第二話 - 緑茶とはなまる

-1-

その日、ナツメは少し不機嫌だった。



バスに揺られる少女が1人。
濃紺のロングワンピースにエプロンをつけ、旋毛の後ろでひとつのシニョンにまとめた頭にはメイドキャップ。
様式でいえば、初中期のヴィクトリアンメイド。
さらに、彼女の両耳には細長いアンテナのような機械がついている。
そこを見れば、彼女がメイドロボ、あるいはメイドロイドと呼ばれる存在であるとわかる。
もっとも、両耳のパーツは取り外せるし、メイドロボだからといってメイド服を着なければいけないきまりなどない。
その2つのファクターを取り去ってしまえば、彼女はちょっと可愛いふつうの少女になる。
今彼女は、一見無表情に見えるそのまなざしの奥に、ぱっと見では判らない感情をともしていた。
人の感情を察するのに長けた者が彼女の眼を覗いたなら、おそらくこう表現しただろう。

 いらいら。

そう、彼女の眼の奥には、不満の炎がゆらゆら、いや、まさにいらいらと燃えているのだった。
彼女がなぜ不満げに(周りからはとてもそうは見えないのだが)しているかというと、話は1時間ほど前に遡る。



午前中にしなければいけない仕事はすべて片付けた。
朝食の食器は洗ったし、居間の掃除も済んだ。
お洗濯ものは一番最初に始末したし、植物の水やりもできている。
思いがけず効率よく家事をこなしたので、ナツメは自己評価にはなまるをつけた。
和歩の部屋を整理中、小学校のテスト用紙に描かれた奇妙なマークを見つけ、その意味を知って以来、高い自己評価のときははなまるをつけることにしている。
さて、今日はもう夕方まですることがない。
斉藤精肉店のご主人が気分値引きをしてくれるのはいつも夕暮れどきだし、スーパーのタイムセールも同じ時間帯だ。
いつもの野良猫がえさをねだりに遊びにくるのは15時ころ。
ようするに、ヒマなのだ。ナツメにとって暇とは敵と同意義だった。
なにしろ彼女はメイドロボ。
お仕事がないと居心地が悪くて仕方がない。
とはいえ、最近はそうでもなくなってきている。
ご主人サマである和歩の入れ知恵で、暇を潰す、ということを覚えたのだ。
和歩いわく、暇とは最も無駄で最も有益な時間、であるらしい。
自分のしたいことに使える。
あるいは逆に何もしないことで、心に余裕を取り戻す、らしい。
ナツメにはその意味するところがいまいち判らないのだが。
なのでナツメは『自分のしたいこと』ではなく『普段自分がしないこと』にその時間を使うようにした。
今日彼女が思いついたのは、美味しいお茶の入れ方である。
先日ナツメが朝食後の緑茶を入れたときに和歩が言ったことがその発端だった。
『ナツメの入れるお茶って甘いんだな。俺は渋みが強いほうが好きだな』

―別に好みなど聞いてあげる必要はないですけどネ。
―まあ仮にもご主人サマのご希望ですし。

彼は入れ方を変えてくれなどとは言っていないのだが。
ともあれ、ナツメの実験がスタートする。
ネットでの調査によると、渋みの元はカテキンという成分によるものらしい。
カテキンは高温域で茶葉から溶け出し、5〜8分でピークに達する。
甘み成分であるアミノ酸類はカテキンよりも弱く、また上級茶葉であるほど多く含まれるようだ。
今回用意したのは何の変哲もない安物茶葉なので、苦味を出すには最適である。
熱湯でじっくり時間をかけ、カテキンを抽出してやるのだ。
茶葉を10gとり、ガラスポットのネットへ入れ、沸騰したお湯を400ml注ぐ。
視覚をサーモグラフに切り替え、温度分布を見ながら軽くポットを回してやる。
急須でなくガラスポットにしたのは、温度変化を見やすくするためだった。
乾いて縮んでいた茶葉が湯を吸って広がると、それにしたがって無色の湯が綺麗な緑色に変化する。
少しの間かき回してやり、後は対流に任せてじっくりとうまみを出すだけ。

―美味しく入れられたら、ご主人サマは褒めてくれるでしょうか。
―うまいな、とか言ってくれて、あの、大きな手で頭を――。
―前に撫でられたのはいつでしたっけ。確かログが…。
―5月20日19時47分ですネ。
―はぁ。もう1月も撫でてもらっていないのですネ。
―なぜご主人サマに頭を撫でてもらわないと落ち着かないのでしょう。
―髪が乱れるので嫌なのに。
―今日はもしかしたら、撫でてもらえるでしょうか。
―ワタシがお茶をうまくいれられたら――。

妄想は、体内時計のアラームが5分経過を知らせたことで途切れた。
自分は何をしていたのだろう。慌てて周りを見渡すが、当然誰もいない。
ご主人サマに頭を撫でてもらう妄想。
省みて、ナツメはなぜか焼却炉にダイブしたい気分になった。
気を取り直しポットのお茶を用意しておいた3つの茶碗に、3回に分けて注ぐ。
味を均等化させるためだ。
サーモグラフによる温度分布も赤から黄色へと変化し、温度がかなり下がっていることを示している。
まず1杯目。
アンドロイドは火傷の心配がないので、そのまま口に運ぶ。
舌の味覚センサが成分の割合と味わいの両方から分析する。
以前ナツメが入れたお茶よりも数段、渋みが強くなっている。
これがご主人サマの求める味だろうか。
いや、まだ早い。6分、7分、8分の各時間ごとの味を見てみなければ。
ナツメは、静かながらもやる気に燃えていた。


「和歩」
教室へと向かう廊下で、後ろから声を掛けられた。
毎日聞いている、馴染みのある声。
「なんだ」
問い返す間に、相手は自分の横に並ぶ。
横を刈り込み、頭頂も短く切りそろえている頭髪。
その額との境目から旋毛のほうに伸びている稲妻模様の刈り込み。
その攻撃的な頭と合わせるようにかけられた、細い銀フレームの眼鏡と、これまた細い目。
彼は和歩の中学以来の親友。
名を、神野正宗(じんのまさむね)という。
「お前はいつもマイペースだな。神経質そうな顔してるくせに」
古来の名刀の名前を写したかのような切れ長の目をさらに細くして笑う正宗。
「おまえそれ、毎日言う気か?」
対する和歩は呆れ顔である。
出会って以来何度も交わされた朝の挨拶。
「ニュース見たか?」
ところで、もなく次の会話に移るのも、正宗のしゃべり方の特徴だ。
「見てない。あんまり興味ないし」
「ホントにマイペースなやつだな。
ちょっとは関係あるんだ、聞け」
「はいはい…」
「おまえんち、今年になってからメイドロボ、入れたんだろ?」
「あぁ。形式とか判んないけど」
「半年たつのに未だに会わせてくれねーんだもんな。まぁそれはどうでもいい。いや、よくないが」
「どうでもいいよ。続けろ」
「今日のニューストピックスで面白いのがあってナ。ほれ」
正宗の差し出した携帯端末の画面を見る。 
 ―米軍基地でアンドロイド大規模故障―
見出しには青い太文字でそうあった。
「国防総省の発表だと、ワシントン州の米軍基地で、メイドロボが一斉に活動停止したんだそーな」
「それで?」
「止まったのはわりと近所に本社と工場を持つOTL社製のみ。まぁ、あんまり数は出回ってないけど、そこそこ浸透してる機種だな」
「…それがどうかしたんか?」
「おまえというやつは…。いいか?おまえんちで使ってるロボ子がいつこういう事態になるか判らんぞと言ってるんだよ」
「はー」
「はーじゃねぇよ。ついでに言うなら、おまえんとこのロボ子、主脳以外どこ製か判らんらしいじゃねーか」
「まぁそーだ」
「そういう機種がこういう事態になったらどうする?直してくれるトコなんてないぞ」
「大袈裟な…」
食って掛かるかのように力説する正宗。
彼は、頭脳明晰、運動神経抜群でありながら、自他共に認めるメイドロボマニアという変人でもある。
彼はメイドロイドのことを、愛情を以て『ロボ子』と呼ぶ。
なんでも、その筋(関わりたくない筋だ)では常識なのだとか。
「大袈裟じゃない。いいか、修理できないということは、即廃棄を意味する。ロボ子がその使命を果たせずに死ぬ悲しみを考えてみろ」
そう語る正宗は本当に悲しそうだ。メイドロボの何が彼をここまで突き動かすのだろう。
「悲しみ、ねぇ…」
「なんでおまえは判らないかな。自分のロボ子が動かなくなったところ、想像してみろ」
「ふむ」
ナツメが機能停止したところを思い浮かべてみる。
―……ナツメってば、目開けたまま寝てるぞ。
「なんだって?」
「いや、なんでもない。まあ確かにナツメが駄目になったらイヤかな」
「だろう!?」
「声が大きい」
正宗は、普段は冷静な男なのに『ロボ子』のこととなるとこの有様である。
「正宗んちはジンノの社長だろ?ナツメがおかしくなったら修理できないのか?」
彼の父は『ジンノ』グループの系列企業社長だったりする。
ジンノといえば、今ではネジからロケットまでと言われるほどの工業系マンモス企業体である。
「パーツの欠損なら交換すれば済む話だ。でも、AIがイカれたら、初期化するか、最悪、廃棄だ」
「そうか…」
ナツメがそうなったとして、自分はどう思うだろう。
あの口の悪いのが消えてしまうのだろうか。
彼女の口撃には何度も撃沈させられたが、やはりそれがないのは寂しい、と思う。
ナツメが家にきてから半年しか経っていないのに、彼女はとっくに『家族』になっている。
「どうした、和歩」
黙り込んだ和歩を見て、正宗がたずねる。
「うん…やっぱりいなくなるのはイヤ、かな」
「そうだろうとも」
我が意を得たりと、満足げに笑う正宗であった。



