その13

 私は思わず息を呑み、全ての思いを忘れ、時すらも忘れてその空に見入った。
 一面の星空……ううん。そんな気安い言葉で表現しきれるような物ではなかった。
 例えるなら……そう。真っ黒な台紙の上に、粒の不揃いな金色の粒子をドバッと撒き散
らしたような、そんな感じだった。余りの数の多さに私は言葉も無く、立ち尽くしていた。
「かなみ」
 タカシの言葉が耳に響き、ようやく私はハッと我に返った。
「あそこに座ろうぜ。その方が、首が疲れなくて済む」
『あ……うん……』
 星空から目を離すのは辛かったが、私はタカシの言葉に従い、誘われるままに草の上に
腰を下ろした。
 そして再び空を見上げる。凄い。凄い。どこを見ても星だらけだ。こんなの、自然じゃ
有り得っこない。プラネタリウムで見たってここまでの感動は味わえない。
「どうだ……凄いだろ?」
 タカシの問いにも私は無言だった。それくらい私はこの空に圧倒されていたのだ。
 不思議だ。この星空には、私を惹きつける何かがある。そんな想いが私を支配した。タ
カシと二人で、永遠にこの空の下で生き続けていきたい。その想いは、胸から全身へと広
がり、やがて堰を切って口から溢れ出した。
『……こんな星空が見られるなら……あたし…… ずっと……ずっと、ここにいてもいいな……』
 何の飾り気も無い、本心からの言葉を発してしまった事にすら、私は全く気付かなかっ
た。そして、タカシが驚いた顔で私を呆然と見つめていた事も。
「かなみ…… それって、本気で言ってるのか?」
 その言葉に、ようやく私は自分の言葉に気が付いた。そして慌ててタカシを見つめると、
タカシは何とも言えない、真剣な表情で私を見つめている。
 私はハッと口を押さえる。自分の言った発言の意味をようやく理解したからだ。慌てて
私は必死になって言い訳を探した。
『ちっ……違うわよ。その……例え話で、それくらい魅力がある星空だって言うだけで……』
 その時、私の脳内で泉美さんの声が囁く。
 『また、ごまかすんや』
 違う、そんなんじゃない。私は――

『べっ……別にアンタと一緒にいたいとか、そういう訳じゃ……』
 言い訳を言うたびに、胸が苦しくなる。
 『違わへんやろ? かなみちゃんの、ホントの気持ちはどこにあんねん』
 別に、泉美さんがここにいて、そんな事をしゃべっている訳でもないのに、脳裏に響く
その言葉は、妙にリアリティがあった。
『だから……その…………』
 その時、私は自分の頬を何かが伝うのを感じた。
 雨……? そんな訳ない。こんなに晴れているのに。
 木から落ちる水滴……? ここには、一本も木なんて生えてない。
 じゃあ、この液体は……何?
 私はゴシゴシと目を擦った。
 涙……? 私……泣いてるの? 何で?
 その答えは出なかった。ただ、自然に目から涙が零れ落ちているとしか言いようが無い。
「かなみ? どうしたんだ?」
 私の様子がおかしい事に気付き、タカシが気遣って声を掛けてくれる。私はタカシに顔
を見られないように顔を背けた。
『ううん。何でもない…… ただ……星が、あまりにも綺麗だから……』
 そう言って私はもう一度星空を見た。そして、その瞬間――
 ドクン。
 と、心臓が、痛んだ。
 ダメだ。
 もう、想いが胸に溢れていっぱいいっぱいになっていて、抑える事が出来ない。
『……ゴメン……』
 震える声で私は、タカシに謝った。
「どうした? 何を謝る必要があるんだよ。ここに来たときからお前……何かおかしいぞ?」
 タカシが不思議に思い、心配して尋ねて来た。けれど、もうダメだ。抑える事は出来な
い。そもそも、こんなに綺麗な星空の下では、強がりの嘘なんて付き続けられる訳無い。
そんな罰当たりな事、出来るわけ無い。
『ゴメンなさい……』

