その10

「持ってきたぞ」
 タカシの声に私は顔を上げた。
「何か冷蔵庫にレモンがあったからスライスして持ってきた。これでちょっとは見栄えも
するだろ」
『……ありがと』
 小さく私はお礼を言った。タカシが新しいグラスに氷を入れようとしたので、私は慌て
て止めた。
『あ、いいよいいよ。あたしが作るから』
「いいって。お客さんなんだしさ。気を使う事無いって」
 タカシが止めたが、私は首を振った。
『ダメ。自分の分量は自分で調節したいもの。タカシに任せてたらホントに酔っ払っちゃ
うかもしれないし』
 酔って寝落ちしたら目も当てられないからそう言ったのに、タカシは不満そうな顔をし
て言った。
「何だよ。別に酔わせて変な事しようとか、そんな事考えてないぜ」
 その瞬間、私の体がカッと熱くなった。
『誰もそんな事言ってないでしょっ!! ていうか、アンタもしかして……そんな事妄想
してた訳』
「ち、違うって。今、咄嗟に思いついただけの事だから。かなみの事だからもしかしたら
疑ってるんじゃないかって……」
 タカシは慌てて否定をした。私は、さっさとタカシのグラスに氷を入れ始めると、ちょっ
と不満そうな顔で答えた。
『そんなこと心配してたら、ここになんて来ないわよ。大体、アンタがそんな奴だったら、
高校の頃からいくらだって襲う機会あったじゃない。その点だけはヘタレだから大丈夫っ
て信じてるわよ』
「ちぇ。そこはヘタレと言わず、紳士だからと言って欲しかったぜ」
『そんな言葉、アンタに似合わないわよ。ヘタレで十分だわ。はい』
 私は薄めに作った焼酎の水割りをタカシに渡した。タカシにだって酔っ払ってもらって
は困るのだ。
「お、サンキュー」

 タカシが軽く、グラスに口を付ける。薄すぎるんじゃないかと文句を言われるかとも思っ
たが、タカシは普通に一口飲んで言った。
「うん、美味い。さすがOLやってるだけの事はあるな。飲み会の席なんかだと、よく水割
り作ったりするんだろ?」
『あー、うん。まあね』
 私は曖昧に頷いた。入社した頃はよくやってたっけ。最近だと自分で何かやろうとする
前に、後輩の娘達が率先して動いてしまうから、そういう事も無くなったなあ。もっとも、
気の利かない女の子だとも思われがちで、複雑な気分なのだが。
 とにかく、今は会社の事は思い出したくない。私はさっさと会話を切り替え、気分をタ
カシの方だけに振り向けることにした。
『ところでさ、タカシ。さっき……あたしがその、ちょっと考え事してた時、何話そうと
してたの?』
「ん? ああ、あれか」
 タカシはちょっと言葉を区切ってから答えた。
「そういえば、お前のおじさんとおばさん、元気かなって思ってさ。それだけなんだけど」
『ウチの親の事? 相変わらず元気よ。それがどうかしたの?』
「いや。俺が家を出る前日に挨拶して以来会ってないからさ。ガキの頃から散々お世話に
なったんだし、ちょっと気になって」
『別に、ウチの親の事なんて気にする事ないじゃない。大体、あたしが来る前に、ウチの
お母さんから連絡あったんでしょ? それで大体様子なんて分かるでしょうに』
「あー、まあ、そう言われればそうなんだけどさ。それに、電話じゃそんなに話す時間無
くて、娘を宜しくって言われただけで終わっちゃって」
『フン』
 私は面白くない気分で鼻を鳴らすと、焼酎を一口飲んだ。にしても、娘を宜しくとかど
ういう言い草だ。考えようによっては嫁に出すような言葉じゃないか。ウチの親なら言外
にそういう意図を滲ませてもおかしくないから困る。
『まあ、ウチの親なら相変わらずって言うか、年と共にますますおしどりっぷりを発揮し
て困るわ。年に二回は二人っきりで旅行に行くし、ご飯の時だって二人で仲良くしちゃっ
てさ。あたしなんて完全に蚊帳の外だし、アンタが生まれてから二人っきりなんてなかっ
たんだからさっさとお婿さん見つけなさいってプレッシャー掛けて来るし』