-2-

「………あれ?」
スピーカーのチャイムが3限目の終わりを告げ、数学教師の催眠音波攻撃にどうにか耐え抜いた休み時間。
和歩は鞄の中にある物が存在していないことに気づいた。
「どーした、和歩」
突然鞄の中身を机にぶちまけて焦りだした和歩に、正宗が問う。
「いや…アレが…」
「アレじゃ判らん」
「ねーんだ…あっれ…??」
「だから何が」
「…選択国語のレポート…」
「おおう。やべぇなそら」
和歩がとっている選択国語では、月に2回、レポートの発表がある。
週イチの授業のため、レポートがなければ発表ができなくなり、評価が下がる上に出席扱いにならない。
選択科目は5限目。
昼休みを挟んでいるが、家までそう遠くないため、取りに帰ることもできる。
が、そうすると弁当が食べられない。
「残すと後が怖いしな…」
弁当を残して帰ると、ナツメが無言の圧力を掛けてくるのだ。
なまじ無表情のため、そのオーラは得体の知れない恐怖を伴って襲ってくる。
家に取りに帰って、弁当は授業中に隠れて喰うか、放課後に喰うか。
考えるが、鋭い国語教師の目を誤魔化せるとは思えない。
かと言って、食べ盛りの身が5限目を昼食なしで耐え切る自信もない。
「ああああ…どうすりゃいいんだ…」
「お気の毒ー。ははは」
頭を抱えて机に突っ伏す。
ざまみれ、と笑う正宗をにらむが、どうにもならない。
現状下では、
・昼飯を食べて教師に怒られる。
・昼飯を食べずにナツメに怒られる。
の二者択一である。
ぶっちゃけ、教師もナツメもどっちも恐ろしい。
「ん…?ナツメ…」
「?…どした?」
「そうか、その手があった!」
和歩はいきなり立ち上がり、携帯電話を取り出した。

  ―!―Arrival of a message inside―!―
取得中だった情報が、突然の着信に阻まれた。
ネットを使ってニュースサイトを閲覧中だったナツメは、着信が和歩のものであるのを確認して回線をつなぐ。
―ハイ。
『もしもし。ナツメか』
―この番号がワタシ以外の者にかかる可能性があるとは驚きデス。
『あははは…そ、そうだな』
―…なんの御用事ですか。
『…なんか機嫌悪い?』
―そのような事はありません。アンドロイドに機嫌など存在しませんから。
『…まぁいいや。頼みがあるんだ』
―頼みですか。
『うん。俺の部屋の、たぶん机に、レポートがあるはずなんだ。それを持ってきてくれないかな』
―なぜワタシが。
『う…か、鞄に入れるのを忘れたらしいんだ』
―このあいだのお弁当に続いて、今回はレポートですか。
『遺憾ながら…』
―だらしないですネ。
『ご、ごめんな謝意』
―面白くないデス。
『すいません…』
―まぁいいデス。
届けてあげます。
『本当か!いや、ありがとう!」
―何時ごろにそちらに行けばいいですか?
『昼休み中――12時30分くらいに』
―了解デス。


通信終了。
信号が途切れる間際、深い吐息を聞いた。
和歩がため息をついたらしかった。
12時半に学校に到着するためには、今から支度を始めなければ間に合わないだろう。
お茶の2杯目を入れたばかりだというのに。
ポットの中身を麦茶用のプラスチック容器に入れ、冷蔵庫へ。
和歩の部屋に入ると、言っていた通り、机の上にレポート用紙の束があった。
丁寧に折りたたんで、再び階下へ。
馴染みの商店街へ行くわけではないので服を着替えたいところだが、生憎ナツメの服はメイド服しかない。
和歩の母親はかなり小柄な女性のため、ナツメが着ることができないのだ。

―まったく、高校生にもなってメイドに使い走りをさせるなんて。
―ご主人サマは小学生と同レベルデス。
―ワタシの余所行きの服もないし――今度自腹で買ってもらいましょう。
―せっかく実験途中だったお茶も無駄になりました。
―本当に空気の読めない方ですネ。

ナツメの足音は、どこか荒く感じられる。
といっても、彼女は彼女が言ったとおり、機嫌が悪いわけではなかった。
ふと立ち止まり、聞き取れないほどの小声でナツメはつぶやいた。

「帰ってきたら、泣いて謝るまで折檻デス」

ナツメは、滅茶苦茶機嫌が悪かった。



-3-

4限目終了のチャイムとともに、各教室の生徒たちが三々五々、昼食をとるために出ていく。
和歩もその流れに乗って3階から1階へと降りる。
食堂は東棟と西棟をまたぐ1階部分にあり、それぞれの校舎じゅうから生徒が中心部分へと集まってくる。
1階まで降りると、和歩は周りの流れとは別方向、校舎の東端へと歩みを向けた。
時刻は12時34分。
夏、数日前よりも増しているように感じられる紫外線。
昼、ほぼ真上からさす日を受けて、校庭の砂が痛いほどに光を反射する。
雨、梅雨には疾うに入っているはずだが、ここ数日間、天は涙をこぼしていない。
町、都会でなく、山間部に降れば水不足の心配はないのでいいが、こうも暑いのには閉口してしまう。
和歩が向かう先、来賓用の玄関に人影があった。
ほとんど黒に見える濃紺のロングワンピース。
対照的に映えるレースのついた純白のエプロン。そして、頭につけられたシニョンキャップ。
10人中の10人が彼女を見れば『メイドさん』だと思うだろう。
「ナツメ」
短くそう呼びかけた和歩。
呼ばれたメイドさんは、軽く会釈をして返事のかわりとする。
無表情に冴える深い緑の瞳が、薄暗い玄関に差し込む外の光を映す。
「来てくれてありがとう。助かったよ」
「時間の浪費デス」
主人である和歩の礼にも表情をまったく変えず、逆に辛らつな言葉で返すナツメ。
対照的にあははと乾いた笑いでごまかす和歩。
ナツメがメイド服を着ていなければ、主従を見間違える者さえいそうである。
「それで、俺の命綱は」
幾分慌てた様子で和歩が言う。
ナツメは少しも動じることはなく、ゆったりとした動作で肩がけの鞄を下ろす。
中から取り出したのは、何枚かの紙束だった。
「おー、それそれ。よかったー」
安堵の表情でほっと息をついて、和歩はそれを受け取る。
この後の授業で使うレポートの原稿である。
和歩が持って出るのを忘れ、ナツメに届けてもらったのだった。
「今後はこういうことのないように」
「はーい…」
まるで母親か、あるいは上司のように言うナツメ。
対する和歩は、先ほどの安心もどこへやら、すこししょげた表情である。
「では、ワタシはこれにて帰ります」
「あ、待って待って」
ぺこりと会釈でもって場を辞そうとするナツメ。
それを和歩が手振りを付けて制する。
「なにか?」
「いや、ん〜、と」
「はっきり仰ってください。ワタシも暇ではありませんので」
あくまで早く帰ろうとするナツメに、和歩は慌てて口を開く。
「待て待て、その、お昼、一緒に食べないか」
「はい?」
一瞬とまどってしまうナツメ。
それもそのはず、なぜ学校でメイドロボと昼食を食べるのだろう。
「必要性がありませんが」
もっともな意見を平坦な口調で述べるナツメ。
そう言われて、和歩は少し困ってしまう。
「いや、必要性というか…一緒に食べたいからとしか言いようが」
「よう和歩!」
「ぎゃぁっ!!!!」
いきなり両脇腹を指でド突かれ、本当に飛び上がってしまった。
そこは和歩の弱点のひとつである。
慌てて振り向くと、そこには見知った顔が一人。
「昼休みになるなり姿をくらませて、どこへ行ったかと思えば、こんなところで美女と密会か」
「正宗…てめぇ」
恨めしげに睨む和歩を笑ってスルーしたのは、親友の正宗。
切れ長の目をさらに細くして、ナツメを眺める。
「この子がおまえんちのロボ子か」
「ああ…うん」
「ナツメといいます。神野正宗さま?」
「よろしく…っていうか、何で俺のことを?」
初対面で名前を言い当てられた正宗が、驚いた表情をつくって問う。
「ご主人サマの会話に出てくる特徴と一致する点が多かったので」
「なぁるほど。で、ちなみにどんな特徴を?」
「『メイドロイドの話になると目の色が変わる』デス」
「和歩…」
「そのとおりじゃーん」
じろりと和歩を睨む正宗。
そっぽを向いて相手にしない和歩。
「そうだ。ナツメさん、3人でメシ食おうよ」
「ワタシと、ですか?」
「そうそう」
目を爛々と輝かせて、正宗。
無表情ではあるが、少々面食らっているかのようなナツメ。
「…そうですネ。ご主人サマのご学友の方ですし、差し支えないようでしたら、ご一緒させていただきマス」
「やったー♪」
正宗が万歳をして喜ぶ。
「うおいっ!さっき俺が誘ったら必要性がないとか渋りまくったくせに!」
「必要性があるからだろ」
「その通りデス。ご友人の方の誘いを断るわけにはいきません」
「流石ナツメさん。その通りでございます」
「いえいえ。もっと褒めてください」
「お前ら…」
なんだか異様にノリがいい二人を見て、和歩があきれ返る。
「さぁ、そうと決まれば移動だ移動!いつもの場所な!」
嬉々として、スキップを踏みそうな勢いで歩き出す正宗。
「なんなんだいったい…」
そんな彼を見て、ため息をつく和歩。
「お話の通り変…面白い方ですネ」
相変わらず無表情で付き従うナツメ。
とても奇妙な3人組が出来上がった。


