第16話「TELEPHONE(前編)」

時は土曜日。『Bird Nest』副店長である俺、五代 剛は困り果てていた。
相談に来た八郎太(※第14話参照)が去ってからというもの、
恋人であり同店のチーフウェイトレスである草薙 凛がずっと不機嫌なのだった。
キッチンで料理の支度をしているその背中からは険悪なオーラがこれでもかとにじみ出ていた。
知り合った直後の刺々しい全てを拒絶するような物ではないが、やはり居心地は悪い。
(お客様に快適な空間を提供するのが仕事である筈のウェイトレスが場の雰囲気を悪くする事に長けているのはどうだろう…?)
等と思いつつも、俺はおずおずと凛に声をかけた。
「凛…いい加減機嫌を直してくれ」
「機嫌悪くなんてないですよ」振り返らず言う凛。説得力がまるで無い。
「むぅ…そうだ、何か手伝えることは無いか?何でも言ってくれ」
「別に無いので向こうでテレビでも見ながら待っていてください」取り付く島も無い。さっきからずっとこの調子である。
「…………………………………………」俺はついに言葉を無くし困り顔で立ち尽くす。
もし今の俺の顔を六華あたりが見ていたら『飼い主に叱られたシベリアンハスキーみたいな顔してる』とでも評しただろう。
「そんな顔しないで下さい。気分が悪くなりますから」
「誰のお陰でこんな顔をしていると思っている。俺を困らせないでくれ」
「…悪いのは、剛さんの方です」拗ねたように口を尖らせる凛。
「だから何が悪いのか言ってくれ。それを改善するよう出来るだけの努力をするぞ」
「気づいてないのが問題なんです。…本当、朴念仁なんですから」
「…今日は、二人っきりで居られると思ってたのに」
それは、とても小さな声だったが、それを聞いてようやく剛は全てを理解した。

「…そういう事か。だがアレは仕方ないだろう。俺を頼って相談に来た以上、力になってやらなくては。それが…」
「副店長の義務、ですか?」
「うむ、そうだ」
「それなら自分の恋人に対する義務や責任もしっかり果たしてほしいです」
「む…」
「私の事は二の次ですか、ほったらかしですか。酷いです、情酷薄です。私はなんて人非人と付き合ってるんでしょうか」
よよよ、とわざとらしく泣き真似をする凛。どこでそんなのを覚えてくるのだ。
いや、大体予想はつくと言うか一瞬見覚えのあるポニーテールが頭に浮かんだが考えないことにした。
「むぅ…っ」
「別に、何処かに連れてってほしいとか何か欲しいとか、多くを望んでいるわけじゃないです」
「剛さんと一緒に居たい。抱き合って、一日中ぼーっとしていたい」
「それだけで十分なのに…」凛の手が微かに震える。
「ちょっとくらい、空気読んでくれたって良いじゃないですか」
「こんな時くらい、自分の恋人を優先してくれたって、いいじゃないですかっ」
「そりゃあ私にとってもハチ君は大事な後輩ですけど。でも、でもぉ…」
「…今日だけは、2人っきりになれると思ってたから」
(…馬鹿か、俺は)凛の言葉を聞いた俺は己を責めた。
その大人びた外見からは想像も出来ないが、彼女はこう見えて寂しがりやで甘えんぼうな所があった。
確かに歳のわりにはしっかりしているが、それでも彼女はまだ17の少女なのだ。それを失念していた。
何か言わなくてはと思うが、いつもの如く言葉が出てこない。その事がとてももどかしい。
だから俺はとりあえず、凛を抱きしめた。

抱きしめる俺の手に伝わるあたたかさとやわらかさ。
その感触が凛が女性と言う繊細な生き物であることを思い知らせてくる。
そして、そんな彼女を蔑ろにした自分の愚かさも。
「ひゃ…っ」小さい驚きの声を上げる凛。
「済まなかったな。お前の想いに、気づいてやれなかった。心情を、汲み取ってやれなかった」
「…俺が一番大切に思っているのは凛、お前だ。傍に居てほしいのも。…これで、伝わったか?凛」
「わ、分かりましたよ、もう…にしても、何で急に抱きついたりなんか…」問う凛の顔は真っ赤だ。
「うむ。文が『もし彼女が寂しがっていたらとりあえず抱きしめてあげると良いよ』といっていたのでな」
「うわぁあの馬鹿店長なんて事をいうんですかぐっじょぶですよチックショウ」
「喜ぶか怒るか蕩けるか文句を言うかどれかにしておけ、凛」
「もう…口が回らないからって変な誤魔化し方覚えて」
「大体貴方は…」尚もぶちぶちと文句を言う凛。
「むぅ…そうだ、文はこうも言っていた」
「今度は何ですか?またあの人に馬鹿な事でも吹き込まれましたか?」
「まったく仲がいいのは結構ですけど貴方は…んむうっ!?」
さらに口撃を続けようとした彼女の唇を半ば無理やり俺の唇でふさいだ。
凛の体から力が抜けたのを確認すると、俺は唇を離し、言った。
「『まだ文句を言うようだったらキスで黙らせちゃえば良い』とな」
「こっ…この…」肩を震わせる凛。
「む、どうした凛―」
「馬鹿ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!」叫びとともに繰り出された凛の平手が俺の頬を打った。
星が見えた。と言うか銀河系が見えた。