 すると、タカシは軽く笑った。
「へえ。いいなあ。そうやって年取っても仲良くやって行けるって。羨ましいなあ」
『確かにね。まあ、見せ付けられる方はたまったもんじゃ無いけど』
「はは。そりゃそうだな」
 ふと、私は思う。タカシとあたしが結婚したら、あんな風に年取っても仲良くやってい
けるのかなって。
 と、いけないいけない。危うく私達の結婚生活を想像してしまう所だった。これ以上タ
カシの前でボケーッとしていたら、それこそ妄想癖女になってしまう。慌てて私は脳みそ
を切り替えた。
『で、うちの親の事はいいけどさ。自分の親の事は気にならないの? ちゃんと連絡取ってる?』
 すると、タカシは急に苦い顔つきになった。
「…………いや」
 ボソッと、小さな声で否定する。
『ダメじゃない。ちゃんと連絡取らないと、おばさん、多分心配してるよ』
 私は、最近会ったタカシのお母さんの姿を思い出す。大人しくて綺麗な人だけど、最近
急に老け込んだイメージがある。
「分かってるよ。お袋に心配掛けてる事は。けど……まあ、何ていうかさ。喧嘩別れして
飛び出したも同然だから……なかなか、な」
 そう言って、タカシはグッとグラスの中身を飲み干した。私はすぐに、タカシからグラ
スを受け取ると二杯目の焼酎を作ってタカシに渡す。
『でも、そんなこと言ってたらいつまでも連絡なんて出来ないじゃない。せめておばさん
だけでも……』
 しかし、タカシは何も答えずに無言だった。何かマズイ方向に話を進めてしまった事を
後悔した。タカシがここに来るまでの経緯は知らない訳じゃなかったのに。私も含めてみ
んなに大反対されて、それでも強硬に、順調だった会社勤めを辞めてまで、こんな山奥に
来た事を。
 しばらく私もタカシも無言だった。沈黙も辛かったが、自分から招いてしまった気まず
さなだけに、何と言葉を掛ければいいか分からなかった。
「かなみ」
 不意に、タカシが沈黙を破った。私が顔を上げると、タカシは意外にも穏やかな顔つきだった。


「悪いけどさ。親父とお袋の事……時々でいいから、見てやって、俺の事とか伝えてくれ
ないか? 俺は、その……やっぱりまだ、ちゃんと顔を出せるほど一人前になっちゃいないし……」
『一人前だとかそんな事関係ないでしょ? おじさんは……まあ、ともかくとしても、お
ばさんは心配しているんだから、キチンと自分から連絡取るのが息子の義務ってものじゃないの?』
 思いついた事を口にしてから、私はジクリ、と胸が痛むのを感じた。タカシの気持ちな
んて何も分からないクセに偉そうに一般論をぶちまけている自分をみっともないとすら思
う。結局、これが自分なんだ。タカシに対してだけじゃなく、誰に対しても正論を吐くク
セに、自分の事となると何も出来なくて……
 鬱になった気分を振り払おうと、私はゴクゴクと焼酎を飲んだ。
「おい。そんなに飲んで大丈夫かよ。まあ、酔い潰れてもここで泊まるんだからそれはい
いとしても、明日の朝、二日酔いで苦しんでも知らねーぞ」
 タカシが止めたが私はタカシを睨みつけて反論した。
『このくらいで酔い潰れるもんですか。これでも、自分の体の事くらいよく知ってますか
ら。大きなお世話よ』
 タカシは知らない事だが、私は自分の焼酎はタカシよりもさらに薄めに作ってある。気
分的にはもっと濃くして飲み明かしたい気分だけど、せっかくの二人の夜を台無しにする
訳には行かなかったので我慢した。
「まあ、お前がそう言うならいいけど。ところで、さっきの話だけどさ……」
 タカシが話を元に戻した。
「お前の言う事はもっともだと思う。俺も、その……いつまでもこのままじゃあいけない
とも思ってるさ。けど……もう少し、時間をくれ。そんなに長くは掛けないから。だから、
それまでの間でいいから……頼む!!」
 両手を合わせてタカシはお願いしてきた。
 私はため息をつく。これ以上、タカシの言う事を突っぱねるのは酷と言うものだろう。
私は渋々といった体で頷いた。
『分かったわよ。とりあえず、その……こっちでの、タカシの様子は伝えとく。けど、あ
たしがいくら言ったって、あんたと直接話す方が、よっぽど、おばさんにとっては良いんだからね』
「分かってる。それは、必ず……けじめ、つけるから」
 伏目がちに、タカシは言った。
 私は、ハア、とため息をついた。