抜けるような青空。そよぐ夏風。
いつもの場所、とは、昼食の定番、屋上である。
といっても、この学校は屋上には立ち入り禁止だ。
なのになぜ、彼らがここにいるかといえば。
「いやあ、合鍵ってほんっとうに便利ですね!」
正宗が某福耳の映画評論家の口調と笑顔を真似る。
実は、正宗は頭はいいのに授業態度が問題だらけである。
その授業態度のことで職員室に呼ばれ、1時間にわたって説教を食らったとき。
正宗は腹いせに屋上の鍵をかっぱらい、無断で合鍵を作っていたのだ。
「犯罪ですよ…」
「犯罪デス」
「この俺に説教食らわすほうが大罪だ。人類に対する背徳行為だ」
憤慨した様子で腕を組み、鼻息を荒げる正宗。
「なんでこの方はこんなに偉そうなんでしょう」
「実際凄いやつではあるんだけどね…」
和歩はおろか、ナツメまでが呆れて感想を述べる。
「そんなことよりメシだメシ」
ようやく落ち着いたのか、コンクリートの床面にどっかと腰を下ろす。
和歩も直に床の上、ナツメは和歩の弁当箱を包んでいたランチクロスを敷いて座る。
「「「いただきます」」」
3人が手を合わせて唱和する。
ナツメは食事をする必要がないのだが。
「暑いなぁ…日陰で風があるからいいようなものの」
3人の座る階段塔の脇は、真夏でも長時間日陰になる上、教室からはほとんど見えないという都合のいいポイントである。
「ナツメは暑くない?」
和歩がナツメに気を使う。
彼女の服装は、この暑いのに長袖のロングワンピースである。
「気温が高いのは感じますが、暑いという概念はありませんから大丈夫デス。各機能にも問題なしデス」
返事をするナツメは、まさに涼しい顔、といったところか。
「さすがはアンドロイド、だな」
感心したようにうなずく正宗。
「ナツメさんはどこ製か判らないんだって?」
「主脳と補助脳はジンノ製ですが、それ以外は不明デス」
「骨格も判らないんだよな…あ、和歩、それよこせ」
「あ、てめぇ、俺のきんぴらを…どういうことだ?」
「俺はほぼすべてのロボ子の顔を区別できるんだが、ナツメさんのタイプの顔は見たことがない…うまいな、コレ」
「ナツメのお手製だ。当然。…ええと、つまり」
「頭骸骨までカスタムメイドされてるかもしれない、ということだな。ウマイっす、ナツメさん」
「お粗末さまデス」
「で、それって珍しいことなのか?」
「かなりな。公認の骨格アーティストは世界に数人しかいないし」
アンドロイドの顔の形は、ほとんどがメーカーに設計された骨格によるものだ。
自分の好みの顔を作りたいときは、メーカーが契約している骨格アーティストにオーダーする。
頭蓋の設計は、その複雑さから高精度CADシステムと物体加工設備が必要になる。
当然それだけのものを個人で用意するのは至難の業である。
アーティストは、その設備を利用する代わりにメーカーと専属契約を結ぶのだ。
現在、IAA(国際アンドロイド協会)が認定する骨格アーティストは、世界中で4人しかいない。
その4人ともが、大企業との大きなコネをもつ特殊な人物である。
すべてを個人でやっているアーティストは存在しないのだ。
「和歩。ナツメさんって中古で買ったんだよな?」
「そうだけど」
「判らないんだよなー。オーダーメイドされた素体は中古じゃ出回らないんだ。稼動の保障ができないし、まずユーザーが市場に出さないからだ」
「なんでユーザーが出さないんだ?」
「オーダーメイドにはかなりの金がかかる。それをできるのは相当な金持ちくらいなもんだ」
「らしいなぁ」
「で、そういうヤツほど、ロボ子にかなりの愛着を持ってるもんだから、稼動できなくなった素体は通常廃棄も売却もせずに、埋葬したりドールにしたりするんだ」
「うわ。フェティシズムくせぇ!」
「っつーかフェティシズムそのものじゃないか?」
「…うーん…」
「…うーん…」
「こっち見んな、デス」
二人とも思わずナツメを凝視してしまい、怒られた。
「正宗。お前がマニアックすぎること言うから」
「俺は必要な知識を使っただけだぞ。俺の進路希望知ってるだろ」
「アンドロイドの研究職だっけ?」
「厳密には、アンドロイド心理学とかな」
擬似感情のあるアンドロイドは、自我に近いものを形成する。
それによって起こるストレスなどの研究は、現在始まったばかりである。
そういったものを、人間に近い心理学としてレシーブし、機能や関係の発展を目指そうというのがアンドロイド心理学だ。
正宗は、ジンノの一族という立場、今までに溜め込んだ知識を使う場として、それを目指しているのだった。
「そうだよな…お前はそれがあったもんな」
「どうしたんだいきなり」
「…柄にもなく進路とか考えちゃったよ」
「ほんと、お前の柄じゃねーよ」
「少しぐらいフォローしろよな」
「馬鹿。俺たちはまだ高1だぞ?俺みたいに明確にモクヒョーなんて持ってるほうが珍しいんだ」
「でもなぁ」
「もっと気楽にしろよ。俺たちゃまだまだガキだ」
「そういう台詞って、ガキじゃない人が言うもんだと思うけど」
「俺はまぁ天才だからよ」
にやりと笑う正宗。
それは、多少の冗談も含まれて入るが、自分自身を強烈に信じている。
まさに、自信、というべき笑みだった。
「さって、ごちそーさん」
「ごちそーさま。ナツメ、美味しかった」
「ご主人サマに褒められても嬉しくもなんともありません」
「またそういうこと言う…」
「事実デス」
とことん和歩には冷たいナツメ。
帰り支度をはじめる彼女を呼び止める。
「あ、そうだ、ナツメ」
「なんでしょう」
「この後、用事ある?」
「すぐにではありませんが、あるといえばあります」
「ちょっとさ、放課後まで待っててくれないかな」
「なぜデス?」
「今日は5限までだし、一緒に帰ろうと思って」
「なぜワタシがご主人サマの付き添いなどしなければならないのですか」
「理由は後で話すよ。…駄目かな?」
「それは命令ですか」
問われて、和歩は苦笑する。
正宗もくつくつと笑っている。
「そういう言い方はずるいと思わない?」
「…しょうがないですね。5限目が終わるまでどこかで待機します」
「ありがとう。待ってるなら、図書室がいいと思う。今日は司書の人いない日だし――」
「そうだな。俺もそれがいいと思う」
「まぁそういう訳で、授業が終わるまで図書室で―」
「あの、司書の方がいないのでは、図書室に入れないのでは」
当然の疑問を口にするナツメ。
しかし。
「問題ない。正宗」
「おうよ」
正宗がポケットから小さなケースを取り出す。
パチンと音をたてて開いたそれには、いくつもの鍵が収められていた。
「図書室は…っと、これだな。ほい」
「ありがとう。はい、ナツメ」
「…これは、もしや」
ナツメの視線を受けて、正宗が満面の笑みを見せる。

「いやあ、合鍵ってほんっとうに便利ですね!」



-4-

スピーカーから流れる鐘の音が、5限目の終了を告げる。
HRも右から左へ受け流して正宗にじゃあな、と言ってから和歩は教室を出た。
正宗も今日は別に用事があるらしい。
どうせまたぞろロボ子関連だろうが。
騒がしい廊下を、2階端の図書室へ。
こんなところに図書室があっては、誰も利用しないだろうに。
入学当初にそう予想したとおり、この学校で授業以外に図書室を利用する人間はまずいない。
人気のないのを確認して、引き戸を開ける。
「…ナツメー?」
返答はない。
いないのだろうか。
いや、鍵は開いていたので、それはない。
ではなぜ返事が返ってこないのか。
その疑問はすぐに解消した。
――ナツメは目を閉じ静かに椅子に座っていた。
どうやら、スリープモードで消費電力を抑えているらしい。
安らかな彼女の『寝顔』。
和歩はその表情に惹き込まれた。
きれいだ、と思う。
それが人に設計され、作り出されたものだとしても。
こんな気持ちを感じるようになったのは、いつからだろう。
ナツメが家にきて、まだ半年。
その間に、彼女は和歩にとって大切な『家族』になった。
そしてまた、特別な存在へ。
眠っているナツメの額にてを当ててみる。
それは、朝のまどろみの中で、ナツメが時々和歩にする行動のひとつ。
彼女はそうすることで、何を思うのだろう。
そして自分が思うことは…?
「…ナツメ」
小さく名前を呼んでみる。
胸の中がざわつく感じがした。
恋心に似ている、しかしどこか違うもののような。
そんな頼りない感情が、和歩の中で揺らめき続ける。
無表情で、時々反抗的な。
そんな、憎たらしくて、可愛らしい。
大切な『家族』――。


