんの口調は誰かを思い出させて微妙に不愉快だった。もっ
とも今はそんな事は重要ではない。私は瑛子に言われた事を思い出そうと脳みそをフル回
転させた。
『ああ、そうですわね。お支払いは……』
 フッと預かったカード入れの事を思い出す。確かその中には兄のカードが入っていたは
ず。私は慌ててカード入れをスカートのポケットから引っ張り出した。
『ええと……そう。こ、これでお願いしますわ。一回で』
 クレジットカードを手渡すと、店員はようやくホッとしたような笑顔を見せた。瑛子の
話だと、向こうの方が慣れているから大丈夫との事だったが、全然そんな様子はない。帰っ
たらお仕置きをしてやらなければ。
『かしこまりました』
 どうやら無事に済んだようで、私はホッと肩を下ろした。
「おいおい、大丈夫か。そんなんで」
『きゃっ!?』
 気を緩めた瞬間、突然背後から兄の声が聞こえて私はビックリして小さく悲鳴を漏らした。
『ごっ……ご主人様!? 急に後ろから声を掛けないで下さいませ。びっくりするではあ
りませんか』
 キッと睨みつけて文句を言ったが、兄は平然とした顔で答えた。
「ちゃんと会計出来るか心配だったからな。様子を見に来たんだよ」
 兄に信頼されていない事が腹立たしくて、私はムッとした顔で言い返した。
『ご主人様にいちいち心配される必要などありませんわ。わたくし一人でも立派にこなし
てみせたではありませんか。余計なお世話です』
「そうか? 店員さん、まだ何か言いたげだけど」
 兄が私の背後を指して言った。その言葉に、私はレジの方へ向き直る。
『まだ何かありますの?』
 私の剣幕に店員はビクッと怯えたような様子を見せ、恐る恐る聞いてきた。
「あのぅ……裾詰めはいかが致しましょうか?」

『何ですの? 何を詰めるって?』
 言っていることの意味が良く分からず、私は聞き返した。
「えっと、ですから裾詰めですけどぉ……」
 困ったような店員に苛立って、私は声を荒くした。
『だから、どこに何を詰めるのか聞いているのですわ? きちんと答えなさい』
 その途端、後ろで兄が大爆笑するのが聞こえた。
『何がおかしいんですのっ!!』
「いや、だってお前……」
 兄は笑いを押し殺し、腹を抱えた。
「自信満々に立派にこなしたとか言って……裾詰めも知らないなんて……あーやべ、笑い
止まんねーよ」
 兄の様子から私は自分がどうやらとてつもない勘違いをしているのに気付き、真っ赤に
なった。
『だからと言ってそんなに笑う事ないではありませんのっ!! わたしくだって初めての
ことくらいありますわ。多少知識が欠落していたくらいでそのようにバカにした笑いをす
るなど、許しませんわっ!!』
 しかし、兄は私の怒りなどお構い無しに笑い転げた。その場にしゃがみ込み、声を殺し
て笑っている。
「ちょっと待て……収まったら説明するから……ゴホッゴホッ……今は……ちょっと……」
 憤懣致し方ない思いで私は兄を睨みつけたまま見つめていた。同時に兄の前でとんでも
ない間違いを犯してしまったのかと思うと、恥ずかしさのあまりこの場から逃げ出したい
くらいだった。もっとも私の矜持がそれを辛うじて踏み留めていたが。
「あのぅ……お客様?」
 レジの娘が声を掛けてきたので、私は睨み返した。
『ご主人様が待てと仰っているんですから、少しぐらいお待ちなさいっ!!』
「は、はいいいいいっっっっ!!!!」
 泣きそうな顔で、レジの娘が返事をした。
 全く。この間延びした声を聞くと瑛子を思い出して苛立つ。そうだ。私が恥を掻いたの
は、全部あの子のせいだ。お仕置きの量は倍にしなければ。