「今のは中々痛かったぞ、凛」淡々と言う俺。
一瞬意識が飛びかけていながら彼女を抱く手を離さなかった自分を少しは褒めてもいいだろうか。
「うるさいです。少し黙ってください」むすっとした顔で凛は言葉を返し、
「でも…」そして頬を微かに赤らめ、
「もう少し、こうしていてもらえますか?」おずおずと、伏し目がちに言う彼女がとても可愛らしい。
「お前が、そう望むのなら」俺は、努めて優しく微笑む。
「…イヤ、ですか?」不安そうな目で、俺を見上げる。
「そうヒネた受け取り方をするな。そんな訳がないだろう?」
「でも…キツクあたったりして貴方を散々困らせて…」
「そのくらい、なんて事はない」そう、なんて事はない。
やきもちを焼くのも。
2人っきりでいるのを邪魔され不機嫌になるのも。
俺の至らなさゆえに、拗ねてむくれてしまうのも。
全ては、俺を想い慕うが故の事なのだから。
俺に対して心を開き、全てを委ね甘えてきてくれているからに他ならないのだから。
だから、本当に。なんて事はないのだ。
彼女のためならなんでもしてやれる。心の底からそう思う。
「剛さん…」
「む?なんだ?」
「私の事、嫌ってませんか?好きでいて、くれているんですか?」
「くどい。そこまで行くと卑屈でしかないぞ、凛。…当たり前の事を聞くな」
「すいません…でも、当たり前のことだから、聞きたいんです」
はにかみながら、凛は答えた。

嗚呼。なぜこの子はこんなにいじらしい事を言ってくれるのだろうか。
心の琴線に触れるとは、この事を言うのだろう。
「凛…寧ろこちらが聞きたい。正直、なぜ俺なのだ?好きになった俺から言うのも、何なのだが…」
「俺は、お前に対して彼氏らしい事を十分にしてやれていない。男らしいとは、言い難い。なのに」
「それでも、俺でいいのか?凛」
「…馬鹿です。そんな事、聞くまでもないじゃないですか」
「聞くまでもない当たり前のことだから、聞きたいんだ」
「…人の真似しないでください」小さく、溜息を吐く。
「済まないな」俺は苦笑する。
「ほら、またすぐ謝る。悪いくせです。直してくださいね」
「そうだな、努力しよう」困った。苦笑いを止める事が出来ん。
「確かに、貴方は―」
「鈍いし気が利かないし、朴念仁だし。女の子の扱いが全然なってないです」
「今日だって、ずっと楽しみにしてたのに…」
「むぅ…済まない」
「でも…」
「最後には、必ず私の傍に居てくれますし、今みたいに私を温かく包んでくれます」
「私、知っちゃいましたから。その温かさを」
「もう忘れる事なんて、出来ないんです」
「離れることも逃げることも、出来ないんです。貴方の、所為ですよ?」
責める様な言葉とは裏腹に、その口調と声音はどこまでも甘やかだ。
「もっとその温かさに触れていたい。どれだけ一緒にいても足りない」
「貴方を求める気持ちに際限なんかなくて。どんどん大きくなって行って」
「深みに、嵌っちゃうんですよ。もう、そこから抜け出すことなんて、無理なんです。はは、泥沼ですねぇ」
しようとも、思いませんが。と彼女は苦笑した。

「―凛。なんとも、可愛らしいな、お前は」俺は微笑むと凛の頭を撫でた。
艶々とした綺麗な黒髪が、さらさらと手を滑る感触がなんとも心地よい。
「きゅ、急に頭を撫でないで下さい…」
「厭か?」
「…そんな事聞くなんて、ずるいです。…分かってるくせに」
「済まな―おっと、すぐ謝るのは駄目なのだったな」
「君があまりに可愛らしい事を言うものだからつい、な」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」俺の言葉に身を震わす凛。
「言い訳してちゃ、同じですよ…馬鹿ぁ…」
「ふむ…なら、止めるか?」
「…もう少し、こうしてても、いいです」そう言いつつ精一杯の抵抗か、僅かに頬を膨らませる凛。
だがそんな顔も暫くすると、心地よさそうな、嬉しそうな穏やかな微笑へと変わって行った。
緩やかな、穏やかな2人だけの甘く心地よい一時。
だが、そんな時間は長くは続かないのがお決まりなのか。
それとも長く続かないからこそ、かけがえの無いものなのだろうか。
それはともかく。2人だけの時間は唐突に破られる。
凛の、携帯電話の着信音によって。
幸せそうに相好を崩していた凛の顔が途端に曇る。
しばらく、着信音を鳴らし続ける携帯を―正確にはその画面を―物憂げな、それでいて切なげな顔で見つめ続ける凛。
だが、出る様子が無い。その事について俺が声をかけようとしたその時。
着信音が、まるで観念したかのように止む。
すると凛は小さく溜息をつくと、携帯をポケットにしまった。
「…誰からだ?」
「…剛さんが気にすることじゃないですから」凛の言葉に。
「『あの人』、か?」なんとなく、そんな気がして聞いたその一言に。
「……………………!」息を呑み、びくりと肩を震わせ硬直する。
どうやら、その通りだったようだ。


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