 私はもう一度、タカシに謝った。抑えきれず、目からは涙がボロボロと溢れて流れ出す。
『ウソだもの……上手く行ってるだなんて、全部……ウソだもの……』
 タカシが驚いた顔で私を見つめる。何か言おうと口が開きかけたが、私は首を振ってそ
れを制した。
『もう……イヤ!! 仕事も、会社も……都会の暮らしも……上司に愛想笑いするのも、
後輩達に気を遣って、気の利かない嫌味な女だ、お局さんだと思われないようにするのも、
親から結婚についてプレッシャー掛けられるのも……全部イヤ。帰りたくない!! タカ
シがいたから……タカシがいたから、楽しかったんだもん。タカシのいない都会に帰るな
んてイヤ!! ここにいたい。ここにいて……タカシのお手伝いをして……ずっと二人で
一緒に星を眺めていたい……いたいよぉ……』
 全部吐き出してしまうと、もう我慢出来なかった。私はそのまま、すぐ隣りに座ってい
たタカシに、全身を預けるように抱きつく。
「おわっ!?」
 驚いた声を上げて、タカシが私を抱き止めた。勢いで後ろに倒れ掛かるが、何とかタカ
シは踏みとどまり、そのまま両腕で私を抱えてくれる。私はもう言葉を発する事も出来ず、
ただ、タカシの胸に顔を埋めて泣いていた。
『うぇっ……ひっ……グスッ……ヒクッ……ヒック……』
 無我夢中で泣きながらも、私はしっかりと感じていた。巻きつけた両腕から感じるタカ
シの逞しさ。暖かさ。そして頭を撫でていてくれるタカシの手の優しさを。
 そうしてそのまま、どのくらいが経ったのだろう? 私には時間の感覚は全く無くなっ
ていたので分からないが、10分か20分か? 或いはもっと経ったのだろうか?
 いつの間にか嗚咽は収まり、私はただ、無言でタカシにしっかりと抱きつき、タカシも
また、無言で頭を撫でながら、優しく私を抱いてくれていた。
 だんだん冷静になってくると、今度は身の内から恥ずかしさがカアッと湧き上がり、心
臓が激しく鼓動を打ち始めた。勢い余った行為とはいえ、何てことをしてしまったんだろう。
 だけど、もう取り返しはつかない。私は覚悟を決めざるを得なかった。
 しかし、その前にこの状況だけは何とかしなければ。もはや恥ずかしさはピークに達し、
このままではまともに話すことはおろか、考える事すら出来ない。
『ゴメン……もう、落ち着いたから……』

 私はそう言って顔を上げると、タカシの体をそっと押した。タカシの体から私の体がス
ルリと抜ける。そのまま私は体を起こし、草の上に座り直した。そのまま、タカシに背を
向けてしまう。
 そのまましばらく、私は無言だった。タカシも、一言もしゃべらなかった。
 いっそこのまま……何も言わなくても、時だけ止まってくれればいいのに。そうしたら、
ずっとタカシと一緒にいられるのに……
 だけど、それは儚い願いだと言う事は分かっていた。だから、私は、言わなくてはなら
なかった。
『さっきの話……』
 ポツリ、と独り言のようにしゃべる。
「ああ」
 タカシが頷く声が聞こえた。胸がまたドキドキと高鳴る。私は右手でギュッと草を握っ
た。
『……あたし……本気だから』
 震える声で私は呟いた。そのまま、背を向けたままでしばらく間を置いてみる。しかし、
タカシは何とも言わなかった。たまらず、私はタカシの方に振り返った。
『だからお願い。タカシ。あたし……ここにいたいの。だから……いいでしょ?』
 しかしタカシは何も答えず、真剣な顔で私をジッと見つめているだけだった。
 何で? 何で何も言ってくれないの?
 不安になった私は、タカシを急かした。
『答えてよ、タカシ!! ねえ。ねえってば!! いいでしょ?』
「ダメだ」
 低く、小さく、タカシは振り絞るような声で言った。
『え?』
 私は耳を疑った。
『ま、待って。今……何て言ったの?』
 自分の聞いた事が信じられなくて、私は慌てて聞き返した。しかし、タカシの答えは
同じだった。
「ダメだ、と言ったんだ。少なくとも……今はまだ、な」

『何で……何でよ!!』
 私は絶叫した。有り得ない。タカシがそんな事を言うなんて。いつだって私達は一緒
だったはずだ。小さい時からずっと、高校を卒業するまで。そしてその後だって、学校が
違っても、私達は頻繁に会ってた。確かにタカシは私を置いてここに来てしまったが、そ
れだって、タカシは事あるごとに連絡をくれた。
 何で今になって拒まれるのか私には理解出来なかった。
『教えてよタカシ!! 何でダメなの? あたしならタカシの邪魔なんてしない。重荷に
なんてならない。ここの女の子達みたいにタカシに養ってもらうなんて考えてないもの。
ちゃんと自分で働くから。そして、タカシの研究の手伝いもする。逆に、もし邪魔だって
言うならタカシのやっかいにはならないから。ちゃんと一人で暮らすから。だから……お願い……』
 もう恥も外聞もなく、私は必死でタカシに訴えかけた。タカシに捨てられたくないとの
思いだけが、もうそこにはあった。
 タカシの顔が苦痛に歪んだ。
「違う。そういうことじゃないんだ」
 その言葉に、私は絶句する。
 そういうことじゃないってどういうこと? つまりそれは……
『もしかして……あたしに、来て欲しくないってこと?』
 震える声で私は問い質した。
『それって……あたしが、嫌いだから――』
「そんな訳あるか、バカ!!」
 私の言葉を遮ってタカシが怒鳴った。しかし、私はそう言われても納得出来なかった。
再び涙声になって、私はタカシに詰め寄る。
『バカとは何よ!! だってだって……あたしがここに来る事自体がイヤだって……それっ
てそういう事でしょ? 他に何の理由があんのよ…… 答えなさいよ!! 教えてよ!! 
何でダメなの? 何で?』
「いや、だから誰もイヤだとは言ってないだろ? 落ち着けよかなみ」
『だって来るなってことはイヤだってことと同じじゃない。理由言えない訳? もしかし
たら、ホントは他に好きな子が――』
 そこで私の言葉は、再びタカシによって遮られた。今度は言葉ではなく行動で。
 激昂した私を、タカシは再び、その両の腕で、しっかりと抱きかかえたのだった。


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