「ゴホッ……ゴホッ…… あー、笑った笑った。久しぶりに腹の底から笑わせて貰ったぜ」
『人のちょっとした間違いであんなに大笑いをするなんて、ご主人様は鬼畜以外の何者で
もありませんわ』
 どんな非難を浴びせても、上っ面を滑るようにスルーされてしまっている感じだった。
――あああああ……お兄様の目の前で、こんな失態を犯してしまうなんて……いっそこの
まま消えてしまえればどんなにいい事でしょうか……
「間違いってレベルじゃねーぞ。全く…… いいか? 裾詰めってのはズボンの裾を自分
の足にあった長さに切り揃えることだよ。何か物を詰めるわけじゃねーぞ。分かったか」
『そ……そんな事くらい……』
 知ってますわよ、と言い掛けて私は思い止まった。今更何を言ったところで、恥の上塗
りである。
「ま、これも一つ勉強になったって事だよな」
 ポン、と親しげに肩を叩かれ、ハッとしながらも私は毒舌で返すのを忘れなかった。
『え……偉そうに仰らないで下さい。たかがこの程度の事くらいで知識があるなどと勘違
いなされては困りますわ』
「お前が知識無さすぎなだけだ。それに、俺は別に偉そうにしてる訳じゃない。そう見え
るとしたら、お前自身がそれを恥ずかしいと思ってるからじゃないか?」
『う……』
 まさにその通りなので、上手く言い返す言葉が見当たらずに私は呻いた。一つ違うのは、
偉そうなどと言ったのは単に恥ずかしさをごまかす為だけで、本気でそう思っていたわけ
ではないことだけだ。
 兄は店員の方に向き直ると言った。
「新人か? 裾の方は他の店員がサイズから何から全部知ってるから、別府貴志からの依
頼だと伝えておけばいい。分かったな」
「あ…… は、はぁ……」
 釈然としない様子のアルバイト店員にそれだけ言うと、兄は私に向き直った。
「理奈。ボケッとしてないでこれを持て」
 カウンターの上に袋に詰めて置かれた服を指してそう指示すると、自分は何も持たずに
店から外に出ようとした。
『これ……って……全部ですの!?』

 両手で抱えきれないほどの袋の山を見て、私は絶句した。しかし、兄はさも当然といっ
た感じで頷く。
「当たり前だ。別にかさばるだけで重い荷物なんてねーし、お前でも持てるだろう」
『冗談ではありませんわ。あんなの、店員に運ばせれば良いではありませんの。私がいち
いち運ぶ道理がありませんわ』
「お前が普段行ってるような高級ブランドショップとは違うんだよ。グダグダ文句言って
ねーでさっさと指示に従え。置いていくぞ」
『ちょ、ちょっとお待ち下さいませ』
 そう言われ、置いていかれたくない私は慌ててカウンターの上の荷物を取る。店員に手
渡されたそれは、辛うじて両手で持ちきれる分量だった。
『こんなの……女性に持たせる量ではありませんわ。いくら使用人に対してとはいえ、鬼
畜生のやる事ですわよ……』
 だが、兄は私の文句にも一瞥をくれただけで何も言い返そうとはせず、行くぞ、と一言
言い置くと、先に立って歩き出した。
『ちょ、ちょっと待ち……お待ち下さい!! 少しは手伝ってくれたって宜しいではあり
ませんの。聞いておりますの? ちょっと!!』
 よたよたとした足取りで、私は必死で兄の後を追いかけたのだった。


『全くもう……ご主人様は使用人に厳しすぎますわ。男性なのだから、もう少し女性に優
しくして下さっても宜しいのではありませんの?』
 四苦八苦の末、ようやく車に荷物を全部詰め込むと、私は兄の待つ車に乗り込み、文句
を連発した。私が必死で荷物を抱えて運んでいる間に兄がした事といえば、トランクを開
けただけである。
「女性にならいくらでも優しくするがな。メイドにまでいちいち気を使う必要はないだろ。
お前、俺のコトばかり言っているが普段の自分はどうなんだよ」
『少なくとも、美衣にあのような重い荷物持ちをさせた事などありませんわ』

 当然の事とばかりに私は言い切った。実際は、さっき指摘されたように高級ブランドショッ
プや一流百貨店のブティックなど、こちらから言わずとも店員が荷物を運んでくれるから
で、軽い荷物はもちろん美衣が全て持ってくれている。というか、いかに指示されずとも
周りがてきぱきと動いてくれているか、私はあらためて考え直させられた。
「瑛子は何も言わずともあの倍くらいの量は持つけどな。まあ、始終俺に付き合ってるか
らかも知れんけど、少なくともお前のようにぐだぐだ文句は言わないぞ」
 瑛子の名前を出されて私はカチンと来た。いかにもあのダメッ子メイドより私の方が劣っ
ていると言わんばかりの口ぶりだったからだ。
『分かりましたわよ。不平不満を言わず、さっさとやれと、そういう事でしょう?』
「ま、そういうことだ」
 会話が途切れたところで、兄がいきなり車を発進させた。
『きゃあっ!! きゅ、急に車を出さないで貰えませんこと? 驚くじゃありませんの』
「これが俺の運転だからな。また飛ばすからな。掴まりたきゃ、しっかり掴まっておけ」
『だ……誰がご主人様になど……きゃあっ!!』
 強がりはほんの一瞬で、結局私は、またしても兄の腕に顔を埋めざるを得ないのだった。


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