体内時計のアラームで、ナツメは『目覚め』た。
システムが順々に復帰していく。
GPSが衛星と相互に通信する。
各部の自動チェック。

 ―TIME JPN 2007 0706 Fri 1502pm

「――は」
「おはよう。ナツメ」
自分の顔を覗き込む人影。
補助脳でコントラストを補正。
「―ご主人サマ」
立ち上がり、服を正すナツメ。
「おはよ」
「随分遅かったですネ」
「いや、ナツメが起きるまで待ってた」
「無意味なことを…てっきり居残りさせられたのかと思いました」
「俺はそんな問題児じゃない」
「その割には、中間考査の点数が――」
「待てそれ以上言うな」
言いかけたナツメをあわてて制止する和歩。
「判ればよろしい、デス」
「ていうかなんで知ってるんだ…」
「ワタシに隠し事など無駄デス」
「くそう…」
「ご主人サマは詰めが甘いのデス。先程も、ワタシがアラームを設定していなかったらどうするつもりだったのですか」
「ん〜、さすがに下校時刻になったら起こすつもりでいたけど」
「それにワタシはアンドロイドなのですから、起こさないようにという気遣いは無用デス」
「それはそうなんだけどさ…」
「まだ何か?」
「ナツメの寝顔を見ていたかったからかな」
「…ご主人サマ、寝ているのですか?」
「なぬ?」
「寝言は寝て言え、デス」
さらりと暴言を吐くナツメ。
「本当なのに…」
「本気でしたらますます問題ありデス」
「ちぇ。いーよいーよ。冷たいなぁナツメは。お父さんはそんな娘に育てたつもりはありませんよ?」
「育てられた覚えもご主人サマを父親に持った覚えもありません」
「ドライだなぁ…」
「…ご主人サマは、ご主人サマデス」
「…え…」
わずかに目を細め、囁くようにナツメが言った。
その静かな響きに、和歩は戸惑う。
しかし、瞬きの後見たナツメは、いつもと変わらない彼女だった。
「なんでもありません。早く帰りましょう」
「ん、あ、ああ」
鞄を掴んで席を立つ。
初夏の屋内はすでに蒸し暑く感じる。
空調を入れればよかった、と和歩は思う。
図書室の扉を慎重に開く。
顔だけ出し、周囲に誰もいないことを確認。
「そんなことをしなくても、この階層周囲50mと有視界内には誰も居ませんよ」
「…よく判るな」
「アンドロイドですから」
そういうものなのだろうか。
一応は警戒しつつ、扉の鍵を施錠。
2人は連れ立って昇降口へ歩く。
廊下には教師も生徒もいない。
校庭の方からは部活中らしい生徒の声が聞こえる。
生徒用昇降口で和歩の靴を取って、ナツメの靴がある来客用玄関へ。
「まったく。ご主人サマがワタシを起動してくれないせいで、ずれた予定がさらにずれました」
「そうだったのか?そりゃ悪かった」
「まったくデス」
「ごめんってば。…ちなみに、どんな予定が?」
「……デス」
ぽそりと何かを呟いたナツメ。
聞き取れなかった和歩が聞き返す。
「なんだって?聞こえなかった」
ナツメは少しだけ時間を置いて、なぜだか下を向いて言った。
「猫サンに、ごはんをあげる予定、デス」
「……ぷっ」
その意外すぎる理由に、和歩は思わず吹き出してしまう。
この間の爬虫類といい、今回の猫といい、ナツメは意外と可愛いもの好きなようだ。
「…………」
対して無言で和歩を見るナツメはいかにも、だから言いたくなかった、という雰囲気。
「はははは…いや、悪い」
悪い、と言いながらも、腹を抱え、息を殺して笑う和歩。
「…………」
「いや、可愛いなぁナツメは」
「…馬鹿にされている気分デス」
「してないヨー。褒めてるんだヨー」
「もういいデス」
「あ、待て、待っ…うおわ!!」
僅かに歩調を速め、和歩を置いて歩き出すナツメ。
追いかけようとした和歩は、履きかけだった靴をもう片方の足で踏んづけて盛大にすっ転ぶ。
振り向くことなく歩き続ける後姿を見て、怒らせちゃったかな、と思った。



-5-

先程からナツメは一言も言葉を発していない。
無表情なのは変わらずだが、全身から発する空気は不機嫌そのものである。
からかいすぎた、と和歩は思う。
とはいえ、本心をちょっとふざけて言っただけなのだが。
夏の日差しの下、和歩は自転車を押しながら。
ナツメは後につき従いながら歩く。
この斬りつけるような空気を何とかしようと、和歩は意を決して口を開く。
「――暑いな」
「その暑い中、ワタシに行き先を告げずにどこへ向かうつもりですか」
一言も二言も多いナツメ。
やはり彼女の機嫌は悪いままらしい。
「言わなきゃダメ?」
「ご自由に。行き先が判れば最適ルートを案内することも可能ですが」
「屋外に長くいると日射病になりそうだしな…」
「ご主人サマが日射病で倒れようとワタシは平気デス」
「おい…」
このロボ娘さんは、マスターを病死させる気らしい。
刺々しい言葉の端々に、拗ねているような抑揚が感じられる。
「しょうがないな。ナツメ、後ろに乗って」
ぽんぽんと座席後ろの荷台を叩く。
「ワタシを乗せて走るのですか?」
「そう。あとナビ役な」
「はぁ…では」
ゆったりとした動作で荷台に横乗りするナツメ。
その姿はまるで、良家のお嬢様のよう。
いや、ナツメはメイドなので、良家のロイヤルメイドといったところだろうか。
可憐なその姿。
しかし、体重を自転車に預けた瞬間タイヤがぎゅっと潰れるのが見えて、和歩は嫌な予感がした。
「よし。しっかり掴まってろー」
「ハイ」
ペダルに足をかけ、ぐっと踏み込む。
自転車は軋みながらゆっくりと走り出した。
―お、重い……っ!!
懸命に足に力を入れるが、なかなかスピードが上がらない。
登り坂でもない平坦な道なのだが。
重いのだ。
なにがって、ナツメが。
人工物の塊であるナツメは、当然通常の人間よりも重くできている。
それを駆動側である後ろに乗せ、並の人間が動かそうとすれば、当然相応の苦労が必要になる。
「ふぬぬ…」
動き始めたことにより抵抗が減少して、自転車は徐々にスピードを増す。
しかしその走りは、重荷に喘ぐようだ。
「…歩いているのと変わらないようですが」
「う、うるさい。見てろ…っ。ぬぁぁぁ」
チェーンが悲鳴を上げる。
フレームがみしみしと鳴る。
わずかに下りの勾配に差し掛かり、自転車はなんとか普通といえるスピードに達した。
「はぁ…疲れた」
「情けないですネ」
「しょうがないだろ。ナツメが重いんだか…ら…」
そこまで言い切ってから、和歩ははっとしてナツメを見る。
「…………」
今までよりさらに黒いオーラがナツメから噴出していた。
「あー、その、だな」
「…………」
「別に、重いって言っても、ほれ、俺が非力なだけで」
「ワタシは何も言っていませんが」
「うぐ……その…」
迂闊だった。
アンドロイドとはいえ、ナツメだって女の子(?)だ。
体重を気にしている可能性だってあるではないか。
「……ごめんなさい」
「デスから、ワタシは何も言っていません」
寄る辺もない。
結局、和歩はナツメのナビを受けることもできずに暑い最中を目的地まで自転車で走ることになった。
ナツメと精神的重圧という2つの重荷を載せて。




自宅から程近い場所に位置するショッピングセンター。
十数年前まで小さな丘だった地域がニュータウン化し、その中心的存在として新しくオープンしたものだ。
生活に必要なものはほぼ何でもそろう利便性で、一帯の独立型スーパーマーケットを一掃してしまった。
「つ…疲れた…」
駐輪場で自転車のスタンドを立てて、和歩はがっくりと肩を落とした。
蒸し暑い夏の午後を、重量のあるメイドロボを後ろに乗せ30分も走ってきたのだ。
おまけに、日差しは暑いのに背後から冷や汗が出るほど冷たい無言の圧力を絶えず受け続けたのだった。
「日ごろ運動しない祟りデス」
原因の片割れはそっぽを向いたまま容赦なく口撃を浴びせてくる。
今日は朝からダメだな、と和歩は痛感する。
昼からこっち、ナツメの機嫌は悪くなる一方だ。
これ以上機嫌を損ねては、また晩御飯が冷や飯一杯という事態になりかねない。
それだけはなんとしても阻止せねばならない。
「それで、なぜここへ来たのですか?」
抑揚のない声で、ナツメ。
「今日はナツメの家事を手伝おうかなと思って」
深呼吸をしながら和歩。
「そのくらい、一人でもできるのデス」
「荷物持ちだよ。こき使ってくれて構わないから」
「女性一人自転車に乗せて息を上げている方が役に立つとは思えませんけどネ」
「いや、それは」
「失礼しました。ワタシ、とても重かったのでしたネ」
「許してくれえ…」
「自業自得デス」
「うぅ…」
畳み掛けるようなナツメの悪態に、和歩はもう半泣きである。
すべて自身が招いた事なのだが。
「とはいえ、許してさしあげないことも、ないデス」
ナツメは言葉に区切りをつけながら、ゆっくりとそう言った。
「…?」
「服を買っていただけたら」
「服?」
「ハイ」
「そりゃまた、なんで?あ、いや全然構わないんだけど」
「……余所行きデス」
「…え?」
「今日、学校へ行くとき、メイド服しかなかったので、バスの中でとても目立ったのデス。今もかなり目立っています」
「そういうことか」
「これもご主人サマがワタシにメイド服しか着せないせいデス」
「う…だ、だってナツメはメイドさんだし、メイド服って可愛」
「ご主人サマ」
「はいわかりました買わせていただきます」
「判ればよろしい、デス」
お互いに何とか納得をして、店内へ。
屋内はテナントが立ち並ぶコンコースにも空調が効いており、汗で濡れた体を冷やしていく。
「にしても、ナツメが服を欲しがるとはね」
「ご主人サマが許してほしいと言うから、妥協案を提示したまでですからネ」
「ありがとうございますナツメ様」
「よろしい」
和歩を従えたナツメはちょっぴりご満悦のようだ。
それはまるで、日ごろのストレスを発散しているかのように見える。
「あ、でもさ」
「何デス?」
「男が女の子に服を買ってあげるのってプレゼントだよな?」
「まぁそう言えなくもないでしょう」
「2人で連れ立ってプレゼントを買いにいく…これってデートなんじゃないか?」
「―――何をトチ狂ってますかお馬鹿サマ」
お馬鹿サマって。
「今一瞬戸惑ったな?」
にやにや笑いながらナツメを見る和歩。
「戸惑ってなどいませんデス」
「いいんだぞ隠さなくてもー」
「隠し事などしていません」
ややぶっきらぼうに、目をそらして言うナツメ。
「照れちゃってー。かーわいぐへぁ!!」
言いかけて悶絶する和歩。
ナツメが足を思い切り踏んづけたのだった。
「おおおおぅ…主人に向かってなんて、ことを」
「失礼。重いですからさぞ痛いでしょうネ」
未だに根に持っているらしい。
「無駄口を叩いてないで、行きますよ」
ブーツを踏み鳴らし、歩いていくナツメ。
一見、いつもの無表情にみえる彼女だが。

