お勉強編→料理編 転章

「で、隆志から取られた消しゴムを取り返そうとしてふざけてるうちにもつれて倒れたと、
こう言いたい訳?」
「ああ。あ……あれは事故だ。決して手を出そうとした訳じゃ……」
 冷えたタオルであごを冷やしながら、隆志は答えた。が、傷はそれだけではない。体中
に引っ掻かれたり殴られたり、蹴られたりした後が残っている。
「静恵さんも……隆志の言う事に間違いはない、とおっしゃるわけね?」
 理奈は、隆志の横に、申し訳なさそうに小さく正座する静恵を一瞥した。静恵は、コク
ン、と小さく頷く。
 本当は、洗いざらい真実をぶちまけてしまいたかった。だけど……速攻で隆志が言い訳
を作った以上、彼を裏切ってまでここで修羅場を演出するわけには行かなかった。第1ラ
ウンドは、自分の負けである、と静恵は素直に認めざるを得なかった。
「う……うん。ただ……男の人と、ああいう形になったのなんて、もちろん初めてだった
から、私、動揺して……どうしたらいいか分からなくなって…… で、でも、別府君は紳
士だったよ。何もしなかったし……」
「襲い掛かっていたら、今頃は東京湾に浮かべておりますわ。ま……静恵さんもああ言っ
ていることですし、このくらいで大目に見て差し上げますわ」
「今度から……暴力を振るう前に、訳ぐらい聞いてくれよな……」
 なんかカクカクするあごを押さえながら、隆志が文句を言うと、理奈はキッ、と彼を睨
み付けた。
「冗談じゃありませんわ。あれを見れば、どうみても静恵さんの危機としか思えませんも
の。そんな暇ありませんわ」
 必要以上に声を荒げて、理奈は言った。それには、理由があった。
 何となく、理奈は気づいていたのだ。二人が嘘をついているだろう、と。そして、恐ら
く、静恵の方から誘ったのだろうという事も。隆志が自分から女性を襲うなど有り得ない。
そんな男でないと、理奈は信じていた。
 なのに、何故、隆志にばかり当たったのか。それは、あそこで静恵に本当の事を詰問す
れば、当然自分も隆志に対して本心を明かさなければならなくなる。
 理奈は、それが怖かった。
 だから、必要以上に隆志に辛く当たったのだ。今は、その事に対する自己嫌悪で、余計
に理奈は苛立っていた。
「すみませんでした。神野さん」
「貴方が謝る事ではありませんわ。もともと悪ふざけしたのだって、タカシでしょう? 
自業自得ですわ」
「よく言うぜ……イテテテテ……」
「大丈夫? 別府君」
「大丈夫だよ。これくらい……」
 二人の様子が妙に馴れ馴れしく見えて、理奈の不快感は加速した。
「さあ、タカシ。もう帰りますわよ」
「……え?」
 理奈の言葉に、静恵が顔を上げた。理奈を見ると、机の上に出してあった勉強道具を
さっさと片付け始めている。
「も……もう? だって……まだ……」
 勉強の途中なのに。そう言おうとしたが、その声は途中で、理奈の声に遮られた。
「こんな雰囲気で、勉強できる訳ありませんわ。ほら、タカシ。何をボサッとしているの?」
「あ、ああ…… 分かった」
 隆志はうなずいた。さすがに、今日はこのまま勉強を続ける空気で無い事は、彼にも察
せられる。理奈にならって、彼も帰り支度を始めた。
「あ……ちょ、ちょっと待って!」
 静恵の言葉に、理奈と隆志は同時に彼女の方を見た。
「あ……えーと……あの、そのお…… も、もう遅いし……良かったら、うちで、夕食を
食べていかないかな?……って」
 しどろもどろになりながら、静恵は言った。その提案に、隆志と理奈は思わず顔を見合
わせる。
「な……何か……あんまり、別府君にも教えられなかったし……神野さんには気分の悪い
思いをさせちゃったし……その、お詫びも兼ねてってことで……」
 理奈は、眉をひそめた。
――冗談ではありませんわ。これ以上タカシを彼女の誘惑の危険にさらしておく訳には……
 そう思った時、隆志の言葉が理奈の思考を遮った。
「わ……悪いよ、そりゃ。ご両親だって留守にしてるっていうのに」
「大丈夫です。親からは……」
「と、言う事は、静恵さんが手料理を振舞ってくださるという事ですの?」
 静恵の言葉に割り込んで、理奈が言った。
「えっ? わ……私……?」
 静恵は驚いて理奈を見た。彼女は、静恵の方を見て微笑んでいる。
「ええ。ご両親が留守にしてらっしゃるから、てっきりそうなのかと…… でも、それこ
そ悪いですわ。静恵さん、確かお料理のほうは、余り……」
「いえ、大丈夫です。いっ、一応……練習、してますから……」
「そういうことですの。でしたら、わたくしにも手伝わせていただけませんこと?」
「えっ!? じ……神野さんが……ですか?」
「ええ。二人でしたら、結構本格的に作れるでしょう? それに、よくよく考えてみれば、
静恵さん一人の夕食というのも寂しいでしょうし、一緒なら楽しく料理も出来ますわよ。
ねえ、タカシ?」
「あ……ああ、そうだな。理奈がそう言うなら……ご馳走になるのも悪くないな。それに、
女の子の手料理食べられる機会なんて、滅多にあるものじゃないし」
「どうして貴方は、そういうスケベったらしい発想しか出来ませんの? 全く、誰もタカ
シに食べさせるなんて一言も言っておりませんわ」
「ちょ、それ、ひでえな。俺は晩飯無しかよ」
「あ……私は……別府君にも食べて欲しいな」
 咄嗟に突いて出た静恵の言葉に、隆志は微笑んだ。
「ありがとう。誰かさんと違って優しいな。藤代さんは」
「い……いえ、そんな……」
 理奈は、隆志を睨みつけた。本当は静恵を睨みつけたかったのだが、そこはグッと我慢
して、その分まで隆志に八つ当たりする。
「嫌味ったらしい事言っていると、本当にわたくしの分は食べさせませんわよ。食べた
かったら、もう少し、言葉に気をつけなさい」
「はいはい。了解了解」
 フン、と冷たく言い放って、理奈は片付けを続けた。が、内心では訪れた幸運に喜んで
いた。
――ふふ…… いつか、タカシに食べさせようと料理の特訓をして来ましたけど、まさか
こんな良い機会が来るなんて、思っても見ませんでしたわ。それに、静恵さんは料理が苦
手ですもの。いくらタカシでも、わたくしの方が優れていると、認めざるを得ないはずで
すわ。
 理奈が、自分の機転に得意がる一方で、静恵はと言えば心中、不安で一杯だった。
――どうしよう……別府君に……まだ、帰って欲しくなかったから……勢いで、あんなこ
と言っちゃったけど……まさか、自分で料理する事になるなんて…… 神野さんも、何て
事言うんだろ……
 静恵はチラリ、と理奈を見た。その視線に気づき、理奈が微かに微笑む。
――神野さん……わざと、ああ言ったんだ…… 私が料理が得意でないのを承知で…… 
でも、負ける訳にはいかない。絶対、別府君に、美味しいって言ってもらえるように頑張
るんだから。


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