『それにしても、嫌な事を思い出させてくれるわよね』
 私の言葉に、タカシは顔を上げ、不思議そうな表情をした。
「俺……何かマズイ事言ったか?」
 私はポリポリと頭を掻いた。
『マズイ事って言うか……せっかく、今日は何もかも忘れてのんびりしようと思ってたの
に、今の会話でまた月曜日からの事を思い出して憂鬱になっただけ』
 両肘を机の上に置き、手で台を作ると私はその上に顔を乗せた。地元に帰ってからの事
を考えると、どうしてもいろんな事が蘇って来てしまう。
「何だ? 会社で嫌な事でもあったのか?」
 しかし、タカシにそう聞かれると私はゆっくりと首を振った。
『別にそんな事ないわよ。会社と家の往復だけの生活なんて憂鬱なもんよ』
「ま、確かにな。考えてみりゃ俺もそうだったか」
 タカシは小さく笑った。それからちょっと間を置いてから私に聞いてきた。
「どうだ? 最近、生活の方とか、仕事とか。楽しくやれてるか?」
 楽しかったらこんなトコ来ないわよ、と、これは心の中でだけのツッコミにしつつ、私
は聞かれないように小さく吐息をつくと、ニコリともせずに答えた。
『別に。まあ、そこそこってトコかな。楽しくもないけど不満もない、みたいな。仕事も
まあ……面白くはないけど、そこそこやりがいはあるし』
「そういやお前は短大卒だから、もう7年目なんだよな。結構ベテランじゃん」
『まあね。自分一人で動かす仕事も増えてきたし、後輩の子達が雑用やってくれるから、
あたしのする分は減ったしね』
 唐突に上司の顔が思い浮かぶ。人が忙しかろうがなんだろうが平気でコピーやお茶汲み
の雑用を頼んでくるし、ねちねちと嫌味を言うわでムカつく人種だ。その上、私より後輩
の女の子にはキモイくらいに優しくて。まあ、どのみち女の子には人気ないわけだけど。
「いいのかよ。あんまり後輩にばっか雑用やらせてると、そのうちお局様扱いされるぞ」
 冗談っぽくタカシは言ったが、その言葉は私の勘に触った。
『冗談言わないでよ!! あたしまだそこまで年じゃないもん』
 ムキになって怒る私を、タカシはまあまあと宥める。
「悪い悪い。冗談だからそんなに怒るなって」
『別に。そんなに怒ってなんかいないけど』

 不機嫌極まりない声で私は否定した。もちろん、タカシの言葉が痛い所を突いたからな
のは言うまでもない。
『言っとくけどね。若い子達とだって、あたしはそれなりに仲良くやってるんだから。確
かにそりゃ、新入社員の子達とだと話し噛み合わない事もあるけどさ。別にお局ぶって権
威振りかざしたりとかはしてません』
 もっとも、こっちがそんなつもりはなくても、向こうがどう感じるかは別問題だ。
「そんな風にムキになられると、却ってかなみが気にしてるんじゃないかって疑っちまうぞ」
『う…… その言い方、すっごいムカツクわ。言っとくけど、まだあたしだって27ですか
らね。そうやってタカシが言うからあらためて気にしちゃったけど、普段は全然、そんな
事思っても無いんだから』
 最近、30に近づくにつれて年の事はひしひしと感じてきているのに、私は嘘を付く。タ
カシにごまかしたところで何の益も無いのに。いいや。これは自分に対するごまかしなの
だろうか?
「じゃあ、まあまあ調子良くやってんだな。正直、俺があっちにいた時は会う度に愚痴ばっ
か聞かされてたから、気にはなっていたんだ。お前、近況連絡とか全然くれないし」
『だって、忙しくて全然書く暇ないんだもの。タカシに振り向ける時間があったら、まず
は他の事を優先するわよ』
「それはさすがに酷いだろ。俺はちゃんと、手紙やらメールやらでまめに送ってやってたのにさ」
『それはアンタの自由でしょ。返事を送るか送らないかはあたしの自由だもん』
「まあ、それ言われりゃ、そうだけどさ……」
 タカシは不満そうだ。もっとも、逆の立場なら私は絶対返事を要求したと思うけど。我
ながら虫のいい話だが。
 けれど、私だって返事を書きたくなかった訳じゃない。タカシからの連絡は嬉しかった
し、何よりもタカシがきちんと私を気に掛けてくれている事が嬉しかった。しかし、とり
あえず、何を書こうか、とかタカシが自筆だから私もそうした方がいいかなとか、写真を
何かつけたほうがいいかなとか、いろいろ悩んでいるうちに時間だけが過ぎて行って。ボ
ツになった手紙なら、捨て切れずに引き出しの中に眠っているし。
「正直な話さ。彼氏でも出来て、俺の事なんてどうでも良くなったのかと思ったりもしたんだぜ」
『なっ…………』
 タカシの言葉に驚いて、私は思わず、タカシを見つめたまま絶句してしまった。

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