―相変わらず、ご主人サマはアンドロイドに可愛いなどと。
―変態デス。変態に間違いなしデス。
―ご主人サマがおかしなことを言うから、また機熱が…。
―あぅ、早く排熱しなければブレーカーが作動してしまいます。
―なぜ顔だけ熱くなるのでしょう。
―ご主人サマはワタシをエラーで壊す気なのですネ。
―鬼畜デス。サディストデス。

しかしその鉄面皮は上気してほのかに赤くなり、ナツメは上がった体温を放熱するのに必死だった。



-6-

平日夕方のショッピングセンターは様々な店が軒を並べているだけあり、老若男女、幅広い層の客で混みあっていた。
しかし中でも多いのはやはり主婦層だろうか。
ビニール袋に野菜や生活雑貨を詰め込んだ女性が多数を占めているように見える。
和歩は突然進路を変える客を慌てて避けながら。
ナツメは涼しい顔ですいすいと間を抜けながら。
「ま、待ってナツメ、うわ、っと、すいません」
肩がぶつかってしまった中年女性に謝りながら、必死でナツメを追う。
外で話すべきだった、と思った。
「なんでお前は平気で歩けるんだ…」
「周囲環境と心理学統計に基づいた進路予想デス」
「便利なやつめ…それで、どこへ行くんだ?」
「そうですネ…」
「俺としてはやはりユニ○ロを推したい。安心品質、バリエーション豊か。その上安価」
「却下デス」
「なぜっ!?」
「余所行きなのですから、それなりにしっかりしたものを買わないと意味がありませんから」
「お前、俺の財布とか考えてないだろ…」
「失礼な。ちゃんと考えています」
「だったら少しは譲歩というものを…」
「出せる範囲の最大限でよいものを買わせていただきますから」
「鬼…」
「褒め言葉と受け取っておきますネ」
ナツメの電子辞書に容赦という単語はないようである。
あってもその意味の欄には『生かさず殺さず』とか書いてあるに違いない。
「とりあえず片端から見ていきますので、覚悟しておいてくださいネ」
「マジかよ…」
本当に容赦のないナツメさん。
宣言の通り、最初に目に付いたモールの一角に位置するブティックへと足を向け、和歩はそれに従う。
店内には、季節に合わせた涼しげな衣装たちがハンガーやマネキンに掛けられて客を迎えていた。
ックの間には、真剣な顔つきで獲物を物色している女性が数人。
中には店員と相談しながら決めている人もいるようだ。
「いらっしゃいませぇ〜」
にこやかに愛想笑いを貼り付けた女性店員が、敷居をまたいだ2人を招き入れ。
さすがにいきなりこちらへやってくることはないようだが、その笑顔に和歩はたじろいでしまった。
「あ、のな、ナツメ」
「なんでしょう」
「その…なんというか…」
「はっきり仰ってください」
「恥ずかしいんだが」
「恥ずかしい、ですか」
「うむ」
なんといっても、ここは婦人服店なのだ。
店内に男性は和歩1人。
おまけに、夏服だとはいえ学生服である。
目立つ。
目立つし、浮いている。
昨今の調べでは『女性が服を選ぶときに男性の付き添いが必要か』との質問に対し、半分以上の女性は『必要ない』と答えているようだ。
つまり、学生の身で女性服売り場に乗り込んだ和歩などは、イレギュラー中のイレギュラーである。
「恥ずかしい…」
店員さんがなんだか形容し難い妙な視線で和歩を見ている。
他のお客も大小の差こそあれ、右に倣え。
「なあ、これってなにかの罰ゲーム?」
「ワタシは別にそんなつもりはありませんケド」
「しかしなぁ…」
「…いえ、そうですネ。やはり罰ゲームですネ」
「なんでっ!」
「ご自分の胸に聞いてみてはいかがですか?」
「――じゃ」
「ワタシの胸に抱きついたら焼き払いますからネ」
「焼くの!?」
「する気だったのですか」
「……そんなわけないだろー」
「ガソリンの準備をしますので少々お待ちを」
「やめてくださいごめんなさい」
「…まったく貴方というひとは…」
「すまんって。それでだな…」
「お決まりになりました?」
「うえ?」
突然横から声を掛けられ、驚いて振り向く。
そこには笑顔の女性。
首からさげたIDカードから察するに、どうやら店員さんのようである。
にこにこと営業スマイルを惜しまないその姿勢に、思わずどきりとした。
「今日はどのようなものを探しにいらしたんですか?」
「あー、その、コイツの服を、探しに」
「ご主人サマ、それは当たり前デス」
「う、そうだった」
服屋に晩飯のおかずを買いにくるわけはない。
「あら、メイドロボさんなんですね」
「えーと、今こいつの服がメイド服しかないので、外で着られるものを…つっても、俺にはちょっと…えーと」
「じゃぁちょっと私が選びましょうか。少々お待ちくださいね」
「なあ、これってなにかの罰ゲーム?」
「ワタシは別にそんなつもりはありませんケド」
「しかしなぁ…」
「…いえ、そうですネ。やはり罰ゲームですネ」
「なんでっ!」
「ご自分の胸に聞いてみてはいかがですか?」
「――じゃ」
「ワタシの胸に抱きついたら焼き払いますからネ」
「焼くの!?」
「する気だったのですか」
「……そんなわけないだろー」
「ガソリンの準備をしますので少々お待ちを」
「やめてくださいごめんなさい」
「…まったく貴方というひとは…」
「すまんって。それでだな…」
「お決まりになりました?」
「うえ?」
突然横から声を掛けられ、驚いて振り向く。
そこには笑顔の女性。
首からさげたIDカードから察するに、どうやら店員さんのようである。
にこにこと営業スマイルを惜しまないその姿勢に、思わずどきりとした。
「今日はどのようなものを探しにいらしたんですか?」
「あー、その、コイツの服を、探しに」
「ご主人サマ、それは当たり前デス」
「う、そうだった」
服屋に晩飯のおかずを買いにくるわけはない。
「あら、メイドロボさんなんですね」
「えーと、今こいつの服がこの類しかないので、外で着られるものを…つっても、俺にはちょっと…えーと」
「じゃぁちょっと私が選びましょうか。少々お待ちくださいね」
にこやかに会釈して、店員のお姉さんは離れていった。
和歩はもう冷や汗ものである。

―言っててすげー恥ずかしいぞ。
―やっぱり両親がいるときに余所行きの服を買っておくべきだった。
―婦人服売り場に入るのがこれほど気まずいとは。
―たしかにこれは罰ゲームにふさわしい。
―ナツメ…恐ろしい子…!
―そもそも、ナツメに似合う服ねえ。
―夏だから肌の露出も少し多めに…。
―肩出しとかいいなあ。鎖骨鎖骨。
―あるいはロングのワンピースにカーディガンとか。
―待て待て。今ナツメはロングブーツなんだよな。合うのか?
―靴まで買ってやる余裕はないから、靴に合うやつを見つけないと。
―ここは思い切ってデニムのミニ?
―うわ。想像でもかなりイイぞ。
―ミニスカナツメ見たい。激見たい。
―うーん、でも俺ってどちらかというと地味目な方が好きなんだよな。
―シックなデザインというか…。
―色も白黒のが好きだし。
―つまり何が言いたいかというと、メイド服最こ――。

「やっぱり綺麗なロングヘアですから、シンプルなワンピースとかで清純派!なんてどうです?」
「え?」
「ご主人サマ…」
「え、な、なに?」
考えを巡らせているうちに周囲では状況が進展していたらしい。
いつの間にかお姉さんが戻ってきていて、あれこれ服を持って和歩の方へ身を乗り出している。
「………………」
ナツメはなんだかおっかない眼力でこっちを見ているし。
「…これはどういう状況でせう?」
「聞いてなかったんですか?ほら、ほら、これなんてどうでしょう」
「いや、俺じゃなくてナツメに聞いてくださいよ」
「………………」
和歩からナツメに着せた様子が見えるように、服を掲げながらぎゅうぎゅうと和歩に体を寄せてくるお姉さん。
襟元から見事な谷間が見えて、和歩は思わず眼を逸らす。
逸らした視線の先には、無言で立つナツメの姿があった。
「あのね、ナツメ」
「…ここにはよいものがないようデス」
「あ、おい」
ふいと踵を返し、和歩を置いて歩きだすナツメ。
床に置いた荷物を引っ掴んで、慌てて和歩が後を追いかける。
取り残された店員が、事態を把握できずに呆然と2人を見送った。
「待てよナツメ。どうしたんだよ」
ごった返す人の間を縫って、ようやくナツメに追いついた。
彼女は早足で人波を縫ってずんずんと進む。。
和歩がどうにか横に並んでも、彼を見ようとはしない。
「ナツメってば」
「言ったとおりデス。あの店にはよさそうなものがなかったのデス」
「だからって急に」
「ご主人サマも店員の色仕掛けにしっかりハマっていたようですしネ」
「え?」
ナツメの口から思いもよらない言葉が飛び出て、和歩は戸惑う。
立ち止まり、和歩のほうへ向き直るナツメ。
半月形の瞳は冷えきっていた。
「だらしなくニヤけて、何を考えていたのですか」
「それは、えーと…」
頭の中でナツメの服を着せ替えて妄想していた、とは言えない。
しかしその間はナツメにさらに誤解を与えることになってしまった。
「言えないようなことを考えていたのですネ」
「違う」
「ワタシの服のことなどどうでもいいのでしょう」
「違う」
「何が違うのですか。ワタシの言葉も上の空でした」
次から次へと嫌味を投げかけるナツメ。
和歩の頭が段々と熱く、そしてぐちゃぐちゃになっていく。
「違う」
「嘘デス。ぼうっとして話を聞いていなかったのがいい証拠デス。」
「違うって!」
「―――」
思わず出た怒鳴り声は予想以上に大きかった。
ナツメも珍しく目を見開いて硬直している。
人通りの真ん中で怒鳴った和歩に、周囲の視線が集中する。
「…ぁ………ごめん…」
「いえ…ワタシこそ」
衆目から逃れるように、ナツメの手を引いて歩き出した。
ナツメも大人しくそれに従う。
否定したかった。
怒鳴らずにはいられなかった。
誤解だから。
そんな風に思われたくないから。
謝るか、何か別のものに話題を向けるか。
どうにかしなければならないのに、どうすればいいのか判らない。
だから。
ありのままを伝えることにした。
「……ナツメのこと、考えてた」
「―――は」
「え、あ、ちがう」
まるで口説き文句のような自身の言葉を慌てて否定する。
「その、何が似合うかなって…」
言ってから、大した変わりがない、と思う。
「――そうですか」
「うん…」
ナツメは、今度は文句を言わなかった。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
お互いに何も言わない。
和歩の言い訳は、目的地もないまま宙に消えた。
ふたりも何処へ向かうのかすら判らないまま歩く。
ぶつかりそうになる人を避けることで気まずさをごまかすように。
ただただ、人ダマに流される。
そのまま2人はモールの端、中央通路の終りまでたどり着いた。
ガラス大戸の脇、人の流れから外れた場所で向き合う。
「…ごめんな」
「いえ…」
何に対してでもなく、謝る。
「今日はもう帰るか?埋め合わせは今度するから…」
「ご主人サマ」
「え」
「行きましょう、買い物」
「…でも」
「ワタシは構いません。こういう時でなければ、買いにくる機会などないでしょう」
「いいんだな?」
「それに――」
「??」
「――女性をデートに誘ったのですから最後までエスコートしていただかなくては、困り、マス」
「そ、それは」
和歩自身でも忘れていた言葉。
それをナツメに言われるとは思ってもみなかった。
ちょっとたどたどしく言ったナツメは僅かにうつむいている。
照明で翳るその頬は、ほんの僅か、朱がさして見えた。
「デート、なのでしょう?」
「う……」
再びナツメが言う。
今度はまっすぐに和歩を見つめて。
その深緑の瞳から、和歩は眼を逸らせない。
顔が熱い。
耳の奥がごうごうと鳴っている。
心臓が早鐘のように脈打つ。
返す言葉が見つからない。
「ナ…ナツメは…デートでいいのか」
口をついて出たのはそんな馬鹿げたこと。
自分でも何を言っているのかと思う。
その言葉を受けて、和歩の手がナツメの手――和歩に握られただけの小さな手――に、きゅ、と弱い力で握り返された。
自分から眼を逸らし、また僅かにうつむく彼女。
少しの間の後、もう一度顔を上げ、ナツメは言った。
「ご主人サマがお嫌でなければ――」
「ナツメ…」
「お嫌でなければ――お付き合いいたします」
表情が変わらなくても、やわらかくて優しい声が彼女の心を映している。
和歩はその見えない優しさに嬉しくなった。
だから、一息おいてナツメに笑ってやる。
「…わかった。デートの続き、しよう」
「…ハイ」
ナツメは目を閉じ、かみしめるような仕草を見せる。
きっと彼女も同じ気持ちで――そうあってほしいと思いながら。
確認するように手を握りなおし、二人はもと来た方向へ歩き出す。
会話は再び途切れてしまったが、和歩はもう気まずさは感じなかった。



-7-

「う、わ」
仕切りなおしに入った別の店で彼が選んだ服。
それを試着したナツメを見た瞬間、思わず馬鹿みたいな声を出してしまっていた。
彼女が着ているのは、肩の部分を大きくカットした通気性のよい長袖のシャツ、それにセンターにスリットを入れたロングのスカート。
ナツメ愛用のブーツにもしっかりマッチする、和歩入魂のセレクトであった。
「なんですかその呆けた顔は」
「いや、そりゃおまえ」
和歩のアホ面を見て、不機嫌そうに言うナツメ。
「どうせ似合ってませんデス」
ちょっと拗ねている彼女に、和歩は慌てて否定する。
「ち、ちがう。似合いすぎで」
「――」
「その、よく似合ってる。かわいい」
月並みだが、脳で抽出できる最大限のほめ言葉だった。
最大限でその程度なのは、和歩の女性経験のなさがなせる業だろうか。
「――聞き取れませんでした。もう一度言ってください」
「…似合ってるよ」
そんなはずはないのに、アンコールを求めるナツメ。
すこし顔を火照らせながら、和歩が復唱する。
「――もう一度」
「似合ってる…」
「もう一」
「だぁぁぁっ!!こんな恥ずかしいセリフを何度も言わすんじゃない!!」
何度も言い直しを要求するナツメに、さすがに恥ずかしさが爆発してしまう。
なんでこういう嫌がらせが好きなのか。
止められたナツメは、まだどこか不機嫌そう。
「そこじゃないデス」
「あ?」
「いえ、なんでもありません」
「時々卑怯だなおまえ」
「ありがとうございます」
「褒めてない。褒めてないから。…で、これでいいのか?」
「ご主人サマにしてはいいセンスだと思います」
「余計なお世話だ。じゃあそれにするか」
「では脱いできますネ」
「着たままじゃ駄目なのか?」
「さすがにそれは失礼ではないかと」
「そうか。じゃあ待ってるよ」
「…覗かないでくださいネ」
「何を期待してるんだお前は」
「期待ではありません。警戒デス」
「おい…」
言うだけ言って、ちゃっと試着室のカーテンを閉めるナツメ。
そんなことを言われたら、不必要に意識してしまう和歩である。
「くそう…からかいやがって…」
試着室の中からは、衣擦れの音。
ナツメが服を着替えているのだ。
と、そう思った瞬間、和歩の頭の中にナツメの着替えシーンが展開される。
彼女の裸を見たことはないので、プロポーションは想像だ(胸が控えめなことは知っているが)。
自分が選んだ服を丁寧に脱いでいって、見慣れたメイド服に――。
最後に乱れた髪をまとめなおす、そのときにちらりと見えるであろううなじが――。
「ご主人サマ?」
「ふおおお!!??」
いきなりナツメに呼ばれ、飛び上がる和歩。
いつの間にか、着替えタイムは終了していたらしい。
「…何をなさっていたのですか」
「お、俺はそんなこと考えてない!」
「そんなこと?」
「はっ!しまったつい!!…やるなナツメ」
「勝手に自爆したのでしょう。何を考えていたのか知りませんが、本当にご主人サマはむっつりですネ」
「うぐ…ええい、買ってくるからさっさとよこせ」
返す言葉がないので、とりあえずナツメから服をひったくる。
冷静に渡したナツメは、ふと思い出したように口を開いた。
「ご主人サマ、財布はお持ちですか?」
「もちろんだ」
「お金はお持ちですか?」
「もちろ…ごめんちょっと待って」
ポケットの財布を引っ張り出し、恐る恐る開く。
「…………………」
「…………………」
「…………………」
「…………えーと」
「…………………」
「…ごめんなさい」
「―本当に計画性のない人ですネ。今回はワタシのAACで払います」
「う…すまん」
AACとは、ネットワークに登録されたアンドロイドの固有コードを利用し、そのアンドロイドの所有者の口座から自動で代金を支払うことができるシステムである。
アンドロイド自体にキャッシュカードと同じ機能を持たせるというわけだ。
この機能の登場により、仕事で買い物に行けない人が昼間アンドロイドに安全に買い物をさせることが可能になった。
「大体、買い物にこようと誘ったのはご主人サマなのに、どうして本人がお金を忘れるのですか」
「いつもほとんど買い物しないから最後に下ろしたときのままだと思い込んで…」
「もっと金銭に関する意識を改めてください」
「ハイ…」
だめだ、と和歩は思った。
今日はもう何をやっても失敗ばかり。
ナツメを不機嫌にさせて、挽回しようとすればまた失敗。
ここまでうまくいかなかったことは今までも類を見ない。
「こちら2点で12,000円になります。お支払いは現金ですか?」
「AACでお願いします」
「かしこまりました」
ナツメが店員のハンドスキャナを首筋に当てる。
脊髄に内蔵された情報トランサが相互通信を行い、ネットワークから情報を探す。
照合された固体情報の所有口座から仮想振込みを行い、支払いは完了した。
「ありがとうございました〜またお越しくださいませ〜」
店員のマニュアルどおりのセリフに見送られて、2人は店を出た。
「はぁ…」
店内のエアコンから開放されてした深呼吸は、ほとんどため息のよう。
「どうしました、ため息などついて」
「やっぱりそう思う?」
「?」
ナツメにも、ため息にしか聞こえなかったらしい。
「いや…なんか今日は朝から晩までダメダメだなと思って…」
「ご主人サマ」
「今はそんなこと考えてたわけじゃなくて、ただ深呼吸しようと思ったんだけど…はは、やっぱりため息みたいだったな」
「あの」
「なんかさ、ナツメに迷惑かけてばっかりだなと思って。今日だって、ナツメの手伝いにきた筈なのに、さ」
「………」
「自分がちょっと情けなくて……っと、こんなこと言ってたんじゃ、またナツメに怒られちゃうな」
「………」
「おっと、冗談だからそれで怒るなよー…って、どうした?」
「いえ…確かにダメダメでしたネ。はなまるはあげられません」
「ん…だよな…」
「………」
「………」
「………」
「………」
再び訪れる沈黙。
こういうときに気の利いた言葉すらも出てこない自分は、やはり情けないと思う。
「誠意は―――」
「え?」
唐突に、ナツメがつぶやいた。
「ご主人サマの誠意は――伝わりました」
「ナツメ?」
「どうにかしようと懸命になっていたのは判りました。だから――」
「だから?」
「特別に、今日はにじゅうまるをあげマス」
「…ぷっ…っはははは」
「…何を笑っているのですか」
「…いや、っはは、ありがとう、ナツメ」
「…ふん」
「ちょっとトイレ行ってくる。待ってて」
「では、先に帰らせていただきます」
「おい」
「冗談です。ごゆっくりどうぞ」
「なんかイヤだなその言い方…」
腑に落ちない表情で和歩はトイレへ向かう。
人ごみを掻き分け、衝突しそうになりながら。
ナツメの言葉は和歩の心に染み入った。
誠意。
ナツメはそれを感じ取り、温情をかけてくれた。
それがなんだかうれしくて。
『特別』に『にじゅうまる』をくれた彼女は、とても優しく感じられた。
「あ、君――」
「え?」
突然の声と肩を掴まれることで呼び止められた。
驚いて振り向いた和歩の前には、一人の女性が立っていた。



-8-

ナツメは賑わうモールの通路で荷物とともに取り残されていた。
ついて行ってトイレ前で待っていたほうがよかったかも、と気づいたが、少し遅かったようだ。
すでに和歩の姿は人ごみにまぎれて、肉眼では確認できない。
今から追いかけて、出口で待つか。
あるいはついでに燃料電池の排水をしておくべきか。
そう考えもしたが、ナツメはそのまま待つことにする。
ちょうどすぐそばに休憩用のベンチがあった。
白塗りの座面に、荷物を脇に置いて座る。
そのベンチは木製で、腰を下ろすとき、きし、とかすかに音を立てた。
かなりの年代もののようで、新しいショッピングセンターの建物とはずいぶん様相を異にしている。
しかし手入れはきちんとされているらしく、使い込まれた故の落ち着いた感じが、騒がしいモールに安息の場を提供するという役割をしっかり果たしているようにも思える。
右端の手すり、その優雅な曲線の上に、金メッキのプレートが螺子止めされていた。
『八楢(やつなら)丘陵公園 一九七九』と彫刻がなされている。
Sネットで検索すると、このショッピングセンターがまだただの丘だったころ、ここにあった公園がその名前だった。
この施設ができることで廃園になった公園だ。
置かれていた遊具などは、廃棄されるか、別の公園に移動したのだろう。
しかしベンチだけは、捨てられることなく同じ場所で役目を全うしているのだ。
その事実にナツメは奇妙な感慨を覚える。
自分もこのベンチも、形は違えど道具という分類上は大差はない。
30年近くも使われているベンチと、出自不明の家事用ロボット。
このあまりにも違って見えるもの同士が、人に使われるため、というくくりでは同じであること。
そして――――。
――30年後、自分は人に使われているだろうか。
――もしそのときまで現役でいられたら。
そのとき、となりで自分に微笑んでくれるのは――。
「――ナツメ?」
「――ご主人サマ」
声をかけられ、見上げたさきにあったのは、和歩の顔。
気づけば、ベンチに座ってからすでに30分以上が過ぎている。
それほど長く思考していた記憶はないのに。
「どうしたんだ?なんていうか…心ここにあらずというか…」
「ご主人サマに言われたくありませんネ。トイレに30分も費やすなんて、何をしてらしたのですか」
「あー、それは、だな」
「痔ですか」
「ちがう!なんてことを言うんだ!」
「では便秘ですネ」
「断定するな!…ちょっとそこらを見てたんだよ」
「ワタシに一言告げてからしてくれませんか。ずっとここで座り続けて…はっ、もしやワタシを痔にさせるつもりですネ。ご主人サマの変態」
「あのな…俺をなんだと…っていうか女の子がケツの話ばっかりするんじゃありません!」
「…けち」
「なぜそうなる。…まあいいや。あんまりよくないけど」
「わがままさんですネ」
「お前が言うな。ほら、次行くぞ」
そういって和歩は手を差し出す。
「どうも」
その手をとり、ナツメが腰を上げる。
ベンチがもう一度きし、と鳴いて、ナツメに別れを告げた。
「…そういうつもりじゃなかったんだけどな」
「何がデス?」
「なんでもない」
「隠し事はよくありませんネ」
「…手を差し出したこと…別に、荷物を持ってやろうと思っただけだよ」
「あら、ご主人サマにもそういう気遣いがあったんですネ」
「馬鹿にすんなよー。俺だってな」
「でも」
「うえ?」
「女性に対しては荷物を無言で取って、それから手を差し出すべきですネ」
「う……」
「まだまだ青いですネ、ご主人サマ」
「……もうだめかもしれない」
「もう十分落ち込んだでしょう。帰りますよ」
「え、食材とかの買い物は?」
「今家にある分で1週間は生活できます。お肉を買っておきたいところですが、斉藤さんのお店は逆方向ですし」
「…そうだったの?」
「ハイ」
「ああぁ…俺はいったいなにをしているんだ…」
「買い物を手伝うと学校で仰らなかったご主人サマが悪いのデス」
「判ってる…判ってるよ。けど…ああああああ…」
頭を抱えて悶絶する和歩。
「無駄にはならなかったので、問題はありません」
洋服の入ったビニール袋を見せて、ナツメ。
「…そうかなぁ…」
「そういうことにしておかないとますます自分が惨めになりますよ」
「う…そうかも」
「もとから惨めですけどネ」
「どうしてお前はそう傷を抉るんだ…」
「趣味デス」
「…さらっと怖いこと言わないで」
無表情で言うものだから、どこまで本気かまったく判らない。
全部本気だったらどうしよう、と考えたら背筋が寒くなった。
「そういえば」
「え?」
「そうですネ、洗剤とティッシュが切れていたのでした。忘れていました」
「そうだったのか?」
「ハイ。うっかりしていて申し訳ありません。ちょうど生活雑貨店がありますから、寄ってもいいですか」
「それならそうしようか」
「無駄にならなくてよかったですネ」
「うん」
目の前にあった店に入りながら返事をしたものの、和歩は素直に受け止められない。
ナツメが用事を忘れることなどないからだ。
つまり、ナツメは今用事を作ったのだ。
この買い物をできる限り無駄にしないために。
それはどう考えても、和歩に向けた気遣いだ。
棚からボックスティッシュのセットを下ろすナツメを見て、心から申し訳なく思う。
そして、感謝も。
「…ありがとう」
「なにか仰いました?」
「いや、なにも」
「そうですか」
ナツメにも聞きわけられないほど小さな声で言った謝辞。
それが、五感ではないところに届けばいいな、と和歩は思った。
「では支払いをしてきますネ」
「そっちはちゃんと家計から払ってくれよ?」
「さあ、どうしましょうか」
「…頼むよ」
相変わらず冗談だか本気だかを判別できない言葉を残して、ナツメはレジへと向かう。
混雑する店内で邪魔にならないよう、和歩は外へ出、少し離れた場所で彼女を待つ。
支払いを終えたナツメはきょろきょろと店内を見まわしている。
和歩の姿を探しているらしかった。
「ナツメ」
聞こえるはずもないと思いながら、傍にいる人間に語りかけるくらいの声量で彼女の名前を呼んでみる。
瞬間、ナツメがまっすぐこちらを向いたのが見えた。
買い物袋を提げて、そのまま和歩の方へぱたぱたと駆け寄ってくるナツメ。
「お待たせしました。外へ避難するのでしたら言ってくださいネ」
「ん、悪かった…」
「…どうかなさいました?」
ナツメが怪訝という文字を目に浮かべて和歩を見上げる。
「…聞こえてた?」
「ハイ?」
「…いや、聞こえてなかったならいい」
「…変なご主人サマ。いつものことですけど」
相変わらず一言多い。
しかし――。
もし和歩が名前を呼んだのが聞こえていたとしたら。
その前のありがとう、も聞こえていたのでは…。
そう考えるが、ナツメは否定したし、和歩を見つけたのも偶然タイミングが合ったからかもしれない。
届いていたのかな、そうだったらいいな。
ナツメの荷物を半分持ってモールを歩きながら、和歩はそんなことを思う。
駐輪場まではお互い無言だった。
さっきは繋いでいた手も、今頃なんだか気恥ずかしくなって荷物を持つ役目に終始した。
駐輪場はすでに夕焼けに赤く染まっていた。
他人の自転車に埋もれる愛車をどうにか引っ張り出し、荷物を前カゴに入れる。
来た時と同じようにナツメを後部の荷台に乗せようとして…。
そこで和歩ははたと気づいた。
「えーと…」
「………ご主人サマ」
ナツメはとっくに気づいていたらしい。
「あー、なんだ、さすがにナツメと荷物と両方は無理かなー、なんて…あはははは」
要するに、過荷重、である。
いや、大した重さではないだろうが、結構ふくらんだ荷物とナツメを乗せて自転車に乗るのは危険すぎた。
ナツメが抑揚のない声でポツリと言った。
「今度は自転車を買っていただかなくてはなりませんネ」
「…あははははは……………はぁ…」
和歩の吐息は、今度は正真正銘のため息だった。



-9-

「ただいまーっと」
「ただいま帰りました」
家には2人以外だれもいない。
そういう時でも帰宅の挨拶をするのは、樋口家の昔からの慣習だ。
「あ〜〜〜〜〜疲れた〜〜〜」
荷物を置くのも早々に、リビングのソファに身を投げ出す。
「汗でソファが汚れますから着替えてからにしてください」
こんなときでもナツメは管理を徹底している。
「もうちょっと労わってくれよ…」
「家財のほうが大事です」
「ひどい…」
「本当なら即座にシャワーを浴びてほしいくらいデス」
「わかったよう…」
よろよろと起き上がり、のそのそとリビング入り口の脇にかけてあるハンガーへと歩く和歩。
後姿を見届けてから、ナツメは冷蔵庫へと向かう。
―今日はいろいろありましたし、ご主人サマもお疲れでしょうから。
冷たい飲み物を用意してあげようという、ナツメの気遣いである。
ドアを開け、そこにある『あるもの』を認識したとたん、ナツメのそれは霧散した。
思えば、何日か前に同じようなことがあった。
そう、この物体によって、ナツメにケチがつき始めた。
予定を狂わされ、いらぬ出費をしてしまったのだ。
『それ』を静かに取り出したナツメの目にともる炎。
それは。
「―復讐デス」
彼女の瞳には、再びイライラの火が燃え盛っていた。
「ナツメー、着替えたから、なんか飲み物でも…」
「ハイ、用意してあります」
「おう、気が利くな」
「メイドとして当然デス」
「?」
和歩はナツメの言葉に違和感を覚える。
「なんかあったのか?」
「いいえ。さ、どうぞ」
「…まあいいか…お?これは?」
「緑茶デス。ご主人サマに呼ばれたので、昼間作ったものを冷蔵庫で冷やす羽目になったのですが」
「…なんか刺々しいな」
「気のせいデス」
「…?…とりあえず、いただきます」
怪訝な表情を見せた後『よく冷えた』お茶をすする和歩。
その様子をじっと見るナツメ。
―時間がたった上しっかり冷えたお茶はさぞかしマズいことでしょう。
―さぁ、ワタシの時間を奪った罪をその下で味わうがいいのデス。
「…おいしい」
「――え」
「おいしいなこれ。よく冷えてるし、なんか渋みが強くてすげーウマい」
「―――」
「今度から麦茶の変わりにこれ入れてくれないか、って、ナツメ?」
無言で固まってしまったナツメを、和歩がいぶかしんで覗き込む。
「―いえ、なんでも、ない、デス」
予想外の和歩の反応に、ナツメは完全に虚を突かれていた。
そして思う。
―ワタシのしたことも、無駄にはならなかったのですネ。
―偶然とはいえ、ご主人サマに喜んでいただけて――。
―これで、今日の自己評価もにじゅうまるがつけられます。
「今日はありがとな、ナツメ」
「本分を勤め上げただけデス」
「それが一番偉いんだって」
「そうでしょうか」
「ああ。お茶、おいしかったよ」
言って和歩は手をナツメの頭に載せ、髪のラインに沿って優しく撫でた。
「―――!―――」
それだけで、予定が狂ったことなど、どうでもよくなってしまった。
和歩の大きな手の温かみが彼女を包む。
体の内へと染み入ったそれは、すべてを洗い流すようにナツメの脳に微弱な電気信号を伝える。
「ご主人サマ…」
「ん」
口からもれ出た言葉に、優しい微笑みが返ってくる。
ナツメは目を細めて、体中でそれを受けた。
そのかすかに痺れるような感覚が、ナツメにとって最大級の『はなまる』だった。



-10-

夜、日付も変わろうかという頃。
リビングのテーブルの上にあった和歩の携帯が突如として震えだした。
天板との短い衝突によってぶんぶんと唸りをあげ、次第に端の方へと進んでいく。
冷蔵庫で牛乳をラッパ飲みしていた和歩が慌てて駆け寄る前に、携帯は机から落ちた。
拾い上げ、サブディスプレイに表示された名前を確認してから通話ボタンを押す。
「あーい、もしもしー」
『―――』
「は?何を言ってるんだ?」
『―――』
「いや、もとから明日は…なに?」
『―――』
「いや、それはお前が」
『―――』
「…ほんとうか?」
『―――』
「…うーん…確かに…」
『―――』
「…わかったよ。行く。……ああ、そっちもだ!じゃーな」
ため息をつきながら、終了ボタンを押す和歩。
何も言わず、思案している。
ナツメもまだ何も言われていないので何も言わない。
額にぐりぐり指を当てて考えた後、和歩はようやくナツメの方へ体を向けた。
「ナツメ、明日出かけるから、覚えておいてくれよ」
「…唐突ですネ。何時頃に出発なさるのですか?」
「昼ごろかな…。昼食は作らなくていいから」
「判りました。行き先はどちらへ」
「正宗んち。明日は七夕で休日だろ。お呼ばれしてんだ」
「せいぜい楽しんでくるがいいデス」
「なんで悪役っぽいんだ…てぇかお前も来るの」
「ワタシもですか?」
「正宗のたっての希望だ」
「…あまりよいものを感じないのですが」
「そう言うな。ナツメのことを診てくれるそうだ」
「見るのですか。ますます怪しいですネ」
「ちがう。診るんだよ。メンテみたいなものだ」
「文章は便利ですネ」
「なに?」
「なんでもないデス。それで、なぜ急に。予定は前々から言っていただかないと困るのですが」
「いや、さっき電話でいきなり七夕の夕食会をやるから来い、と命令されて…でついでにナツメも連れて来い、したらメンテとかしてやるから、と」
わずかに目を細くして、完全な半月形になった瞳で和歩を注視する。
「…建前では?」
「……そうかも」
ようするに、正宗がナツメをじっくり見たい(診たい?)だけかもしれないのだ。
「…お断りの電話を…」
「待て待て!これはいい機会なんだ、お前も来てくれ!」
主脳で電話回線を繋ごうとするナツメを、慌てて押しとどめる和歩。
ナツメは明らかに渋り気味である。
「気が進みません」
「判るけど…いいか、今ナツメが正式なメンテを、しかも無料で受けさせてくれるところはないんだ」
「…………」
第三社パーツを組み合わせて作られたナツメは、大メーカーの保証による無料メンテナンスを受けることができない。
中小のワークスに依頼すると、重メンテの場合は相当な額が必要になるのだ。
「俺はナツメに病気になってほしくないから。頼む」
手を合わせて頭を下げる和歩に、ナツメも折れた。
「……判りました。ご主人サマがそう仰るなら」
「ありがとう」
「正宗様が変なことをするようでしたら、無許可で抹殺します」
横目で和歩をにらむナツメの眼に、不穏な光が煌めく。
「…それ、ロボット三原則に背いてない?」
「自身は規範より優先されるのデス」
平然と倫理規定を破るメイドロボさん。
「………」
「なにか」
「いや…うん、いいんじゃないか…」
「?」
「今日はもう寝るよ。明日11時になっても起きてこなかったら起こしてくれ」
「了解デス。おやすみなさいマセ」
「おやすみ〜」
置き土産に欠伸をひとつ打って照明を消してから、和歩はリビングを後にした。
残されたナツメは夕食で使った食器の最後を棚にしまって、キッチンのライトを落とす。
食卓上の照明はとっくに消されていたので、彼女のいる区画は完全な闇に沈んだ。
今はただ、表から差し込むわずかな街灯の明かりがあるだけだ。
視覚をサーモグラフに切り替える。
先ほどまで点いていたキッチンとリビングのライトが黄色く表示されて、まだ熱を持っていることを示す。
そしてもうひとつ、リビングのソファの上。
和歩が座っていた場所だ。
少しの間考えて、シンクの下のスライドを開け、タオルを一枚取るナツメ。
蛇口のハンドルを下げ、流れる水を布に染みこませる。
僅かに水が残る程度に絞ってから、ソファのほうへ。
先ほどまで和歩がいた、その隣に腰を下ろす。
雑巾をテーブルの上に置いて、僅かに表皮の歪みが残るそこを、指でなぞる。
「―――」
まだ暖かい。
「汚れていますネ。まったくご主人サマは」
独り呟いたそれは、何に対する言い訳なのか。
掌からはじわりと和歩の温もりが伝わる。
「―――」
そのゆるい温度が、ナツメのメモリにまで染み入ってくる。
思い出されるのは、夕方の商店街。
自分の手をつかんで、人ごみの中を逃げる彼。
少しきつい握力。
そして熱くなった掌。
思い出されるのは、夕方のリビング。
失敗作と思っていたお茶を褒めてくれた彼。
やさしくのせられた手。
髪を滑るように撫でてくれた掌。
その体温は今でもナツメの短期記憶領域に留まっている。
「ご主人サマ…」
まただ。
また、言葉が自然と口から漏れた。
それはエラーなのか、もって生まれた機能の一つなのか。
外気にさらされて、ソファの外皮の温度は次第に下がっていく。
今ではもうほとんど周囲と変わらない温域だ。
胸の辺りに感じたなにかを押しとどめて、ナツメはタオルで座面を拭いた。
汚れがないことをセンサで確認して(もとからほとんど汚れていなかったのだが)そのままセンサを二階に向けてみる。
動くものはまったくない。
和歩は既にベッドの中に入っているようだ。
呼吸と心拍を拾うと、彼がまだ眠りについたわけではないことがわかる。
「――おやすみなさい――ご主人サマ」
小さな声でそう言って、ナツメはリビングを後にした。


ソファに残留した水分が、夏にしては乾いた空気に昇華していく。
かろうじて残っていた、和歩の残滓を奪いながら。


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